ジム

午前中遅めに起きた。暑いのでシャワーを浴びて朝食をとる。予約していた歯科医院に出かける。急患が2人入ったようで20分ほど遅れて診察台に。前回処置した箇所をチェックしてもらい,一通り掃除して終了。歯の治療より歯垢掃除のほうが痛いのはどうしたことだろう。

池袋経由で事務所に行く。暑い。しおたれた様子の木々を何枚かiPhoneで撮影してしまった。

17時過ぎに事務所を出て,新宿スポーツセンターへ。改修工事に半年くらいかかっていたので,昨年の秋以来。待ち合わせた家内は調子が悪いようなので一人でジムに入ることにする。管理会社が変わり,改修前の回数券が使えないと言われたのだけれど,事前にそんなことになるアナウンスを聞いたり読んだりした記憶はない。重い腰を上げて久しぶりにやってきたのにいやな感じだ。とりあえず前の管理者の連絡先を受け取り,新たにチケットを購入する。受付の対応がよくないように感じるのは当然だ。

ジムの中はそれほど変わっていないものの,ストレッチの指導ビデオは立位で行なうものからスタートする。そんなのできないじゃないか,普通。文句をためながらそれでも小一時間動いた。

家内と二人で,高田馬場ビール工房に入った。ここも店の人の対応がよくなかったなあ。こんな日に出会うのは非道い奴ばかり。ビールはまあまあ。冷えすぎていないのはよいのだけれど,かといって,少しだらり力の抜けた感じがした。食べ物はこんなものだろう。

駅前のスーパーマーケットで買い物を終えて出たところで娘と会った。

早めに布団に入り,数十年ぶりにページをまくった横溝正史の『蝶々殺人事件』を読み終えた。坂口安吾が絶賛した記憶ばかり残っていて,こんな小説だったということをすっかり忘れていた。もちろん犯人も覚えていない。にもかかわらず,いま一つ面白くなかったな。

政治

彼(堀口大學)は,歴史をお伽話のように感じるわけだよ。でも歴史ってしょせんはお伽話だから。歴史がいくつもの人の口に咀嚼されてお伽話になったわけでしょ。 閔妃暗殺事件に関して言えば,問題は稚拙だってことなんだよ。海江田少佐が言ったことがすべてだよね。政治とは善悪ではなくて,巧拙だと。あれはあまりに稚拙だから,人から非難されてる。 (中略) 勝海舟が言ったように,政治の方途に倫理はない。悪い方法か良い方法か,つまり巧拙はある。朝日新聞が言うような「善意」だとか「良識」では歴史は動かないんだよ。時代ってのはもっと意志のない無味乾燥なもんで,泥だらけの道に雪だるまを転がすようなもんだよ。そこには意のつくものはないんだよ。力学の問題でしかない。その簡単な事実に,大學が気付くという話だよ。 なるべくドロのない雪の沢山残っている坂を転がせば,雪だるまは白く大きくなるでしょう。メキシコ革命で,九萬一は上手にふるまうんだよ。で,逆に大學は その巧さに違和感を持つわけだ。皮肉なことにね。父親が十余年で学んだ技術に鼻白むんだ。

矢作俊彦(インタビュア:月永理絵):新作『悲劇週間』について語る,nobody,No.19,p.33,2005.
この時期になると,思い出す。1990年の高円寺駅北口から延々と。

高円寺

1990年の高円寺北口。スポーツ平和党とオウム真理教が睨み合う横に,石原軍団が登場した。あれからずっと,余韻とは程遠い,長い長い昭和の終わりと区切りをつけられずにいるような気がする。

公開書簡フェアを終えて,久しぶりに高円寺をぷらんぷらんとした。

家内と待ち合わせ,北中通りを阿佐ヶ谷方面に向かう。バロックがなくなってどれくらい経ったのか覚えていない。向かいの古本屋さえ店を畳んでいた。家内が古着屋を覗いている間に,コクテイルのぐるりの棚をチェックして南口に向かった。

線路を越えて高架下を中野方面に上る。16時過ぎ,すでにできあがっている人が違和感なく街並みに溶け込む。パルは立派な佇まいのまま,そこにあった。ライブハウス20000Vがなくなっていたことを思い出す。ライブを見終えて1階の回転寿司屋で飯を食えたのだから,あのころは若かったのだ。吉田達也のライブの記憶ばかりなのは,土日の印象しかないからだろう。平日の仕事帰り,さすがに20000Vには足が向かなかった。

そのままルックを進む。大石書店は変わらない。店内に入ると,その匂いに学生時代のアパートの記憶が蘇る。何の匂いなのだろう。ラベンダーでないことだけは確かだ。相変わらずの品揃えで,ここで何冊か本を手に入れたはずなのだけれど,何だったかすっかり忘れてしまった。アニマル洋子も健在。杉本秀太郎の『洛中生息』(みすず書房)が300円で出ていたので購入した。京都の知人がちくま文庫版を探していたのだけれど,こちらでも間に合うのかわからない。それにしても300円だ。

このあたりまではしばしば自転車で出かけてきた。昔は朝日屋洋品店がめだったのだけれど,見当たらず,閉店したらしい。その頃東側にあった小洒落た古着屋がルックに移ってきたのか,全体華やかだ。それが吉祥寺を横目に見ている感じで乾いている。

弟からショートメールが届く。戸川純とケラのデュエットがよかったという,まあ,いまどうしてその内容なのかわからないけど,とりあえず,あたりの風景を何枚か写真に取り,メールに貼り付けた。「中野から自転車で行ってたところ。懐かしいな」兄弟して同じことをしていたのだ。

