フィルムノワール

そうこうするうちに矢作俊彦の新刊『フィルムノワール/黒色影片』(新潮社)が無事,刊行された。

サイン会が開かれるという書店で刊行日前日に見つけ購入,そのままそばのバールでビールを飲みながら捲り始める。レジ待ちに適当に開いた版面を目にしただけでアルコールがほしくなってきたのだ。そこで数十ページ読み進め,「新潮」連載がかなり使われていることを確認した。ビール1杯で〆て,家族と待ち合わせた別の書店へ向かう。近くの店に入り夕飯を一緒にとったが,そこでもビールを飲んでしまう。

家に着き,夜10時くらいに寝床に入って,続きを読む。連載のときにはあまり感じなかったけれど,二村モノの前作『THE WRONG GOODBYE』に比較すると遥かに『あ・じゃ・ぱん』に近いイメージだ。『真夜中へもう一歩』のキャッチコピーだったはずのユーモア“徘徊インタビュー小説”を冠するのにふさわしい騒乱ぶり。
『リンゴォ・キッドの休日』を端正な文体で描かれた正統派(何が正当なのかわからないが)ハードボイルド小説だと思い込み,熱病に冒された身からすると,矢作俊彦本人は『あ・じゃ・ぱん』や本作のほうが正統派と思っているのかもしれないと,そんなふうに感じた。

引用だけで世界を構築したいという妄執は,『あ・じゃ・ぱん』を経て,この小説で完成したのかもしれない。有象無象の映画からの引用がこれでもかというくらいに示される。

相変わらずすばらしい描写が続く。これほど魅惑的に情景を描く小説家を私はいまだ他に知らない。

湾仔に裏通りに,もう遊園地の切符売り場のような造りの外人バーは見当たらなかった。カラオケラウンジを名乗る店はあったが,下着を着けていない女とのデュエットが売り物のクラブや,帰りに踊り子を飲み残しの酒のように持ち帰れる夜總會ではなかった。
それでもあちこちで,アメリカ人とは思えない西欧人がアメリカ人のように振る舞い,彼らの物欲しげな視線の中を東洋人の娘たちが回転寿司の大トロみたいに練り歩いていた。
p.181

こんなふうに描かれると,そこがまるで上海の新世界界隈のように思われるから不思議だ。

本を一度畳み,ふと奥付をみると2014年11月25日発行,となっている。だれひとりフライングゲットできない本が,世の中にはあるのだ。(つづきます)

赤い公園

アルバム“猛烈リトミック”のラストの曲“木”は,以前に記したように,よいときのバンシーズにさらに磨きをかけたような曲・演奏で,iPodに入れてからしばらくはこの曲ばかりリピートしていた。事前にネットで情報を得ていたので驚きはなかったものの,ライブが“木”からスタートすると,いきおいテンションは上がる。

ライティングだけの演出をシンプルと形容してしまっては,バリライト華やかりし頃のジェネシスはシンプルだったのだろうか? とたとえに出てしまうのは,半世紀も生きているのだ,しかたない。ビデオもオブジェもないステージ上で,強烈なライティングの下,メンバーの演奏はおそろしく安定している。特にボーカリストは,それこそ芯のようなものを入れ込んだのではないかと疑ってしまうくらいに危なさを微塵も感じなかった。他の3人に比べると危うかったこれまでとは別人だ。
レッド・ツェッペリンの楽曲でボーカリストがかかわる時間は1/3にも満たないので,ステージ上,手持ち無沙汰だったというような ロバート・プラントのインタビューを読んだ記憶がある。赤い公園のボーカルも,これまでは似たようなものだったのだけれど,この日のステージ上では,唄っていないときの存在感も自然で,にもかかわらず欠落するものが少ない。何があったのだろう。

“のぞき穴”“塊”をのぞくと,演奏されたほとんどが新譜の曲。津野米咲は,これまでのようにキーボードとギターを行き来することなく,ギターに専念している。 キーボードパートが欠かせない曲はデータでまかなうので,いきおい尺が決まってしまう。サポートでキーボード入れてフリーに奏でるライブがあってもよいかもしれない。

その反面,ギターはこれまでにも増してフィードバックやノイズとコーラス・フランジャー系のきれいなエフェクトの対比が強烈だ。

新譜では“108”のリズムと“ひつじ屋さん”がまあ見事だった。特に後者は,フロアも盛り上がる。“ひつじ屋さん”で盛り上がるのだったら,P-MODELの“カルカドル”だって盛り上がる可能性かもしれない,ジョン・ゾーンだって……などなど,断片的な印象が積み重なる。

後半の曲は少しミスが目立ったけれど,モニターがもはや機能していなかったのかもしれない。それくらいの歓声だった。

本編ラストは,これまで通り“ふやける”。ドラムといい,ギター,ベースといい,“呪々”の頃のバンシーズ(こればっかりだ)がプログレに横恋慕したかような曲で,いやすっかり楽しくなってくる。

アンコールは,文字通りサービスのようなもので,それはそれで贅沢。

このバンド独特のリズム解釈を堪能したライブだった。

赤い公園

日曜日,赤い公園のワンマンライブを見に出掛けた。

10年前,東麻布に事務所があった頃は,六本木のあおい書店(1,2階)と,2階の(今もあるのだろうか)郷土食材店(いや,どこの県だったろう。長野や岐阜あたりだと思うのだけれど)は,仕事の待ち合わせに使ったり,会社帰りにしばしば立ち寄った。(付記:岐阜県のアンテナショップで“オリベスタイル”。震災前に閉店したとのこと。また,検索してしまった)。それがここ数年は麻布十番あたりで飲むとき以外,六本木にくることはほとんどなくなった。テリトリーはまったく職場の立地に左右される。

