1979

『網状言論F改―ポストモダン・オタク・セクシュアリティ』のなかで小谷真理が,オタクの出自のひとつに平井和正をあげている。誰か大藪春彦論を書かないだろうかと嘆いていたのは平井和正本人だったと記憶しているが,誰か平井和正論を書かないだろうか,と思う。

オタクに関してまとまった論考を読んだ記憶がないので,すでに検討済みなのかもしれないが,平井和正が1970年代以降のサブカルチャーに及ぼした影響は,思いのほか大きいと思う。SF,マンガ,アニメ,ハードボイルド,セクシュアリティ,新宗教。音楽と映画,演劇,お笑いをのぞくものの,残した足跡はないがしろにできまい。一方で,音楽と映画,演劇など,平井和正が足を踏み入れなかった/踏み入れられなかった領域に,その後のオタクは踏み込むことで1970年代のオタクを踏み越えていったという仮説でも立ててみると,何かみえてくるものがあるかもしれない。

たとえば大槻ケンヂは,生まれからするとオタク第一世代のおわりに位置するが,大槻が平井和正を読みながら,音楽や映画に魅入られていった経緯を掘り下げることができれば,東や北田のフィクションとは別のオタク観が登場するのではないだろうか。

1979

『網状言論F改―ポストモダン・オタク・セクシュアリティ』のなかで,斎藤環が微妙に時系列を調整して,オタク第一世代が政治的だと話すくだりがある。そうでもしないと東の思い込みから先に進めないと考えたからだろうけれど,少なくとも10代のオタクに政治的な振る舞いを期待すること自体,いったいどこの話だろうかとなるのが関の山。

過去について,東浩紀の思い込みの見当違いさ加減はさまざまな諍いを生み出してきたように思う。笠井潔や大塚英志との対談を読むと,同時代への焦点化は確かなのに,ひとたび自分が生まれる前の話になると見当違いな断定に走る。致命的に想像力が足りない。

だから東浩紀が語る1970年代のオタクは,かつてどこにも存在しなかった想像の賜物として理解しておいて間違いはない。それは北田某とか,若い世代の論客に共通する欠陥だろう。にもかかわらず,その時代を視野に入れて何かを語ろうとするから,さまざまな軋轢を生むのだ。

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7曲目“loveless”。くるりの王道のメロディ。今回のアルバムは“坩堝の電圧”からさらにトランペットアレンジが格好良くなっている。8曲目の“Remember me”も同様。ただ“Remember me”については,iTunes配信の三柴理ピアノ入りバージョンを復活させてほしかった。

9曲目“遥かなるリスボン”。娘はこの曲が一番,気に入っている。iTunesのインターネットラジオに“ Eclectic ”というカテゴリーがある。ここにきて,このアルバムがエクレクティックであることに思い至る。遅いけれど。だから,エクレクティックだった前作とやはり双子のアルバムではないかと思う。90トラックで思い出すのはケイト・ブッシュの“Dreaming”。とすると,“Never for ever”と“The Dreaming”の2枚の流れと,“坩堝の電圧”と“The Pier”の関係は近い。

10曲目“Brose&Butter”,11曲目“Amamoyo”と,まさにエクレクティック。

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4曲目“ロックンロール・ハネムーン ”。先のiTunes限定シングルのときは,音の弱さを感じたものの,アルバムではとてもいい感じにまとまっている。このリズムってマーチよりウエスタンっぽいなとふと思った途端,ならばYMOの“Ballet”もウエスタンか??  それが新鮮だった。

5曲目“Liberty&Gravity ”。ライブで何回か聴いたときの印象はフォークルの“コブのない駱駝”。繰り返し聴くほどに味が出てくるというか,構成を記憶にとどめたくなる。今回のアルバム全体に感じたのは,点描を拡大してそこに自然と注意を向けてしまうような音の構成の妙だと思う。
点描画は,もちろん全体を見せるための手法をいうわけで,そのまま音楽に置き換えるとスティーブ・ライヒのミニマル音楽や新生King Crimsonの中心となる曲だろう。
しかし,点描画もライヒもKing Crimsonも,拡大して構成の妙を目的に作品が生み出されているわけではない。今回のアルバムが奇矯なのは,だから点描画的なアプローチで,ミュージックコンクレートやサンプリングと同等の面白さを盛り込むことが意図的に試みられているからだろう。

6曲目“しゃぼんがぼんぼん”。“日本海”と同じく,「なう」という歌詞が,オノマトペのように用いられているのが面白い。小説では昔からオノマトペを用いた文章が稚拙だとされることがあって,夢野久作やたぶん宮沢賢治も,辛辣に批評されたはず。
でも,「なう」に,「なう」にさえ,なにがしかの情感を封じ込められることは発見。

50歳からの赤い公園

会社帰りに立ち寄った近くの書店ではFMが流れている。聴こえてきたのは荒井由実の“晩夏(ひとりの季節)”。NHKの銀河テレビ小説がよかった時代を思い出す。DJも同じことを言う。

赤い公園のアレンジ,演奏のセンスが,目にしたインタビューに登場するバンド,歌手とどうしても結びつかない。あぶらだことかP-MODELとか,キャプテン・ビーフハートとか,そういう固有名詞が登場するのを期待しても一向に出てきはしない。先日も昌己と飲みながら「“ひつじ屋さん”の出だしはどう考えても“カルカドル”だよな」とか「ニューウェイヴを経過していないとは思えない」とか話したばかりだ。

新譜を聴いて,13曲目“お留守番”で,ようやく荒井由実っぽいなと感じた。エレクトロニカを交えた展開はまあ独壇場。

繰り返し聴いてしまうのはオーラスの“木”。思い出したのはSiouxsie And The Bansheesの“Love Out Me”なのだけど,“木”のほうが情報量が圧倒的に多いし,格好よさは数段上だ。

赤い公園の楽曲の多様さはビジュアル系の多様さだ,と感じたのはあながち間違いでないと思う。ラルク・アン・シエルをきちんと聴いたことはないけれど,シングル曲がかかったときに,おやっと引っかかるところが似ている。ラルク・アン・シエルはCDを買おうと思ったことは一度もないのだから,赤い公園には,さらに何かあるに違いない。

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