永遠の工事現場に生まれて

矢作俊彦のエッセイに「永遠の工事現場に生まれて」と題されたものがある。阪神淡路大震災直後,被災地に向かった際のルポとして「NAVI」に寄稿後,『ツーダン満塁』に収載された。初出時には,矢作撮影による写真が数葉紹介されている。

好むと好まざるとにかかわらず,新型コロナウイルスをめぐる言説を目にせざるをえないなか,このエッセイの最後の数十行(長すぎだ)を反芻してしまう。

いや,本性を露にしたのは風景だけではない。じたばたしている為政者たちがそうだ。危機管理の掛け声はいいが,本当の危機は,ここにあるのではなく,手前らの胸の中にあるのだということに気がついていない。

そこに気がついてしまうと,やれ,災害救助犬の入国に検疫があるとクレームがついただの,外国企業が無償貸与しようとした携帯電話に登録の義務を課しただの,世界のあちこちで物笑いの種になっているようなことは,もう瑣末なことなのだ。

(中略)たしかに,人々は理性的だった。何より歩いていけるところには,平和な日本の日常がある。行ける人は,静かに黙々と東を,あるいは西を目指した。結局,歩けないもの,歩いていっても,そこに何の活路も見いだせないもの(こんな言葉を使うのは,生まれて初めてのような気がするのだが),要するに弱者が,そこに残った。残ったのではない。そこに棄て去られたのだ。誰から? もちろん,山を削り海を埋め,トタン張りのあばら家に近代都市の厚化粧を施した連中に。

(中略)最後の日,通りかかった道路脇で,数軒の自動車ディーラーのショウルームがぺしゃんこに潰されていた。いや,一軒だけが辛うじて形を止めていた。メルツェデス・ベンツのショウルームだった。覗き込んでみると,一台のメルツェデスがトラスを支えているのだった。Aピラーがちょっとひしゃげているだけで,後はどこにも異常がなかった。一メートル幅の鉄筋コンクリートのトラスを,それもSLが一台でだ。その隣では,軽量鉄骨のトラスで国産車が六台,物の見事にぺしゃんこになっている。

悲しかった。

「お前の生まれた国の〈民主〉も〈近代〉も,所詮はその程度さ」と,ヨーロッパ人に言われてような気がしたのだ。

「格が違うよ,格が」と。

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