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気圧の影響で,このところからだが重い。以前のように偏頭痛直結とまではいかないものの。朝食をとる時間はなく,途中でパンを買って出社。18時過ぎまで仕事。

雨風が間欠的に降る。中井で降り,伊野尾書店で,北澤豊雄『ダリエン地峡決死行』を購入。家に帰り少し眠る。家内と夕飯。娘が帰ってきて,テレビを観ながらだらだらと。

都知事選を前に,タイムラインを90年代前半の反省のような投稿が流れてきた。了解可能な面と,違和感とが混ざり合って妙な具合だ。

違和感とは,正解探しでないかたちで,ものごとに向き合う術がなくなってしまったかのような印象のことで,結局,あらかじめ正しいとされるもののほうに無判断・無批評でつくかのような。

そうなると,マーケティングの専門家に容易く絡め取られてしまうのではないか。「明るいだけじゃただのバカ」から「バカじゃなかった明るい奴」に絡め取られてしまったのと,それはどこか似ている。正しさ,面白さがはらむ危うさを嗅ぎ分けられない。選挙について,A候補の正しさ愚かさ云々ではなく,A候補に投票することの巧拙で切り分けていかないと,欺瞞の聖人君主像をつくり,あげくは週刊誌やスポーツ新聞の醜聞あさりに寄与して潰えるの繰り返しだ。

候補者を面白がってもかまいはしない。そのことと投票行動の巧拙はまったく違う話なのだ。

小学3年生の晩秋だったと思う。当時,生徒会長の投票権は小学3年生以上となっていたはずで,転向,もとい転校してきたばかりの私にとってはクラスを越えた世間がわからないまま,初めて迎えた選挙だった。給食時間になると,各候補と応援者が教室をまわる。候補者のことなど記憶にない。残っているのは応援者のパフォーマンスだ。ある候補者の応援者は,小柄な男の子で,クラスの人気者という風情。一団が教室に入ってくると「清き一票」よりも先に「タブー」が流れ始める。当時,人気だったザ・ドリフターズの加藤茶よろしく,曲に合わせて笑いをとりながら踊る。それが各クラスで人気を博した。

他の候補の応援はまじめなものもあったり,少しだけくだけたもののあったりした。加藤茶の物まねは圧倒的だった。あの応援,というよりもパフォーマンスが観たい。人気は加速度的に高まった。まるで,それは「うちの子にかぎって」や「野ブタ。をプロデュース」の1エピソードのようだった。

私がどの候補者に投票したか覚えていない。ただ,加藤茶の物まね応援を得た候補者が生徒会長になったことは確かだ。選挙ってこんなものなのか。まるで誰が人気者かを選ぶみたいだ。

次の選挙では教師から抑制がかかり,応援の際,候補者に関係のないことを行なってはいけなくなった。

あの候補者に投票したからといって,毎日,給食の時間に加藤茶の物まねが教室をまわるわけではない。仮にそうであれば,あの候補に投票する意味はあったかもしれないが。

あの候補者は特別に正しいわけでもない。選挙期間の応援の面白さだけで,私たちに投票させようとした候補者に対し,結局,私たちの投票のかなりの部分はその面白さに絡め取られた。私たちは生徒会長選挙の名のもとに人気者を選んだ。それも本人ではなく応援の人気者を。拙いったらありゃしない。

選挙の話題が出るたびに,あの生徒会長選挙を思い出す。面白さを楯にして他者を絡め取ろうとするその手法が,それこそ小学校の生徒会長選挙でも行なわれていたことを思い出す。誤った人を選んだから,正しい人を選ばなかったから思い出されるのではなく,選挙行動が拙いものだったから思い出されるのだ。

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