古本

金曜日は18時過ぎに事務所を出た。池袋西口公園古本まつりが始まったので覗いていこうと思った。

一通り見終わる前に娘から連絡があった。家内と一緒にインフルエンザの予防接種を受けた帰りで,神保町にいるのだという。あとは翌日見ることにして,高田馬場経由で神保町に向かう。夕飯をとり,帰ってきたのは22時過ぎになった。

土曜日は昼少し前に家を出て,続きの書店の棚をみる。昨日,土浦のれんが堂書店さんの棚がとてもツボだったので,もう一度チェックする。結局,れんが堂書店さんの棚からすべて100円の文庫本5冊を抱え,他の書店の棚からは昨日見かけた木田元『反哲学史』(講談社)一冊のみを購入した。

事務所に行き仕事。アルバイトを終えた娘がくるというのでtotoruで遅めの昼食。仕事を続けて19時過ぎに出る。

気になって,結局もう一度,れんが堂書店さんの棚をチェックしてさらに3冊購入。駅構内のパブでビールを飲みながら読む。家に戻り,少し眠る。夕飯をとった。

ひさしぶりにまとめて本を買った。

2日間で手に入れた本

  • 出口裕弘『楕円の眼』(潮出版社,1975)
  • 木田元『反哲学史』(講談社,1995)
  • ラム・ダス『覚醒への旅』(サンマーク文庫,1998)
  • 眉村卓『異郷変化』(角川文庫,1976)
  • 眉村卓『ねじれた町』(角川文庫,1981)
  • 中上健次vs村上龍『ジャズと爆弾』(1982)
  • 小松左京『宇宙人のしゅくだい』(講談社文庫,1981)
  • ヘンリー・ミラー『愛と笑いの夜』(角川文庫,1976)
  • 結城昌治『葬式紳士』(角川文庫,1973)
  • 結城昌治『目撃者』(角川文庫,1981)
  • カッシーラー『シンボル形式の哲学[一][二]』(岩波文庫,1989,1991)
  • 矢野誠一『戸板康二の歳月』(ちくま文庫,2008)
  • 友成純一『獣界魔道』(桃園書房,1987)
  • 彰英『混浴温泉(カラーブックス)』(保育社,1986)

ぼくのおじさん

夜は日赤で仕事の打ち合わせがあるため,夕方,事務所を出た。以前はほとんど渋谷経由バスを利用して日赤に行っていたのだけれど,東急線地下化以降の工事のため,バス停が移動した。駅の動線もときどき変わるのが面倒くさくなり,少し前から恵比寿経由バスを使うことが増えた。

子ども頃,渋谷という町は,生地を買いにいく親について出かける町,調布のおばさんの家に行くときに降りる駅という印象しかなかった。

学生時代に渋谷公会堂はじめ,ラ・ママ,ライブイン,クアトロといったライブハウスに通うようになってようやく土地勘が出てきた。ただ,その頃,どうしたわけか公園通りは山手線の内側にある印象だった。つまり原宿や恵比寿,広尾あたりと地図上でまったくつながっていなかったのだ。東京の繁華街は他の町とは違い,そんなふうに地図を区切って記憶してしまうことがあった。なかでも渋谷については自分がもっている方向感覚と実際の位置関係の乖離が非道く,その折り合いをつけるのに実のところ,半世紀近くかかった。

行きは恵比寿経由,帰りは渋谷まで行って,カウンターしかないカレー屋で夕飯をとった。

はじめて読んだ北杜夫の本が旺文社版の『ぼくのおじさん』であったことを思い出した。ずっとそう記憶していたはずなのに,このところ『どくとるマンボウ航海記』(角川文庫版で)が最初だと思い込んでいた。

『ぼくのおじさん』は,小学校のとき,ときどき配られた本の購入リストに入っていて,どうした理由か覚えていないのだけれど頼んだはず。当時はポケット版のオールカラー図鑑のシリーズが人気で,昆虫採集をして遊んでいた私は何年か続けて『昆虫』図鑑を買った。仮面ライダーの影響か,その頃,子どもに『昆虫』図鑑は人気があり,今では信じられないかもしれないけれど『幼虫』だけで一冊になって発売されていた。もちろん『幼虫』も手に入れた。

『ぼくのおじさん』が映画になるという。とりあえずは観る予定。

奇病連盟

仕事帰りにブックオフで購入した北杜夫の『奇病連盟』(新潮文庫)をその後,読み始めたところ,懐かしさと面白さで,あっという間に読み終えてしまった。ストーリーは読み返してようやく思い出したくらいで,記憶にほとんど残っていなかった。ただ,最初に読んでから40年を経て(購入したものは私がはじめて手に入れた版とたぶん同じものだった),自分の性格形成というか,社会の見方に関して,この小説にかなり影響を受けていたのだと感じたのが新鮮だった。

