真夜中へもう一歩

みちくさ市の用意をしながら,リストアップした本の一部をまとめた。玄関からの廊下に並べた腰高書棚の上に,読みかけだった矢作俊彦の『真夜中へもう一歩』が放ってあることに気づいた。文庫本一冊避けただけのスペースに,かわりに一山置いた。

通勤途中に少しずつ読み,昼と夜を兼ねて新井薬師の五香菜館に出かけたときにも携えた。

矢作俊彦の二村永爾シリーズ(といっても単行本としてまとめられたものは4冊しかない)のなかで,一番好きなのは『真夜中へもう一歩』だと思う。ただし,これには注釈が必要だ。

1977年から78年にかけて,ハヤカワミステリマガジンに飛び飛びで連載された「真夜へもう一歩」を読んだときの強烈な印象は今も覚えている。「リンゴォ・キッドの休日」の調子そのままに秀逸なキャラクター設定に加え,「不思議の国のアリス」からいくつものモチーフを絡め,探偵小説としての謎をとりまく設定も遥かにスリリングだった。

『マイク・ハマーへ伝言』の面白さ・凄さと必ずしも質は同じでないのだけれど,それでも掲載誌を繰り返し読んだ。

「真夜半へもう一歩」が単行本としてまとめられていなかったその頃,ようやく『さまよう薔薇のように』が刊行された。矢作俊彦は,しきりに「ハードボイルドや推理小説なんて下品なものを書いているわけじゃない」と口外していたので「真夜半へもう一歩」はこのまま葬られてしまうかもしれない,ファンがそう危惧していたなか,ようやく単行本が出た。

ところが,単行本の『真夜中へもう一歩』は,あとがきで自ら述べているように,連載をそのまままとめたものではなかった。全面的に手が入り,いくつものエピソードが追加された。何よりもその頃,変わりつつあった文体で加筆されているため(ユーモア小説とかインタビュー小説とか,やたらとメインストリームと距離を置こうとする言動が災いしたのかもしれない),登場人物の造形がかなり変わってしまった。その変化はどこかつぎはぎのようだった。

単行本で何回か読んだものの,雑誌連載バージョンに勝る面白さは感じなかった。

20年近く経って,角川文庫から出たときも,もちろんすぐに手に入れた。正直,あのつぎはぎ感を突きつけられるのは嫌だなあと思いながらページを捲った。すると,どうしたことか。20年前,あれほど気になってしかたのなかった印象がかなり薄くなった。自分が変わったのかもしれない。そう思いながら,ふと単行本と文庫本を比べながらページを捲ってみた。

角川文庫版『真夜中へもう一歩』は全編にわたり,かなり手が入っていたのだ。魅惑的なレトリックが必ずしも駆使されているわけじゃないけれど,20年前の単行本に比べるとはるかに小説の中に入り込みやすい。

一番好きなのは連載版だ。ただ,角川文庫版が出たおかげで,この小説自体の面白さ,つまり大熊一夫のルポ以来,精神科医療がはらむ社会的問題点をきちんと遡上にのせて,米軍とさようならを言えない状況をうまく絡めた面白さが伝わりやすくなったように思う。King Crimsonの“Lizard”の評価がリミックスによって高まったのに,それは似ているかもしれない。

台風のために,みちくさ市が中止になった。角川文庫版『真夜中へもう一歩』を抱え,少しずつ読みながら連休を過ごしている。

此岸のパラダイス亀有永遠のワンパターンバンド

1987年の冬。P-MODELのライブ会場でブルーとスミ2色刷りのチラシを渡された。渋谷ラ・ママのオープン5周年だったか,そのくらいを記念した連続イベントの案内だった。そのシリーズ初っ端に登場するのが平沢進ユニットと紹介されている。

自分でチケットを買いにいくのは面倒だったので(わざわざラ・ママまで行くなんて),買ってきてくれないかと伸浩に声をかけた。当時,彼は千葉の八柱に住んでいた。「渋谷といえば,君に頼むしかないじゃないか。昌己も行くというので2枚頼むよ」。前年の夏,田島が原のフリーコンサートには彼も誘ったのだから,「一緒に行こうや」と声をかけて3枚頼むのが普通だったかもしれない。そのあたりの経緯はよく覚えていない。

連休真っ只中の5月1日。昌己とどこで落ち合ったのだろう。ラ・ママの入口だったかもしれない。開場後,フロアに入った。ご存知のとおり,ラ・ママのフロアには何本もの柱がある。入口を背にするとステージは右手,左奥がトイレだ。メインが始まるまでは入口のそばで静かにしていた。

