Lunch

16時過ぎに退社し,池袋三省堂の古本市を覘く。昨夜は頭痛が起きなかったので熱中症のためだったのだろうと判断したのは数時間前,本を見ているうちに頭痛の気配。結局,何もかわずにフロアを出る。「アラン」のバックナンバーのいくつかは手が伸びそうになった。

西武のセブンイレブンでハウスブランドのスポーツドリンクを買い,頭痛薬を飲む。セブンイレブンのスポーツドリンクは水よりも安いことを知る。お弁当売り場をチェックし,お弁当を買って帰る。帰宅後,眠る。20時過ぎに起き,お弁当で夕飯。会議だったという家内も帰宅,22時過ぎに遅番の娘も帰宅。「踊ってばかりの国」の国立地球屋でのライブ,今日まで観られるはずなので,テレビで観た。

社会人になってから,面倒なことのひつとに昼食がある。上司,同僚と毎日出かけていたことがあるものの,ほぼ同じような上長への悪口があまりに続くので辟易してしまった。それでも数年は一緒に出掛けたのだけれど,あるときからひとりで食べるようになった。

よほど,昼食のときの悪口がトラウマになっていたのだろう。体調が悪い夜,何年かに一度,当時の職場の様子を夢で見ることがある。夢だから事実ではない。ただ,職場の感覚はたぶん,あの頃,私が感じていたものの再現だ。気まずさと,狭い関係性のなかで,どこに軸足を置くか迫られる。

選択とは,いくつも選択を経て選択されるものだというが,世間での選択は,たった2つしか選択の余地がない状況で目の前に現れることがほとんどだ。選ぶしか道がないことを,人はなぜ,よしとするのだろうか。AとBがあって,どちらも非道いものであることは少なくない。当時の職場の雰囲気は,もともとが小体なものだから,選ぶ/選ばないの選択肢自体,大して意味があるとは思われなかった。どっちもどっちなのだ。

夢のなかで私は,一緒に昼食に行かなくなった上司・同僚と仕事のことで対立する。対立というよりも,私の考え方が理解されない状況に陥る。上長や会社の代表は,彼らと意見が異なる。まだ私の考えに理解を示す。いきおい私はそちら側についたようなかたちになる。小体とはこんなときやっかいだ。もちろん夢のなかでの話。

同僚とは上司がいないところでは,それなりに意思疎通が図られていると私は感じている。しかし,二項対立に陥るやいなや,図られていると感じていたはずの意思疎通が埒外におかれる。そのことが,なんだかつらい。

夢で演じられるくらいだから,覚えてはいないけれど,当時,似たようなことが何度もあったのだろう。もともとは考え方の違いをお互いが諒解しないままものごとが進む状況に問題がある。昼食を一緒に食べに行こうが行くまいが,そんなことはどうでもよいはず。

にもかかわらず,昼食を一緒に食べに行かなかったことが前に出てくる。ブロンソンではなく,フロイトなら何というだろう。

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

Top