2003年4月
04月01日(火) コトナについて |
||
コトナという言葉を〈発見〉したのは,かれこれ20年近く前。 いい年して,ガキのようなばか騒ぎに明け暮れていたころ,一握りの含羞を込めてこども+おとな→コトナとした。なさけない発音が,当時自分たちにぴったりで,ジャーゴンとして内輪では流行したが,広まりはしなかった。 10年ほどたって,(意味はまったく違うが)アダルトチルドレンなる言葉が登場したとき「訳すとコトナじゃないか」と,頷き合った。 それから今日まで,仲間以外から「コトナ」という言葉を聞いた経験はない。 「GOES ON GHOST その2」 最後にライブで聞いたのは,1988年10月のロフト2days2日目。セッティング・リストからすると,「サンパリーツ」の代わりだったと思う。 15年近くもたったとは。 |
04月02日(水) 中野ZEROホール |
||
先日,子どもの発表会のため,中野ZEROホールへ行った。前回はP-MODELのライブだった。だったといっても1987年のこと。 あのとき聞いた“FLOOR”~“POTPOURRI (ポプリ)”~「いまわし電話」は,これまで体験したライブのなかでも,譬えようがない音圧だった。 次点は,1990年(89年か?)『亀盤』を出した後の渋谷クアトロでのあぶらだこの「焦げた雲」。95年(これも不確か),彩の国で体験したスティーブ・ライヒの「18ミュージシャンズ」。いずれも甲乙つけがたい。 この日を境に荒木が引退(うわさには,新潟で石油掘りの跡継ぎのためと聞いたが,ホントだろうか)。以後,読売ホールでの鼓笛隊,野音でのシャレP-MODELまで,それから今日まで,あの筆舌に尽くしがたいドラミングを我々は失ってしまった。 86年から87年2月までの1年あまり,P-MODELは,another P-MODELといってもいいほど音の感触が違っていた。音の固まりのなかで,「サンパリーツ」のバスドラ,“KARKADOR”のハイハット,それらはひとつの要素かもしれないが,あまりにも大きな要素だった。 あの日,サラウンドと称して,耳をつんざく甲高い音が渦巻いたが,何と,今回も同じように割れた高音が鳴った。あれは,ホールの特色だったのだろうか。 |
04月03日(木) レゲエとフィリップ・グラス |
||
80年代のライブハウスでは,フロアの明りが落ちるまでの間,なぜかレゲエがかかっていることが多かった。 整理番号2桁で突入したはいいものの,気の抜けた(と感じられた)レゲエのリズムに拍子抜けたことも,しばしばだ。 半券を紙コップ1杯のビールに換えだらだら飲み干すと,すでに30分たっている。 レゲエが止み,フロアの明りが落ちる。すると聞こえてくるのはフィリップ・グラスの“フォトグラファー”ACT3。登りきったところで地響きのようなドラムマシンの音。P-MODELの登場だ。アドレナリンが沸騰してしまうこの光景に,何度立ち会えただろう。 今でも,“フォトグラファー”を聴くと,身の置きどころがなくなってしまう。90年早々だったろうか,CDを買ってしまった。 リハーサルに熱が入ってかどうか,開場は遅れ,開演30分遅れもめずらしくなかったP-MODELのライブでは,一度,消えた客電が再び灯ることがあった。もちろん“フォトグラファー”は鳴り止んでいる。萎えた気持を奮い立たせるために,1曲目がはじまるやいなやステージめがけて突進した。 |
04月04日(金) ジュニアがついたころのカート・ヴォネガット |
||
ジュニアがついたころのカート・ヴォネガットの,というより彼の処女長編『プレイヤー・ピアノ』に次のような一節がある。 「……だれかが不適応のままでいなくちゃいけない。だれかこの社会になじめないものがいて,人間がいまどこにいるか,どこへ行こうとしているかに,疑問をぶつけなくちゃいけない。」 はじめて読んだとき,P-MODELの立ち位置はここだなと思った。それは気絶していようがいまいが,天秤から降りようが変わりない。 でなければ,誰が胡麻を舐めながら,ティッシュをテーブルに逆さにつけるような,日常の発明に勤しむなんてことできるだろうか。 社会になじんだまま,疑問をぶつけるような高飛車なものいいが流行っているときは,やけに新鮮に感じる。 竹内敏晴氏の「殺されてたまるか」,辻潤の「私は世間を相手に闘おうと思うほど,自分をばかにしてはいない」(このフレーズ,確認するために10年振りに辻潤全集をひろげたが,見当たらなかった),辻潤はややズレるが(これについては,吉行淳之介の興味深いエッセイがある),いずれも共通する思いで記憶している。 |
