契約

19時過ぎまで仕事。帰りに茗荷谷の日高屋で休憩。娘は体調が悪く仕事を休んだそうだ。気圧の影響かもしれない。私も体調は芳しくない。テレビを観ながら夕飯をとり,0時過ぎに眠る。

津野米咲の訃報に想像以上のダメージを受けたのだな。自分で思ってもみなかった。Webのインタビュー記事だったか,雑誌で読んだのか出典は覚えていない。赤い公園がデビューするときのこと。他のメンバーより1つ年上で,プロデビューの言いだしっぺのような形になった津野が,マネジメント会社との契約書に向き合ったくだりがとても印象に残っている。インタビューでそんなことを言ったミュージシャンは他に記憶がない。

20歳になるかならないかの女性4人のバンド,その将来のために,この契約書に書かれた項目を履行していくことになると考えると,読み飛ばせなかったと津野は言う。頭悪いのに一言一句確認しながら契約書を読んだ,というように語っていたはずだ。売り飛ばされたり,妙な仕事させられたりしないかと考え,というニュアンスも含み,それは語られていたように思う。

世の中にいるのは,聞いてしまったことに対して,みずからの責任を感じとる人と,感じとらない人の2通りだ。そんなことフランス人が言ったわけでもなく,格言にも載っていないが。

と書きながら,キング・クリムゾンを思い出した。彼らがデビューするときに交わした契約書には,通常の新人バンドより遥かに高いギャランティが示されていて,それは(たぶん)フリップが交渉の末に勝ち取ったものなのだ。それでも1969年から74年までの間,その他の契約条件(もしくは契約書に書かれていないがゆえの未払い)にバンドは頭を悩ませたという。フリップがバンドに対してとった責任感と,責任を果たせなかった点,どちらもを抱えながらと,そのことを言い換えてもよいだろう。

20歳そこそこの津野は,本気でプロのスタートラインに立ったものの,そこにメンバーを引っ張った責任を当初から抱え込んでいたのかもしれない。デビュー数か月で許容範囲をはるかに越えてしまったプレッシャーのありかを想像する術はない。事実として示されていることは,半年の休息を経て,赤い公園がふたたびスタートラインに立ったことだ。

曲を周知するためにテレビのバラエティ番組に出て,お笑いタレントと交流し,アイスバケツチャレンジにだって参加する。津野がそのことをどのように考えていたかも想像できない。ただ,デビューにあたって契約書を一言一句確認したことと,それらの活動がつながっているように思えてならない。

アメリカでロックバンドが成功を収めるには全州くまなくライブでまわり続けなければならず,ザ・ポリスはそうやってアメリカでの成功を得たのだけれど,YMOにはそうするだけの体力がなかったと,細野晴臣だったか坂本龍一だったかが言った。ただ,そうしなかったことに対する後悔はなかったように聞こえた。

かわりにYMOがとって計画は,少なからずその後のわが国のミュージシャンに影響を与えたのではないだろうか。もともとの音楽と演奏を取っ払ってしまうと。

ということを思いながら,曲を聴いていた。

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