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午前中から仕事に行くつもりだったものの,からだが重い。結局,14時前に家をでる。よりによって暑さのピークだ。茗荷谷で昼食をとり,事務所に。19時くらいまで,サイトの更新や,原稿整理。帰りに池袋でおかずを買う。帰宅後,夕飯。テレビを見て0時前に就寝。

すでに記憶は都合よく書き変えられているのだろうけれど,思い出せるだけで,ここ数か月について。

3月下旬くらいから,COVID-19に対する不安が広がった。治療法がない(→現時点で,大きく変化はない),予後が悪い(→その後,無症状者の拡大),行動制限を含む予防に尽きる(→ここ数週間程度は,経済をまわしながら対応の声が大きくなる)。かなり悲観的でヒステリックな声が大きく聞こえた。

4月に入り緊急事態宣言が出るとともに,行動制限が広がった。店舗の休業など物理的な要因とともに,相互監視のような動きはこの頃から起きた気がする。一方で,「経済をまわしながら」の声はまだ小さい。補償を求める声が出てきて,行政の後手後手の対応に憤り。密集を避けるように求めながら,結果,密集をつくってしまうような対策に,想像力の足りなさを痛感。そのまま4月の連休に入る。

5月の連休が終わり,宣言解除の方向が出された。人ごみは3月前くらいに戻る。治療法のなさ,予後などには1か月前と代わりなかったはずだ。テレワークは解除されていく。4月,5月に出て,少なくない仕事が在宅でできてしまう,という手ごたえは,全体でみると一過性になったような。6月,7月はなんだかとても抽象的だった気がする。次の補償の問題が出てきたりしたものの,それで状況を継続できるはずはない。

今週末,吉祥寺で,「8月いっぱい」「9月第1週で店を畳む」張り紙をいくつか見た。5月から,商店街のいくつもの店が畳まざるを得ず,その動きはいまだ止まらない。十分な休業補償がないためだろう。だからといって,「経済をまわしながら」の声に押されれ済むものなのだろうか。COVID-19が風邪やインフルエンザと同じ程度の疾患ならば,治療法が明確にならなければ,まず「同じ程度」とはいえまい。一方で,AかBかを選ぶことだけにまい進する危惧も感じる。うつらないような対策をとり,また,うつさないための対策をとる。そのことと生活の変容とは必ずしも同じではない。

COVID-19以後,町中のクリニックを受診することはむずかしくなった。微熱,だるさ,咳,すべてCOVID-19の症状と共通するからだ。受診できないから,患者が減り,それはクリニックの倒産につながりかねない。手洗い,うがいで小児感染症は劇的に減った。であれば,罹患してから診察,診断,服薬の流れに対価を付けるよりも,手洗い,うがいに専門家が寄与したところに対価,もしくは基準額を付けたほうが,よほど健全ではないか。

2020年の8月が終わる。

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