喜怒哀楽

雨。少し寒いくらい。早出週間で,朝はもう何でもありというか,排除されないかぎり,距離感など保たれようもない。16時過ぎに仕事を終えて,帰る。伊野尾書店に寄り,岬書店の新刊2冊を購入して日高屋で休憩。片方を少し読んではもう片方に移り,1/3くらいまで進んだところで『犯罪季評』の続きを読む。家に帰り,1時間くらい眠る。夕飯をとり,テレビを観る。

『犯罪季評』を読み返しながら,80年代の犯罪に関する読み物(のすべてではないにせよ)は,(笑い)が行間に充溢するどころか,誌面にも出てきたことを思い出す。

1980年代というのは,今の基準に照らしてみると喜怒哀楽がまったく異なって表されたように思う。今の基準がまっとうなのであって,当時が妙だったことに,ようやく気づいた。ここのところ何度か書いたように,音楽を演奏したり聴いたりするなかで,楽しさや喜びの感情は,とにかく一義的なものでなかった。出てこようものなら,押しとどめる。怒りや哀しみはまだしも,できるかぎり淡々とするという前提があった。私たちのまわりだけかもしれないが,音楽=淡々,もしくはせいぜい怒り,哀しみだ。

事件犯罪に関して書かれたもの求めたのは,行間の(笑い)だった気がする。魔の抜けた,にもかかわらずそれは殺人事件であったり,詐欺事件であったり。書き手の怒りをストレートに伝えるのではなく,喜怒哀楽がズレて伝わるような伝え方だった。それは特殊なことではなかった。おのずと沸き起こるであろう感情を違和感で一度,吊るしてから落とすような感じ,といえば少しは当時の様子に近づくだろうか。なぜ,そんなめんどくさいことをしようとしたのか,実際にしたのか,理由はよくわからない。

90年代に入ってからの悪趣味ブームは,喜怒哀楽のズレを意図的にしたものだ。80年代の必ずしも意図的ではなかったそれと,どこかで決定的に違うものだろう。

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