レボリューション

16時過ぎに会社を出る。新井薬師前駅の駅前にある文林堂書店がやっているかと思い覘くが,月末まで休業。下落合まで戻り,駅前のスイーツショップでアイスを買って帰る。1時間弱眠り,踊ってばかりの国のレコーディングドキュメンタリーを観る。夕飯をとり,テレビを観て0時過ぎに眠る。

斎藤純『レボリューション』(ハルキ文庫)を読み終えた。一度,読んだことがあって,この版だったか,角川書店で出たものか忘れてしまった。

ああ,古いなあという読後感は拭いきれない。ロバート・フリップであれば,いくら改稿しても軋み指数が高すぎて,この骨格のまま小説を刊行することは躊躇ったであろう。小説には,古臭さだけを感じるものがあると想像していたけれど,ストレートに伝わってきたのは,もしかするとこれが初めてかもしれない。

古臭さが面白さにつながる小説はいくらだってある。そうではなくて,ただ古臭いだけという意味ではめずらしい。

フィルモアを日本で復活させるという骨格にあるアイディアには,昨年の全感覚祭渋谷を経た身にしてみると,ロックっぽさのかけらも感じられない。「築地」の意向を伺いながら進めているあたり(最後にはチャラになるにしても),何だかなあという感じだ(当時,電通は「築地」よりも「木挽町」と言われていた気がするが)。バブル崩壊あたりの時代設定で,実名のトップミュージシャンとして登場するのが,Charにホッピー神山,小田原豊。亡くなったロックミュージシャンのアンセムをニール・ヤングと日本のロックミュージシャンが日比谷野音で歌うという幕引きはさすがについていけなかった。

カタストロフィを描くのが不得手なマンガ家に星野之宣がいて,『ヤマタイカ』のモブシーンの様になっていない様子は読み返すたびに,もう少しなんとかならなかったのだろうかと思うが,『レボリューション』ラスト数十ページの感覚はそれと似ている。

『暗闇にノーサイド』の後半や『悲劇週間』のカーニバル場面,『傷だらけの天使 魔都に天使のハンマーを』のドンキホーテ爆破あたりで,矢作俊彦がいかに魅惑的にその手の場面を描いたかを思うと,この小説家には明らかに技術が足りない。

アイディアが軋み,技術が足りない。『レボリューション』はざっくりいうとそういう物語だ。ダメな小説だけれど,若い頃,放送業界の下っ端で糊口をしのいできたので,ラジオ局の様子だけは面白かった。ただ,そこでもDJの呼びかけでリスナーが行動制限するあたり,やはりお行儀よすぎなのだ。

当時,広告業界には,CMを洗脳に使うことを考えていたスポンサー団体の理事連中がいたわけで,無頓着というか能天気さが小説を読むたのしさにつながるならまだしも,とにかく欠落した感じが立ち上がってくる。

昨年の全感覚祭渋谷をアイディアに,斎藤純が小説を書いても,たぶん面白いものにはならない気がする。それにもかかわらず,斎藤純の小説を読んでしまう理由があるとするなら,自分ならばもっと面白い物語にできるのではないかと想像させてくれる点かもしれない。非道いいいかただけど,そういう小説ってあまりないもの。

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