オープニングアクトは名前も覚えていないニューウェイヴバンドだったはずだ。ただ,ネット時代にいくつかのサイト,書き込みをチェックしたものの,このバンドが出たという書き込みをいまだ見たことがない。音は覚えていないが,ワイルド7のオヤブンのような姿でバイオリンを弾くメンバーがいたことだけは忘れられない。ヴァンパイア!,幻覚マイムが出た。幻覚マイムはトリオ編成で,変拍子のブレイクが決まってなかなか恰好よかった。ヴァンパイア!は音抜けはよいのだけれど……という印象。

平沢ユニットが始まる前に,フロア奥へと移動した。

ラ・ママはステージ下手からステージに上がれるようなつくりではない。ミュージシャンはトイレのあたりにある通路からフロアを通ってステージに上がるのだ。まるで新日の若手のようにステージへの花道をつくる中野照夫と高橋芳一の姿を思い出す。

「KAMEARI POP」を出囃子に平沢がステージにあがる。キーボードを弾きながら歌が終わるとメンバーを紹介する。バンド名は「平沢ユニット」ではなく,「此岸のパラダイス亀有永遠のワンパターンバンド」という長ったらしいものになっていた。広いとはいえないフロアはこの時点で人で溢れかえっている。

田井中さん,三浦,秋山,ケラが次々にステージに上がり,リズムボックスの音が鳴るやいなや,客がステージ前に殺到する。セットリストは以下の通り。

  1. KAMEARI POP
  2. 美術館で会った人だろ
  3. ヘルスエンジェル
  4. ワンウェイラブ
  5. 青十字
  6. 異邦人
  7. いまわし電話
  8. 子供たちどうも
  9. ダイジョブ

ケラが「異邦人」の間奏でパントマイムのような動きをしたことは覚えている。

それよりも何も,途中からフロアの酸素濃度がどんどん薄くなっていくのが分かった。後半,ステージ上の平沢はかなりしんどそうだった。ステージの方が先に酸欠に陥っていたのだろう。声を出そうにもでなくなる場面さえあったのだ。MCで思わず「酸素を吸うな!」と怒鳴っていたような気がする(追記:アップされていた音源を確認したところ,そんなふうに言ってはいなかった。ただ,ステージもフロアも酸欠に近かったと思う)。

いつの間には昌己はフロア後ろの壁に背持たれてしゃがみこんでいた。

それから20年近くを経た後,某巨大掲示板を通じて,マンドレイクからP-MODEL,平沢ソロに至るブートレッグをアップする方がいた。解凍後の音源にはあまり興味がなかったものの,自分たちが出かけたライブの音源はとても興味があった。

当時,録音しようと思えばできたにもかかわらず,われわれの誰一人として1988年までのP-MODELのライブを録音した奴はいなかった。ライブが始まる少し前,壁や手すりの段差において回しておけばよいのだけれど,そんなことに気づかず,録音するからには手元に抱えていなければならないと思い込んでいた。P-MODELのライブに出かけて,そんな鹿爪らしいことなんかしていられないじゃないか。

知恵に乏しいわれわれが,ようやく録音方法に気づいたのは1989年,初めての平沢ソロライブでのことだった。渋谷クアトロで録音したそのテープは,にもかかわらずほとんど聴かなかった。この数か月で,平沢はP-MODELとはまったく別のライブを始めた。それが正直,面白みに欠けていた。フロアは落ち着き,演奏も安定している。で,結局つまらない。

アップされたデータの1つに,この日のラ・ママでの音源があった。こっそり落として聴いてみた。平沢のメンバー紹介が終わったところで,会場がざわつくなか,かすかに聴こえてくるのは私と昌己の会話だった。

その驚きを何度か記した。この日のライブについて書いたのも初めてではないはずだ。昨夜,Youtubeに同じ音源がアップされているのを見つけ,思わず記してしまった。

付記

さらにしばらく後,昌己と飲みながら当時の話をしていたとき,「あのとき,ラ・ママを出たところでチラシをもらったじゃないか」と記憶が蘇った。渡されたチラシはTMネットワークのライブ告知のもので,後で思うとメンバーの木根さん自らが配っていたのだ。ラ・ママでギュウギュウにつめてもせいぜい300人程度の客にチラシを配る努力に,われわれに足りなかったものはこれだったのだと30年経ってから気づいた。

体調

娘が風邪気味。私の咳もぶり返してきたようで,というか,世間で風邪が流行っているような雰囲気だ。からだはだるいし,眠気が続く。

午後から京王デパートの喫茶店で打ち合わせ。噂通りの客層で,紳士服売り場の喫茶店が空いているだろうと思い,入ったものの,嬌声がこだまする。16時を過ぎると潮が引くように客がいなくなる。それにともない,とりあえずふつうの声の大きさで話ができるようになった。

事務所に戻り,仕事を片づけて,いつもより早めに会社を出た。池袋で少し休憩し,中井の伊野尾書店に寄る。矢部宏治『知ってはいけない 隠された日本支配の構造』(講談社現代新書),ブルース・チャトウィン『パタゴニア』(河出文庫)を買って帰る。

