気圧

朝は少し暑く感じ,昼はシャツ一枚で十分,夕方から寒くなり,帰りはジャケットの合わせを重ねながら帰った。いったい一日でどれくらい気圧の変化があったのだろう。

別の打ち合わせで,夕方から広尾に。恵比寿経由で出かけ,18時過ぎに終えて恵比寿駅に戻る。2階の改札を入った左手のカフェ&Beerで休憩。だいたい朝いちばんでモーニングをとるかどうか悩むところが,この時間だとビールやウィスキーが飲めるのか。

埼京線で池袋まで行く。改札左手の階段を下りたあたりから乗ると,池袋南口近くで降りられることを知る。

今日から池袋西口公園古本まつりが始まるので,1/3程度覗く。石森章太郎についての本と,さべあのまの『地球の午后三時』,1995年の雑誌「世界」を雲雀洞さんの棚から購入。他にも1995年のA5判雑誌(「宝島30」が数冊あった)を買いたかったものの,次回にすることにした。1995年というとオウム真理教事件がピークの年で,特集やら企画で扱った雑誌が10冊くらい並んでいたのだ。

石森章太郎についての本を読みながら帰宅する。テレビで徳島ラジオ商殺人事件の冤罪裁判について瀬戸内寂聴が取材されていた。開高健の『片隅の迷路』を読み直したくなって取り出す。角川文庫のカバーは日の丸を逆にしたような赤地に白い太陽だ。

改訂

雨が一日中降り続く。おかげで朝は調子悪く,遅れて出社。

夕方から打ち合わせのため駅前まで。結局,19時近くまでかかってしまい,そのまま直帰する。

高田馬場の芳林堂書店で結城昌治『公園には誰もいない・密室の惨劇 』(P+D BOOKS)を捲る。驚いたことに1974年の講談社文庫版を底本にしている。高橋弘希『指の骨』と一緒に買ってしまった。4階のEW Port Cafeで20時まで休憩。娘もときどき利用しているらしいこのカフェは,すわり心地のよい椅子がなんといっても特徴で,おおむね空いているので,利用数回数が増えてきた。『闇の中の系図』を読み進める。

結城昌治の「真木シリーズ」3作は作者が晩年,時代設定を後ろ倒しするために,登場人物の背景などについて大幅に手を入れている。池上冬樹が『ヒーローたちの荒野』(だったと思う)で,そのことの非を辛辣に評していたはずだ。

講談社文庫で1974年版,1991年版のいずれも読み,確かに1991年版はツルっとした感じがした。そのあたり1991年版の解説を書いた原尞はまったく触れていない。ゲラを渡されていなかったのかもしれないが。

で,今回のP+D BOOKSは1974年版を底本にしていて,それはとてもうれしいのだけれど,では,作者自身で改訂した1991年版をどう位置づければよいのだろうか。同じようなことがマンガにも起こっていて,連載時の原稿そのままを売りにする企画をよく目にする。たとえば大友克洋などは単行本にまとめるとき,連載原稿を大幅に加筆・修正する。加筆・修正前の原稿を改めて出版するのはどうなのだろう。

石森章太郎のShotaro Worldが「ディレクターズカット」と称されて刊行されて以来,悩ましく感じるのは,この作家が(もしくはシリーズ企画者が),単行本化の際に手を入れた箇所を連載時に戻してしまったからだ。たとえば,サイボーグ009の第1巻で,ギルモア博士が009の機能を説明する一葉の図がある。連載のときの絵は手書きっぽいタッチだったものが,秋田書店のサンデーコミックスにまとめられた際に,地下帝国ヨミ編あたりのタッチで描かれた図に差し替えられている。

それ以外にも単行本化にあたり,削除されたページや組み替えられたコマが,ディレクターズカットの名のもとにいくつも復活した(元に戻された)。

Shotaro Worldが刊行された当時は,連載の図が目新しく喜んだものの,その後,刊行された単行本やコンビニ本の(たぶん)すべてで連載時の図が用いられているのを目にすると考えてしまうのだ。絵のクオリティからすると,サンデーコミックス版のほうがよい(あくまで主観的に)にもかかわらず,「ディレクターズカット」と称されたバージョンが刊行されて以後は,そちらが正当なものだとされてしまうのか,と。