赤い公園のサイン色紙が飾られたパン屋で明日の分を購入し,休憩しようと七つ森を探したものの見つからなかった(後で検索したところ,もう少し先だった)。カフェ分福に入った後,駅に戻った。

昨日,会社帰りに高円寺まで,また出かけてしまった。

 

公開書簡フェア

時間になった。

絲山さんを真ん中に「公開書店フェア」に参加した10書店のうち,6書店の書店員さんが登壇。どのような進行になるのか参加者も手探りの感じで始まった。フェアの経緯,手紙の内容などを中心に,まるで,その場にいることを承認されるかのような和やかな雰囲気でやりとりが続く。

交わされた言葉が再び,ここでもあり,どこかでもある棚に並ぶことを夢見て,メモを取ろうとなど思いもしなかったので,流れに身をゆだねるのみ。いちいち感覚を止めて記憶にとどめるなんて,もったいない。

それでも絲山さんの「棚は売り上げを出す場だから」という意味合いの言葉が強烈な印象だった。物見遊山よろしく高円寺に出かけてきたものの,そのあたりどんなふうに切り分けているのかとても興味があったのだ。

手紙はとてもパーソナルなもので,それを「公開」前提で,売り「場」に置いて共有する。手紙を書く「私」は職業としての書店員なのか,仕事を抜きにしての「私」なのか。フェアで読んだ手紙はそのあたりよくも悪くも虚実皮膜という感じがした。参加してみて結局は,それぞれだな,というのが実感だ。ただ,仕事と私をきちんと区切らなくても書店での仕事が成立しうることを皆さん,身をもって示してくださった気がする。もちろん個人が担うべき責任だけで「場」の持続性を保証することなどできない。それでも,なお。

「ベストセラーばかりを並べる」⇔「ベストセラーは並べない」という天秤から降りて,「売り場」で利益をあげる可能性を探る。ならば買う方だって,スズキさんよろしく「この書店ではメルセデスが手に入る。あの書店で売っているのはベンツだ」という面白がり方をしてもよいはずだ。体力をもって物を手に入れる愉しみを逃す手はない。

場だから,動き,体験が生まれる。そのただ1つが場の一生でいちばん美しい体験だなどと,他のだれにも言わせまい。

公開書簡フェア

文禄堂書店高円寺店は,高円寺駅北口の向かいにある。あゆみブックスのうちの一軒で,先日,リニューアルして店構えばかりか店名まで変えた。入り口左側にカウンターがあり,ドリンクのオーダーもできるようだ。iPhoneでPeatixを開き,受付を済ませる。1ドリンク付で,メニューにはアルコールもあった。ハートランドを瓶のままもらい,会場に入った。ハートランドを瓶で飲んだのは,10年くらい前六本木ヒルズに開いていたバァ以来かもしれない。

会場は,普段なら棚が並ぶスペースを片づけ誂えられていた。三方を文庫とマンガの棚が囲む。土曜日の13時から15時が書店にとってどのような意味をもつ時間帯かイメージできないけれど,トークイベントを含む今回のフェアの根本にあったのが,“場を使う”ことに対する敬意だったと理解するまでには,2時間が必要だった。

すでに参加者は集まり始めていた。中に入ると2階まで打ち抜きのスペースになっていて,右手に長机,中央に椅子が置かれていた。階段をあがった2階にも棚が据えられてあり,そこにも手すりに沿って椅子が並んでいるようだ。1階に入ってこられたものの2階に移った人が数名いた。

絲山秋子さんの小説は「イッツ・オンリー・トーク」から読んでいる。デビュー作との出会いはログのどこかを探せば出てくるはずだ。キング・クリムゾンの連想からページを捲ったのだけれど,そのときはたとえば清水博子さんの小説を矢作俊彦絡みで手にするのに似ていた。最近まで,その後の作品について記した記憶はほとんどない。小説は手にしながらも,次に印象的だった「下戸の超然」までのしばらくの間,私にとってはときどき読む若手作家の一人だった。

久しぶりに文芸誌で読んだ「下戸の超然」が面白かった。この小説に登場する「QとUの関係」については,その後,さまざまなところで使わせてもらいもした。北杜夫や石森章太郎を読んできた身にすると,「知的好奇心をくすぐるところが1つは盛り込まれている」作品が好きで,「下戸の超然」は久しぶりに,そのことを感じた小説だった。

文章の上手さはデビュー作から感じていたものの,それは必ずしも私が好きなタイプの文章ではなかった。単行本『妻の超然』を手に入れてから読み返すと,たとえば1行で半年を飛び越えるような文章にすっかり驚いてしまった。たぶん,私が少しは成長したからに違いない。年をとるごとに,少しずつものごとを受け入れるキャパシティが広がっていく,というか,小さなこだわりがどうでもよくなっていくのだ。その後しばらく読まなかった時間があるものの,今年はデビュー作から意図的に読み返している。ただ,『スモール・トーク』の次に『不愉快な本の続編』に飛んでしまい,このまま『忘れられたワルツ』に進むか『ニート』に戻るか考えている。

昨年末,絲山さんがツイッターで『イッツ・オンリー・トーク』をドアストッパー代わりにしている写真を見てから,数回,やりとりさせていただいた。ツイッター上で今回のフェアが生まれる様子は,だからリアルタイムで眺めていたように思う。(つづきます)

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