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雨。梅雨だからしかたないというよりも,昔,秋にやってきた台風前後のような雰囲気。

単行本の下版を終え,17時過ぎに退社。池袋に着いたあたりで家内,娘にLINEで連絡を入れると,会社近くの皮膚科を受診しているとのこと。待ち合わせせずに,夕飯を買って先に帰ることにする。少しだけ時間を潰すために北口の日高屋。長島有里枝『「僕らの」の「女の子写真」からわたしたちのガーリーフォトへ』の上野千鶴子による書評が先月号の「新潮」に掲載されていることを今ごろ気づきたらたらと読む。懇意にしている著者に送ると,千田有紀に対するメッセージなんじゃないか,これは,と。だからやたらと上から目線に感じる。なるほど。

で,同じ号に掲載されたポール・オースター ,柴田元幸訳「スタニスラーウの狼」の冒頭を思い出した。

ある出来事が真実として受け容れられるためには,それが真実でなければならないだろうか,それとも真実だと信じる気持ちがあれば,たとえば起きたとされることが本当には起きていなくても,それだけで真実になるものだろうか。

ポール・オースター「スタニスラーウの狼」

ついでに,グレゴリー・ベイトソンのこんな文章も頭に浮かぶ。

ある話が真実であるためには,それがほんとうに起ったことでないといかんのかね? いや,いい方がまずかかった。関係についての真実をコミュニケートするため,あるいはひとつの観念(アイデア)を例示するためには,だな。ほんとうに重要な物語の大部分は,実際に起こったことについてのものじゃない。そういう話は,過去においてじゃなくて現在において真実なんだ。

グレゴリー・ベイトソン+メアリー・キャサリン・ベイトソン『天使のおそれ』p.66-67,青土社,1992.

まあ,このページに引用したので,何かのときはコピー&ペーストできるというわけではあるものの。

もうひとつ,五木寛之の『異国の街角で』(集英社文庫)を読み返していて(このあたりをSOTRESに登録しようと思いながら),中編「異国の街角で」と「スタニスラーウの狼」が妙に巧い感じでつながった気もする。つなげてどうする,というのもいつものこと。意図はなしに。「異国の街角で」はこの文庫以外で読んだ記憶がある。どれだっただろう。

夕飯を買い,家に戻る。疲れてしまったためか,2時間くらい眠る。夕飯を食べようとしたところで家内と娘が帰宅。というか,帰宅した音で目が覚めた。夕飯をとり,眠る前に「ビッグ・スヌーズ」前月号分と今月号分を続けて読む。

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