それが,ぎりぎり石森章太郎が生きていたときの判断だとすると,読者は従わなければならないのか。

それで思い出したのは,サイボーグ009はサンデーコミック第11巻以降,009の髪と戦闘スーツにトーンが貼り込まれておらず,週刊少年サンデーやアニメディア連載に至るまでそれは続いた。ところが小学館文庫でまとめられた「海底ピラミッド編」までにはトーンが貼り込まれている(データ処理かもしれないが)。

009のトーンの問題については,週刊少年キングでの連載や別冊での読み切りのときは一部,トーンが貼られていない作もあって,どちらがただしいかと説明をつけづらい。結局,Shotaro Worldで週刊少年サンデー連載の前まで(たぶん第1期)はトーンが貼られた絵で揃えられた。

その昔,週刊少年サンデー連載あたりの頃まで,私は自分で鉛筆を滑らせて,009の髪とすべてのメンバーの戦闘スーツに薄くスミをつけていた。昔も今も週刊漫画雑誌の単色の色は青とか赤とかが多く,輪郭線・べた色と鉛筆で2色になってしまったものの,そうでもしなければ当時はおさまりがつかなかったのだ。

一読者として,ありうるべきサイボーグ009の絵があって,身銭を切って手に入れたマンガについては,みずから手を加える。作者と読者の間に,正当性についてギャップが生まれると,このような状況に陥る。

結城昌治の真木シリーズの手入れについても,そのギャップが埋められないまま,作者が退場してしまった故の悲劇なのだと思う。にもかかわらず,今回,1974年版を底本に新しい版が刊行された。読者にとっては喜ばしいはずが,でも,作者が健在であったならば,この版での刊行に頷首しただろうかと考えてしまうのだ。

一方では1974年版でよいのかと悩み,もう一方では「ディレクターズカット」版が果たして最終版なのかと悩む。おかしな所作だとは承知の上で。

買った本を読む

朝から広尾で学会取材。小雨が降ったり止んだり。

家を出ようとしたところ,必要な資料が見つからない。昨夜,池袋で夕食をとった際に忘れたのかと思い,店に寄ったものの落し物の届けはないという。とりあえず,昼休みにもう一度確認することにして会場に向かう。

午前中の取材を終え,一度会社まで戻ると,結局,置き忘れていた。このところときどき置き忘れがあるので気をつけなければ。

午後の取材を済ませ,15時過ぎに会場を出た。途中,代々木でブックオフに寄り,『消されたマンガ』(彩図社)を買って,近くのサイゼリアに入る。ワインとつまみを取りながらページを捲った。数年前,娘の学校の文化祭に父親が来た。大江戸線~都営浅草線~北総線経由で帰る途中,代々木で降りて,ラーメンを食べたことがある。年に数回の頻度だけれど,このあたりを歩くと,そのときのことを思い出す。父親が,その店のラーメンをとても美味しいと言っていたのだ。しばらく前,そのラーメン店が店をたたみ,今は別の店が入っている。このあたりにはここ数年で,同じように閉じた店が何店かある。町の景色が変わることで,留まる記憶があるのだ。

時間が早いけれど,どこかで夕飯をとってしまおうと思う。新井薬師前まで行き,文林堂書店で,『網野善彦を継ぐ。』(中沢新一,赤坂憲雄),『土方歳三』(三好徹)を買う。駅前を行き来し,結局,ラーメンを食べて帰る。

日曜日は午前中,家でゆっくりしていて午後から歯科で健診。終わってからそのまま会社に行き,事務処理など済ませる。夜は池袋で家内,娘と待ち合わせて夕飯。東京芸術劇場の1階。10.5度のベルギービールを頼んでしまい,チビチビと飲んだものの酔いがまわってしまった。

『消されたマンガ』と『網野善彦を継ぐ。』を読み終えた。買った本は早めに読み終えるに越したことはない。『土方歳三』を捲り始める前に半村良の『闇の中の系図』を読み始めてしまう。