大学を卒業してから現在まで,少なからずこの小説のことが常に私の識閾下にあったのではないだろうか。『奇病連盟』だけれど。

50歳に近づいた頃からずっと,北杜夫の小説やエッセイを読み返している。というか北杜夫の訃報に接してからといった方が正確だろう。昔に比べると『月と10セント』や『高みの見物』,そして本書のような作品から受けた影響の大きさを実感する。影響の一部分が北山修に続いていたり(すで途切れたけれど),矢作俊彦に続いたりしているのだ。

矢作俊彦が描くエッセイと北杜夫のそれとはどこかで共通しているように思う。矢作流というかエリック・ドルフィーにたとえていうならば,それは故郷喪失者,エクスパトリエートのつぶやきに近いものかもしれない。

奇病連盟初版
昭和42年発行初版
奇病連盟新装版
昭和46年発行新装版

東京から考える

この痕跡本を108円で買ったのはかなり前のこと。積んでおいたままにしてあった東浩紀・北田暁大『東京から考える――格差・郊外・ナショナリズム』(NHKブックス, 2007)が出てきたのでペラペラと捲っていたら止まらなくなって,事務所で仕事をした帰りに日高屋でビールを飲みながら読み終えた。

事務所が東麻布にあった当時,会社帰りに麻布十番まで歩くことが多かった。赤羽橋まで殺風景な街並みを突っ切るより,東麻布の裏道をぶらぶらしながら進み,麻布十番の雑踏に紛れるほうがホッとした。時間があるときはそのまま六本木まで向かった。

本を読みながら,東麻布から六本木までの距離を思い出した。東麻布の商店街には古本屋があって,帰りの電車で読む本はそこで調達する。狸穴の下あたりに向かって西に進むと,インド料理店や蕎麦屋,リーズナブルにチリが食べられる店も開いていた。チリというのは,ピーター・フォーク演じるコロンボの好物料理だ。麻布十番まで1キロ足らず。六本木まで歩いても2キロくらいの距離だけれど,何となく生活感を受けながら歩いた。それは『東京から考える』で語られているような「都市の郊外化」とはかなり違う感触だ。

もともとこのあたりは長い間,陸の孤島のように存在してきた地域だから,南北線や都営大江戸線が通ったことで少なからず恩恵はあっただろうけれど,駅に従属してきた町ではないと思う。

「郊外」というのは生活が駅に従属する町のことであって,「地方」というのはまた,駅に従属しない町のことをいうのかもしれない。

とはいえ東京を例に考えると,山手線から放射線状に延びる私鉄沿線は,それではすべて「郊外」になってしまう。東麻布は「地方」だ。ただ,鉄道に従属しないという意味では地方も東麻布も成り立ちは変わらない。要は郊外化する地方と郊外化しない地方があるだけのことだろう。

また,「生活が駅に従属する」というのは,通勤に電車を用いることが生活より優先される地域だと仮定してみる。そうすると今度は「都心」が「郊外」になってしまう。結局,「郊外」とは,通勤のために費やす1時間~1時間半を何かと引き換えに手に入れられる地域とでも仮定しなければ通らなくなってくる。

職場は渋谷区にもかかわらず,川崎市麻生区,駅から15分などという場所に家を買う判断をいくら私が理解し得なくとも,そういう判断をする,できる人が少なくないのは事実なのだ。

風俗小説

夕飯のときに新聞を見るまで,すっかり木曜日と勘違いしていた水曜日。

先週から続く偏頭痛が治らず,風邪気味なので,早めに仕事があがり,近くのクリニックで薬をもらって帰る。19時には家に着き,薬を飲んで2時間ほど眠った。夕飯をとるとき,テーブルの上に置いてあった新聞を見て今日が水曜日だと気づいた。仕事のあいだ,今週はあと一日しかないからと焦っていたのだけれど。

週末に買った横溝正史の小説を,探偵小説だとか推理小説だとかいう前に,まずは風俗小説として読んでいるのかもしれないと思った。小説としての面白さがあるとするなら,そんなところにしかない/そこにあるのだろう。埴谷雄高の『死霊』の第三章あたりで首猛夫が歩く工場地帯の描写や,椎名麟三の『重き流れのなかに』のトタン屋根の描写よろしく,戦後すぐの光景を読む愉しさを感じたのに,それは似ている。

すべての小説を風俗小説として切り取って,解説するような試みはとても面白いと思う。

横溝正史の小説なんていうものはトリックよりも,会話や風景描写をデータベース化していったほうがよいと思うのだ。以前,松本清張の小説と昭和30年代を対比させた新書(藤井淑禎『清張ミステリーと昭和三十年代』)の試みは面白かった。恣意的になりかねないので,取り組むとなると難しいのだろうけれど。

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