23時過ぎに眠ったものの,どうも夢見もよくないし,まずは,この不安定な天気が落ち着いてほしい。2005年の休暇にニューヨークへ出かけたとき,ハリケーン・カトリーナに直撃された合衆国の様子をCNNで見た。あのときのことを思い出すと,ああ歳をとったものだと感じるのだ。

気圧

台風が近づいているためか,朝から調子が悪い。イブクイックを2錠飲んで休む。

薬が効いてきたのは10時くらい。それから用意をして会社に出る。20時まで仕事をして帰宅。途中,ブックオフで杉作J太郎の『男の花道』と岩波の子ども用のハードカバーを2冊。『男の花道』はもちろん,もっているものの,いつかみちくさ市に並べようと思って買った。ただ,ページを捲りはじめると面白くなってしまい,結局,最後まで読んだ。

斎藤貴男の『カルト資本主義』(文春文庫)を読んで後,旧刊を探して少しずつ読んでいる。『国家に隷従せず』(ちくま文庫)を捲っていたら,矢作俊彦のeメール時評が1行だけ引用されていた。まあ,引用してもおかしくはないけれど,妙なところで遭遇したので驚いた。

『カルト資本主義』はさておき,おおむね地道なテーマを取材して問題提起する仕事はなかなかすごいなと思う。吉田司のようにバッサリ斬らずに,読者とのコンセンサスを前提としているようなところがある。おかしさ,馬鹿馬鹿しさをあまり戯作化しないのだ。ノンフィクション作家としては真摯な態度ではあるものの,その風通しの悪さがインパクトを緩衝してしまっているように感じる。

『国家に隷従せず』の最初のあたりは個人情報保護法についての短文が続く。

旧ソ連時代,観光に出かけると,1人ひとりにスパイが張り付いて行動を監視していると読んだとき(何の本であったか,本当かデタラメかどうかも定かじゃないけど),「人海戦術なのか」とため息を吐いたことがある。監視社会といったって人が監視するんじゃ割に合わないなと。

それが今や監視環境が蔓延り,何かトラブルが起きれば検証できるデータが手元にある。トラブルの兆候はチェックされ,そこから先が人海戦術となれば,なるほど,まあ効率はよい。

ただ,日々うだうだしていると,こんなはずじゃなかったんだけど,という憤りのようなものがこみあげてくるのはどうしたことだろう。

出版

家内から連絡があり,事務所の近くのクリニックを受診しているとのこと。朝9時前から診察待ちの患者が並ぶようなクリニックなので,18時を過ぎても診察まで1時間ほどかかるそうだ。

19時過ぎに仕事を切り上げ,家内と待ち合わせた。娘は風邪気味でお弁当を買ってきてくれればよいという。池袋のエチカにあったハンバーグ店でサッと食べて帰ろうかと思ったらラーメン店に変わっていた。しかたないので地上に出てGARAでカレーとビリヤニ。食べ過ぎてしまった。

蔵前仁一『あの日,僕は旅に出た』(幻冬舎)を読み終えた。途中から,ああ,出版業界は他の領域も同じような道のりを歩んできたのだな,と妙な感慨をもった。

1998年から2004年あたりの流れは,専門書出版もほぼ同じようなものだったと思う。雑誌の部数減,撤退するかどうか,月刊から季刊,休刊,とにかくタイミングがいちいち腑に落ちるので驚いた。ただ,それでもさまざまな方法(かなり姑息なものが含まれているかもしれないけれど)をとりながら,月刊を意地でも維持する版元がある。もしかしたら少なくないかもしれない。意地だから,いろいろなことが等閑にされているような気もする。

2003年頃,身近で雑誌の継続云々についてドタバタしていたとき,それまで4人でつくっていた月刊誌を,1人プラス管理職で継続することになった。ギリギリ30代だった私は「読者に対する責任をどう考えるのか」と迫った。けれど,当時,四捨五入すると平均60歳だったこれからの雑誌担当者(つまりは管理者)たちは,その問いにまったく反応しなかった。何を言っているのか不思議そうに首を振るだけだった。だめだな,とは思ったけれど,そのとき彼らが何を考えているのか,私には理解できなかった。

含羞があるならばまだしも,臆面もなく続けるという判断に呆れ果てた。結局,それが4人でつくっていた雑誌に対する彼らの評価だったのだということくらいはわかった。

嗤うしかない1年が過ぎ,その後2年,管理職たちは率先して遣いっぱしり成り下がった。

その様子を遠くから眺め,しばらく後,近くであのドタバタが繰り返されるのを目にせざるを得なかった。私は40代半ばになっていた。

それからは,蔵前さんが記しているように,結局は「身の丈の問題なのだ」と思うことにしている。

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