余裕

薬の副作用で頭痛がする。鎮痛薬を飲んで出社。連絡やらもろもろのチェック,サイトの更新と,すべきことは山積み。淡々とこなす。19時前に退社。高田馬場で休憩し,「陽のあたる大通り」を読み進める。面白いなあ。帰宅後,夕飯をとり,テレビを観る。五苓散の副作用で嗄声が非道い。とりあえず夜からは中止にする。副作用ばかりだ。

「恐怖奇形人間」は大井武蔵野館で上映されていた初期には,ラストまで場内がたまにざわつく程度だった。それが文芸坐地下でオールナイト上映されたときはラストで拍手が起きた。大林ファンで「ハウス」を名画座で観るたび同じように起こる拍手に鼻白んでいた徹は「ケッ」と一言,始発待ちの池袋に溶けた。

われわれが最も嫌っていたのは,「余裕」で「たのしみ」を台無しにする所作だった気がする。向こう側もこちら側も。 それにもかかわらず,笑いは不可欠だから厄介だ。われわれの笑いは,だから決して余裕から生み出すものじゃない。あ奴らはそこを履き違える,というか土足で上がってくる。で,あ奴らって? 「余裕」を取っ払って後,外に開く奴とでも,ここでは言っておこう。「世間を審判官にして争う程,未だ僕は自分自身を軽蔑したことは一度もないのである 」という辻潤の言葉を目にしたとき,ああ,これはあ奴らの反対だと感じたことを思い出す。

とツイート(後半は加筆)した理由はよくわからない。日高屋で休憩していると,文芸坐地下でのことが思い出された。17年前の5月に思い出した記憶とあまり変わっていない(ここ)。

音楽にしても映画にしても,余裕をもって接する奴らが苦手だった。そ奴らを嗤うことはあっても,そ奴のように笑うことは決してしなかったはずだ。どうして,あんなふうだったのだろう。少しだけ考えてみた。

くるり「ワールズエンド・スーパーノヴァ」の歌詞が示すように,「本当のあなたの本当の言葉」を知りたかったのではないかと思う。嘘いつわりのないもの,たとえそれが嘘であっても本当の嘘ならばよろこんで受け入れる。正確に言うと,本当の嘘を探しているかのような態度だ。徹にしても昌己にしても,それは喬史や伸浩,裕一にも共通する態度だった気がする。本物に向き合うとき,余裕はあろうはずがない。北田暁大が21世紀になって記した本は,だからわれわれの態度と似て見えるかもしれないけれど,まったく異質のもので,的を射ていないことは最初に読んだときに感じた。

にもかかわらず,「本当」などとは口が裂けても言えない。厄介さを抱えながら,時々の動きに身を委ねた。「恐怖奇形人間」は17年前に書いたとおり,江戸川乱歩の小説を原作にした映画ではない。三輪明宏がどこかで述べたように,人工分にどっぷり浸かった絢爛豪華趣味の虚構世界(「黄金仮面」や「黒蜥蜴」のようなもの)とは質がまったく違う。出だしからして精神病院に幽閉される主人公は,『ドグラ・マグラ』のそれを擬えている。途中はまるで「キーハンター」のようであるし,物語は『孤島の鬼』ではなく『パノラマ島奇談』を陳腐につくったにすぎない。

にもかかわらず,本当に何かを(江戸川乱歩の世界じゃないところが厄介なのだけれど),もしかすると人外を描こうとしたことだけは伝わってくる。描こうとした何かは余裕をもって消費する類のものでは決してない。少なくともわれわれは,モラルのようにそう思い込んでいた。だから徹は,あの夜,拍手する奴らを横目に「ケッ」と一言,池袋に溶けたのだ。その所作を恰好つけすぎだとは感じなかった。感じたのは居心地の悪さだ。客の変化によるものだとは明らかだ。大井武蔵野館にはなかったタッチなのだから。

ただ,その後30年以上経て,結局,余裕によってたのしみを台無しにする奴が,世の中にあふれていることはわかった。画面に映る魚眼レンズを,阿呆のように君づけしてたのしむような,それはクラスターとどこか重なる。たのしむなら,まず余裕を捨てていることが前提のような気がする。

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