04月05日(土) サックス? |
||
ビデオにもなったFUJI・AVライブは雨の日だった。この日もリハーサルが押したのか,開場後,なかなかスタートしない。 後に,シリーズ動員記録を更新したこの日の会場は立錐の余地もないほど。毎度のことに慣れているとはいえ,湿気と人いきれでイライラは加速する。一緒にいった友人たちと交わす言葉もなくなった。そのうち,冠ライブにありがちな招待客に矛先が向かうのも仕方ない。ふと,片隅からこんなやりとりが聞こえてきたのだ。 「P-MODELってどんな曲やるの?」 女の声だった。 「サックスがいてね,オシャレでメロディアスな感じだったと思うよ。もうすぐ始まる」 男の声が答える。 何? サックス? オシャレでメロディアス?? こ奴ら,聞いたことないな。聞いて驚け! 横にいた友人にもその言葉が聞こえたのか 目を合わすと,思わずニヤリとした。 ほら,“フォトグラファー”ACT3が聞こえてきた。 間髪あけず,後ろからグングン押される。前へと突進する。悲鳴が聞こえたような気がしたが,もう,そんなことは気にならない。 “FROZEN BEACH”のリフを弾く,ことぶきの姿を目にしてからは,もう後ろを振り向くことはなかった。 |
04月06日(日) バンドホテルのウイリー沖山 |
||
横浜山手の「バンドホテル」には一度だけ宿泊したことがある。昔日を偲ばせるものはほとんどなく,あのとき摂ったモーニングほどコストパフォーマンスにかなわないものは,あとにも先にもない。笑顔を絶やさない昨今のホテルマンに比べると,慇懃無礼なだけ新鮮に感じられたフロントマンの態度。 無国籍というよりは,アウト・オブ・デイトなようすは好き嫌いは分かれるだろうが,経験しがたいものではあった。 最上階の「シェルルーム」は続いていた。 フロントで,ウイリー沖山のポートレイトをあしらったチラシを手にした。港のホテルで毎日2ステージ,週末は3ステージを勤め上げる支配人。考えただけでも,1ダースの小説のアイディアが思い浮かぶというものだ。こちらもコストパフォーマンスと合致せず,その扉をくぐらなかったが,幸運にも(?)6階をリザーブしたわれわれは,最後はヨーデルが響きわたる,夜半までつづく彼のステージを堪能することになった。 ライブハウス「シェルガーデン」は,バンドホテルの右隣にあり,解凍前のP-MODELは,たびたびライブを行なった。 “different≠another”が演奏された日は,車寄せを隔てて,「シェルルーム」と「シェルガーデン」でヨーデル合戦が繰り広げられていたことになる。 われわれが宿泊して,数年後,バンドホテルはその幕を閉じた。 |
04月07日(月) 「チケットぴあ」の天使 |
||
「チケットぴあ」取り扱い店が,雨後のタケノコのように林立しはじめたころ,百歩譲っても,日本のロックを聞くことはないだろうと思えるパートのおばさんを通して,チケットを購入しなければならないことがあった。 彼女たちは,一度発券したのち,キャンセルは効かないことだけを強迫的に伝達されていたのか,オーダー後に確認すること,税務署並の執拗さに辟易とさせられた。 どんなところにも怠慢な人間はいる。 今は亡き,渋谷LIVE INNでのP-MODELのライブチケットを入手するために出かけた先にいたのがそんなパートのおばさんだった。 そ奴は,発券前の確認後,ていねいなことに1日前倒した日のチケットを寄越した。家に帰って気付いたが後の祭り。前日のライブは筋肉少女帯だった。 ひまだったので8階(だったと思う)にあったそのライブハウスまで足を運んだ。 その日の筋肉少女帯のライブは2部構成。第一部はケラ抜きの空手バカボン=「空手アホボン」が登場。冒頭の「アホボンと戦慄」。クリムゾンの「スターレス」のメロトロンのフレーズに,歌詞をつけて歌ったもの。情けないが,あのフレーズを聞くと条件反射のようにグッときてしまった。 第二部は通常のライブで,すでに「いくじなし」は圧倒的なインパクトだった。 もちろん翌日のP-MODELのライブにも出かけた。 その後,後楽園ホールで「子どもたちのCity」を見に行ったときは,反対にP-MODEL,筋肉少女帯という登場順だった。 筋肉少女帯との出会いは,パートのおばさんの怠慢さのお陰だということになる。石野卓球風にいうならば,あのおばさんは天使だったのかも知れない。 |