日常

昼過ぎまで暑いくらいだったにもかかわらず,夕方から雨。気温も下がってきた。

20時くらいに仕事を終えた。このところ疲れが非道いので,気分を紛らわせるために帰りに伊野尾書店に寄った。しばらく棚を眺め『介護危機‐「数字」と「現場」の処方箋』(鈴木剛宏),「波」をもらって帰る。伊野尾書店ではこのところ,A5判並製ヨコ組のソフトカバー(本文用紙は微塗工紙)という体裁の本ばかり買っている気がする。

矢作俊彦の『舵をとり 風上に向く者』を半分くらい読み終えたので,連載のときとどんなふうに変わっているか,クリアファイルを取り出した。先日,1冊108円で6,7冊買った「NAVI」から「So Long」の連載箇所を切り取ったので,一緒に出てきたもう一冊のクリアファイルも取り出した。

「So Long」が掲載された「NAVI」は10数冊並んでいて,もちろん休載があるのだから,すべてに掲載されているわけではない。1冊ずつページを捲り,掲載されていればざっと読む。読んだ記憶がある号は外して,それだけを買ってきた。

クリアファイルと切り取ったページを並べて広げたところ,見事に連載号数が繋がった。あまりのコピペの非道さに連載第19回を最後に「NAVI」を購入しなくなった。今回,手に入れた切り抜きは第20回からはじまっていて,1号(ブックオフに置いてなかった)飛ばして第29回まで続いた。

このあたりは当時,単行本は絶版,文庫本が刊行されていないかった『真夜中へもう一歩』から,かなり流用されている。もちろん『ロング・グッドバイ』としてまとめなおした際にはザックリと削られている。

子育て真っ只中,コピペ小説に毎月800円を出すのをやめてもしかたあるまいが,108円だったら,まあ揃えておいてよいかなという程度の関心だったけれど,それでも内容を追っていくと,これはこれで読めてしまうから不思議なものだ。

矢作俊彦の小説は文体がきっちりしているから,エピソードを入れ替えても,それなりに小説の体がとれてしまうのだ。そうやって何度も「眠れる森のスパイ」が使いまわされたわけだけれども。

続いて,連作短編を単行本と比べていたら,0時をまわってしまったので,慌てて寝ることにした。

舵をとり 風上に向く者

『死ぬに手頃な日』の次は『舵をとり 風上に向く者』を読み始めた。

会社を早めにあがり,totoruでPUNK IPAとつまみを取りながら読んだのは2作程度。大塚まで歩き,ブックオフで村田沙耶香の文庫2冊と,つのだじろう描く『八つ墓村』『悪魔の手毬歌』のカップリングを買って帰った。一日暑くなるという天気予報ははずれ,歩くのには手頃な気候だった。

初出を眺めながら,記憶のなかで前後関係が入れ違っていることに気づいた。

「NAVI」で連作短編として連載がスタートしたのは1985年。私の記憶では一年くらい前倒しの感じがしていたのだ。単行本としてまとめられたのは1986年。前年に『真夜中にもう一歩』が刊行されていて,これも順序として感覚と異なっていた。

「NAVI」連載の各短編は,単行本化に際し,本文にはほとんど手が入れられていないものの,一部,タイトルが変えられた。ただし初出時,各編の登場人物は『マイク・ハマーヘ伝言』にそってキャラクタライズされ,その長編の登場人物の名をつけられていたのだけれど,すべて「りょう」と読む漢字をあてられている。前者の変更は気にならないものの,後者については,たとえば初出時,「英二」だった登場人物の名が「良」に変えられているのを読むと,どこか居心地が悪い(後に,「ウリシス911」に流用されたときには再び「英二」に戻されている)。

当時,NHK-FMのラジオドラマで「死ぬには手頃な日」のタイトルで放送されたとき,本書の短編をもとにしたものが多かったと記憶している。

『マイク・ハマーへ伝言』以後,似た感触の小説をほとんど発表していなかった当時,連載~単行本はかなり好評だったのではないだろうか。しばしば比較された村上春樹の小説と並べた短評が山崎浩一により「朝日ジャーナル」に掲載されたのもこの頃だ。

日に数編ずつ読み返しのがちょうどよい。短い時間を切り取って短編にまとめあげる手法は,当時から今もほとんど変わらない。「ウリシス911」のように,時間軸を繋げたり,並行に置いたりして組み込まれた長編を読んでみたい気がする。(加筆予定)

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