カッコ

寒い一日。とりあえず仕事を進める。20時過ぎに会社を出て帰宅。クリスマスだからといって,通勤途中になにか面白いことが起きるわけはない。『アオイホノオ』22巻を買って読む。

昨日のエントリーを書きながら,職業に貴賤のない小説の世界について,少し考えた。ある時期までの矢作俊彦の小説はプロフェッショナルだけの世界を描いたもので,そこでは人物の貴賤はない。あるのは巧拙のみだ。だから,それはフラットな差異による戦後民主主義の世界を描いた小説であるともいえる。当時,さまざまなかたちでみずから,そのことについて触れていたはずだ。ただ,巷の小説と比べると,かなり特殊な小説であることは,あまり気づかれないかもしれない。

ある時期以降の矢作俊彦の小説では,巧拙以外の違いで,「上下のクラス」が描かれるようになる。『スズキさんの休息と遍歴』よりも,むしろ連作「東京カウボーイ」シリーズにその傾向は強く示されている。「レインブロウカー」や『ハード・オン』の”J”には感じることがなかった「外部の視線を通した社会批評」が,「東京カウボーイ」シリーズになるとそこに軸足を移す。『ららら科學の子』で,それは「記憶」とともに大きなテーマになる。とともに,視線は上下のクラスを規定し始める。規定されたクラスをフラットに揺り戻す描写や設定が希薄になり,いきおい上下のクラスは確定されてしまう。そこに巧拙をめぐる問題が据えられてはいるものの,初手から拙劣なものとして規定されてしまうのが,このあたりの小説だと思う。

フラットな差異による戦後民主主義を,矢作俊彦は日活アクション映画の世界に見出したのだけれど,それさえもあだ花だったのではないかと,繰り返し振り返っている。昭和が終わり,カッコ付きの戦後民主主義からようやくカッコがはずれるのだ,とさりげなく記してから30年を経て,結局,戦後民主主義どころか奇矯な全体主義が蔓延するとは夢にも思わなかっただろう。『犬なら普通のこと』や『引擎 engine』に惹かれるのは,21世紀にフラットな差異による戦後民主主義を描いたためかもしれない。どちらも幸せな結末が用意されていない,とはいえ。(加筆修正予定)

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