04月08日(火) キャバレー大風呂敷の嘆き |
||
ドミニク・ノゲーズは,1916年2月5日,チューリッヒ,キャバレー・ヴォルテールのオープニング・パーティでロシア民謡とロシア舞踏を披露したのはレーニンとその友人だと仮説をたて,丹念に検証している。(『レーニン・ダダ』) 著者は,ロシア革命までも,ダダであるとして考察をすすめる。もちろん,南米に亡命したケンタッキーフライドチキンの親爺が登場するのは,しばらく後のことだ。 それから75年。六本木で開催された「キャバレー大風呂敷」に参加したわれわれ4人は,革命を起したわけでもなければ,メタルパーカッションを連打することもなかった。1人の友人の落胆を横目に,地下鉄の始発を待つしかなかった。 はじまりは,事情通と称してはばからない知人の怪しい情報だった。 「今度,六本木でやる『キャバレー大風呂敷』に平沢進と戸川純がでるらしい」 「平沢を見たいな」そういった徹は,誰が見ても戸川純ファンだと察せられた。それでも,これまで頑なに,その事実を認めようとしなかった。「上野なにがしのファンなんだ」「高見知佳の曲がいいだろう」 ライブにいけばいいものを,決して行こうとはせず,ソロになった平沢とコラボレートすることが多くなったのを機に,平沢ソロコンサートへ足繁く通った。徹の落胆は,すでに渋谷公会堂で起こっていた。 さて,当日。ケラが登場した。徹の期待は高まった。ヒカシューが登場した。次だろうか。ジョン・キングが登場した。Adiが登場した。私と昌己は歓喜した。金子飛鳥がデヴィッド・クロスみたいだ。渡辺等はとんでもないベースを弾いた。 ストリップがあり,パンツ一枚,腕力だけで足を浮かせたままテーブルの隅から隅まで動き回るショーには思わず「うちでやったら,親が驚くだろうな」と頷き合った。そして最後。事情通の事情が,自称だったことを確認したのは真夜中だった。 |
04月09日(水) ハイ・フィデリティ |
||
昌己とは,読んだ小説のことを話題にした覚えは一度しかない。 まったくの偶然で別々に手にし,同じ感想をもった。数年前,『ハイ・フィデリティ』を読み終えたあとのことだ。 漏れ出た言葉はまったく同じだった。他人事とは思えない話だが,2つだけ気に入らないところがある。恋愛のエピソードはいらないというのが,まずひとつ。もうひとつは,もうひと回りだけ,新しいバンドを扱ってほしかった。 「ニューウエーブ好きで,恋愛なしだったら,座右の書になるぞ」 「そんな話,書けるとしたら大槻あたりかな」 レコード店の紙袋を後生大事に抱えている男や,最高のカセットテープづくりは励む姿は,読んでいると情けなさを通り越して,切なくなってくるほどだった。 まさに,楽器少年にならなかったロックファンのありうるべき姿が,そこにはあった。 喬史がポリスのブートレッグを買い,「音が悪い」という理由で返品に向かうのに付き合わされた経験を持つ身としては(あげくに柄の悪い店員に「お友だち,ブートレッグが,どんなものか知ってるんですか」と吐き捨てられたのだ),まるで,あれは,この小説のなかのワンシーンではなかったかと錯綜してしまった。 喬史は,その後,「あの,音の悪さがいいんだよな」と,信じられない台詞を吐いた。 |
04月10日(木) 彼はテレポートできたのか |
||
買ったまま,読み終えない本の代名詞が『薔薇の名前』であることは,われわれの間では別段,恥ずべきことでなかった。しかし……。 奇妙な読書体験がある。実に面白いストーリーなのに,あるところまでくると,どうにも意味が理解できなくなる。4度読み返して,4度とも同じ箇所から,先へすすめなかった。翻訳小説,それも悪名高きサンリオSF文庫だったので,訳のためだと思っていた。 その小説は密かに改訂がすすめられており,著者の死後,改訂版が新たに出版された。 今度はすっきりと読み終えた。読み終えたはいいが,どうも同じ小説には思えない。度重なる頓挫の後,初版を今一度読み返そうとするほどの勤勉さは持ち合わせていなかった。以後,初版は実家で埃をかぶったまま時を重ねている。謎は何一つ解決していない。 問題の箇所は,主人公が,その後どうなるか定かでないまま,テレポートして遥かな地をめざす,そのあとだ。まるで自分がジャーゴン失語に陥ってしまったかのように,意味が辿れなくなる。 今になってみると,改訂版はストーリーすら記憶の埒外にある。初版の圧倒的な読書体験には,まっとうなストーリーでは太刀打ちできないということだろうか。 初版のタイトルを『テレポートされざる者』という。著者は,フィリップ・K・ディックだ。 |