あおい書店は昔のまま,残っていた,と思ったら,2階の美術書とマンガ,理工書のコーナーが1階に移っていた。2階の無駄な広さは落ち着いたのだけれど。

あおい書店で昌己と待ち合わせ,六本木ヒルズの少し先にあるEX THEATER ROPPONGIに向かう。いつの間にこんなハコができたのだろう,やけにきれいだった。開場まで,しばらく屋上広場のようなところで待機する。整理番号200番ずつにゾーニングされていて,当然,若い男性の客が多い。
「フロアでは年齢階層別にゾーニングしてほしいな」
「1~200番台って,昔の新宿ロフトのキャパだったら,それだけで1回の公演が埋まるじゃないか」

時間通りの開場後,順番に階段を降りて,降りて,また降りて,最終的にフロアがあったのは地下3階あたりだ。180番台で入ったので,われわれはフロア半ばのパーテーションに陣取ることができた。ぐるりと眺めながら,このフロアが埋まるのかなと思ったのは杞憂で,開演間際にはおそろしい込み具合だった。

出囃子がなかったことに驚いた。“木”のギターリフをデータで鳴らしたものに合わせてメンバーが登場する。ギターのリフがデータに重なり,そこから“木”で,その日のライブはスタートした。(つづきます)

iPhone

はじめてレンタルサーバを借りて,サイトを立ち上げたとき,使っていたのはその少し前に手に入れた饅頭iMacだった。デザインといいスピーカーの音といい,琴線にふれてくる。しばらくは雑誌やらネットでとにかく情報を得て使いまくった。サイトを立ち上げようと思ったのも,たぶんあのiMacを手に入れたことがきっかけだったに違いない。全体,何かを突き動かす雰囲気がした。

PowerPCが潰えたあたりから,饅頭iMacのスペックでは更新に追いついていけなくなった。Windows作業用にサブとして使っていたノートパソコンがメインマシンとなり,Windows 7搭載のノートパソコンを手に入れたことで,Macの使い勝手をすっかり忘れてしまった。何だかMacもWindowsも変わらない,というよりも,パソコンでなにがしかの欲求が喚起されるような状況ではなくなったのだ。

5年半使った携帯のバッテリーがくたばってしまったのは数か月前のことだ。普段はそれほど携帯を使わないので,電池でしばらく代替していたのだけれど,必要があってネットにつなごうとすると,あっという間に単三乾電池2本が空になってしまう。あまりのコストパフォーマンスの悪さに,スマホを契約することにした。

特に心酔していたわけではないもののスティーブ・ジョブズ亡き後のAppleのラインナップには,どうも関心が持てず,最初は HTL23あたりにしようと考えていた。ところが日曜日に赤い公園のライブに出かけた際,昌己から「iPhoneだと,アプリをいちいちダウンロードしないで済むのが多くて楽だよ」と言われて,心が少し揺らいだ。

昨日,変更の手続きに出かけた。結局,HTL23よりiPhoneのほうがリーズナブルになっていることを知り,ならばとiPhone 6 Plusにした。スマホを初めて使うのだ。画面は大きいに越したことはない。

そして2日間。電話とメール,FBにTwitter,Kindleくらいを触っただけが,使い勝手からしたらパソコンのほうが楽なことには変わりない。Kindleで無料の“ドグラ・マグラ”を読み始めているのだけれど,読み終わるのだろうか。

敗戦後論

ハードカバーで買い直した(古本)加藤典洋の『敗戦後論』(講談社)をようやく読み終え,何だか面白くなってきたので,突っ込みを入れながらもう一度読み返している。

ヴェトナム戦争の傷は,一つにはその戦争が「正義」を標榜したにもかかわらず,「義」のない戦争であったことからきている。日本における先の戦争,第二次世界大戦も,「義」のない戦争,侵略戦争だった。そのため,国と国民のためにと死んだ兵士たちの「死」,――「自由」のため,「アジア解放」のためとそのおり教えられた「義」を信じて戦場に向かった兵士の死――は,無意味となる。そしてそのことによってわたし達のものとなる「ねじれ」は,いまもわたし達に残るのである。
p.10

戦争に負けるということは,いわば自分にとっての「善」の所与が,奪われるということ,どのような願いもほんとうの形では果たされず,ねじれた形でしか世界が自分にやってこないということだが,その自覚がつまりは,美濃部の出発点となっているのである。
p.30

「義」をたよりに戦争をして,気づいたら2,000万人を殺戮していたとしたら,初手から「義」などありはしないのは明らかだ。正しい戦争など,ありはしない,という前提に立たなければ,たぶんものごとを考え得ないのではないかと思う。当時,連合軍側はすでにアジア・アフリカに植民地を抱えている。坂口尚の『石の花』にさえ,はじめの頃の一コマにそのことははっきり示されている。第二次世界大戦で,どこに正しい戦争をしていた国があるというのだろう。

加藤の一連の言説に違和感を感じるのは,戦争に対するイメージのしかたが,マンガや映画よりはるかにプアだというところに一因があると思う。敗戦のイメージについても同様なのだけれど,それは改めて。

実家に向かう電車で読み進め,帰りに駅前のスパに入りながら本を読もうと,手前の新古書店の100円棚をチェックしたところ,『消された一家―北九州・連続監禁殺人事件』(豊田正義,新潮文庫)があったので購入。湯船につかりながら読んでいたのだけれど,これほど風呂で読むのに適さない本はない。帰りの車中,続きを読んだものの,ここまで気分が悪くなる文章を読んだのは初めてかもしれない。

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