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暑い。18時まで仕事。家内からLINEが入る。道でつまずいて足の小指をねんざしたようだとのこと。クリニックへ寄るというので,夕飯を買って帰ることにした。小指を軽く? 骨折してしまったらしい。買ってきたもので家内と夕飯を済ませる。少し風邪気味だったため,1時間ほど眠る。21時過ぎに娘が帰ってきて夕飯をとる。

昼休みにコンビニへ行ったときのこと。事務所とコンビニの間には不忍通りがある。信号が赤に変わったので,手持無沙汰に店内のマガジンラックを眺めていると「リンネル」が目に入った。何年か前,「ku:nel」の編集長が変わったときだったか,Amazonのレビュー欄に書き込みが続き,あげく「この欄に書き込みしている人と一緒に雑誌をつくりたい」という内容だったかが,象徴的にピックアップされたことがあった(確認したところ,Amazonのサイトに,記憶にあるような書き込みはほとんど残っていない)。

美談というか,わかるわかる,そうそう,というように共感をあおるかのような記事を読んだ気がする。そのときに感じた居心地の悪さを信号待ちのコンビニで思い出した。居心地の悪さというか,動員されてしまいかねない暴力性というか,そんな雰囲気だ。

常々,CGMにはよい印象をもっていない。「そうなってしまうもの」と「そうしようとしたもの」の違いにくたびれているからなのだろうか。どうつながるのかわからないまま書いてみると,キング・クリムゾンのアルバム「太陽と戦慄」国内盤は最初のリリースの後,何度か限定廉価盤が出た。定価2,300円のものが2,000円,そのくらいの安さだ。私が手に入れたのは廉価盤で,これが非道い音だった。レンジが狭すぎるので,ダイナミックからほど遠い演奏しか聴くことができない。1980年前後,英国盤は音がよいが高価で,米国盤は音が悪いが安価。そういう評価軸で輸入盤と国内盤を比較しながらレコードを購入ていた頃のことだ。

数年後,英国盤の「太陽と戦慄」をセコハンで手に入れた。ターンテーブルに乗せると聴こえ方があまりに違うので驚いた。で,同時期に輸入レコード店に並ぶ日英米3枚のセコハンLPの違いは「そうなってしまうもの」だ。「そうなってしまうもの」をどう選ぶか,あれこれ考える。

これに対し,リマスター,リミックスは「そうしようとしたもの」で,LPからCDの時代に入り,「そうしようとしたもの」がいまだ斯界を闊歩している。私があれこれ考えるのは「そうなってしまった」ものに対してであって,「そうしようとしたもの」についてはどこか辟易としてまうところがある。

CGMは,私にとって「そうしようとしたもの」だ。そこに動員され書かれた言葉で,あれこれ考えたくはないというのが正直なところ。CGMで起こる共感のようなものに,かなり白けてしまうのは,「そうしようとしたもの」への忌避反応なのだろう。世の中で幅をきかせているのは「そうしようとしたもの」だから,居心地悪いったらありはしない。

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