熱中症?

連日,夜半の偏頭痛は続く。午前1時から4時くらいまで,それも日中には起こらない。寝汗もかなりかいている。もしかすると偏頭痛ではなく,熱中症かもしれない。クーラーはからだに重いので扇風機をまわしてはいるのだけれど。

土曜日は体調がすぐれず,会社で仕事するのはやめにした。午後から家内と高円寺で買い物へ。久しぶりに野方経由。サッドカフェで遅めの昼食。小さな店だけれど,コーヒーも料理のデザートも手がかかっていておいしい。バスで高円寺まで行き,まずは修理を頼んでいた娘の靴を受けとりに行く。そのままルックをあがり,古着屋で家内の買い物。旧体制の赤い公園のサイン色紙が飾ってあるパン屋に。スーパーマーケットで買い物をし,少し早めに夕飯をとり帰宅。

日曜日はシャワーを浴びて朝食をとる。昼くらいに家を出て,会社へ。18時過ぎまで仕事とマンションの管理組合の仕事を少し。高田馬場で家内と待ち合わせ,夕飯をとる。ブックオフへ寄り,雑誌3冊購入。週明けから早番なので早めに寝たものの4時くらいに頭痛。薬を飲む。

司城志朗の小説,新書を中心にStoresにアップした。司城志朗の作品に似ているのは結城昌治だと思う。ハードボイルドやサスペンス小説の衣をかぶったパズラー,ユーモア小説というあたりが。ただ,どちらも今読むと,軋むところがときどきある。ユーモア小説のそれは宿命かもしれないが。

片岡義男のエッセイのどこかにあったと記憶しているが,米国では,ふつうの人々が物語を消費物のように漁った時期があったそうだ。寝る前の物語1編,への欲求と,それに応える雑誌が幸せに出会った時代だ。数多の物語がつくられ,消費された。数多のなかに,後々まで残る名作が生まれた。映画やポップミュージックと同様に。

司城志朗の小説は,その当時の物語,それも多くが読み捨てられる物語に倣っているように感じる。冒頭に魅力的な謎が示され,合理的に,あるときは偶然や超常現象によって解決される。登場人物はデコラティブで,容疑者は生活を感じさせない人形のように薄っぺらく描かれる。文章は読みやすく,レトリカルだ。人の通俗性を刺激もする。

ブルーカラー向けの小説だよ,と嘯くリチャード・スタークのようだ。

しかし,ブルーカラーが小説を手にとらなくなって久しい。いや,ブルーカラー向け小説というカテゴリー自体,しばらく前からコンセンサスを得ることが困難になった。ブルーカラーが小説を手にとろうがとるまいが,結局,そうした物語は,好事家の読み物になってしまったのではないだろうか。造作が平易なだけに,なおさら軋みを生んでしまう。

昭和60年代から10年くらいのあいだに発表された司城志朗の小説は褒め言葉としてディポーザブル・ノヴェルなのだと思う。読み終えなければ捨てられることはないはずだけれど。

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