04月11日(金) クリムゾンとディックをめぐる勘違い |
||
1981年,“DISCIPLINE”を引提げて,飾り立てられたアイコンを自らたたき潰すまで,キング・クリムゾンをめぐる神話ともいうべき言説が巷を駆け巡っていた。 そのころ,滝本某が,クリムゾンとフィリップ・K・ディックの関連を意味ありげに語るライナーノーツ(ライブのパンフレットだったかもしれない)を読んだ。いわく,『SMIU』=フリップ&イーノに対して,『ヴァリス』はクリムゾンだというのだ。(符牒みたいだ。何と説明しづらいことだろう) 時,まさに『ヴァリス』の翻訳が出たばかり。 早速,入手した。 刷り込みとは恐ろしい。クリムゾンとの関連ばかりを探しながら読み進めた。すると,「帝国は1974年9月に終わった」というような意味の一節が飛び込んできた。 これに違いない。クリムゾンが解散声明は1974年9月に出たのだ。キング→帝国,意外と近いではないか。 その発見に満足してからは,とりあえず読み終えようとページをめくり続けた。(にしても相手は『ヴァリス』だ。やっかいにもほどがある) さて,それから何度ディック再評価→雑誌の特集があったことだろう。多くは,蒸し返しばかりだった。 ただ,そのなかのひとつ記事に,件の時期1974年9月は,ウォーターゲイト事件,ニクソン退陣を意味すると記されていた。 あたりまえに考えても,ディックがクリムゾンの解散について言及する必要など,それより前に,クリムゾン自体,聞いたことがあるはずない。 そうした連想が,それほど不自然ではない時期があったということだ。 |
04月12日(土) フォークとメタル |
||
そのころ,フォークファン,パンクス,フュージョンファン,メタルファンは,われわれにとって差異化の対象だった。決して,個人を攻撃し,優劣を競っていたのではない。 とはいえ,有名なフュージョン川柳「カシオペア マルタ スクエア ネイティブサン」などは,笑いのつぼにはまった。バンド名(一部個人名)をつなげるだけで,なぜ,あんなに笑えたのだろう。 誰もが,YMCAのピクニックみたいに,同じ理由で笑い合ったりはしなかった。 例の川柳をネタに馬鹿話を続けていると,和之がポツリといった。 「俺,はじめてメンボ見て,YMO好きだっていうから入ったバンド,実はネイティブサンのコピーバンドだったんだ」 この一言が,さらに,われわれの笑いのつぼをとらえたことはいうまでもない。 彼は渡辺香津美ファンだった。あるとき,フリップ&イーノの1stを聞いていると,ジャケ裏の写真を見て一言「香津美と武満徹みたいだね」と,ファン心理を土足で踏みにじるような,実に的確なコメントをした。返す言葉はなかった。確かに似ていた。 さて,フォーク,パンクス,メタルだ。 パンクスについては,ねりパン(練馬パンクス)の一言で片付けてしまおう。ただ,この「ねりパン」,今まで活字で見た記憶がない。「ねり」はカタカナか,または漢字表記だったのだろうか。 フォークとメタルについてのエピソード。 遂に完成をみなかった一曲に,その名も「ナノ・デス」がある。 ことのはじまりは,「フォークの歌詞を終わりは“なのです”が多いよな」という友人の一言だ。もうひとりが「メガとかピコ,ナノ,単位って音にすると情けないな」。 この瞬間,フォーク調の導入部から1番の終わり「……なのデス」にいたると,デスメタルに急転する,「ナノ・デス」のコンセプトは完成した。 英米人が聞けば「デスメタルか」,日本人にとっては「フォークだろう」という乖離のみにこだわったのだが,まず,フォーク調の歌詞を書ける才能がどこにもなかったため,件の曲は今日まで完成していない。 もちろん,デスメタルを演奏することもできはしなかったのだが。 |
04月13日(日) 立ち尽くす |
||
弟は昔,ツバキハウスで(ピテカンではなかったと思うが)トイ・ドールズのライブを見たとき,あまりの激しさに胃がひっくり返ってしまったという。 同じような経験をしたのは,平沢ユニット改め此岸のパラダイス亀有のワンパターンバンドのライブにラ・ママへ行ったときのことだ。昌己は「気が遠くなった」というほどに酸素が薄いライブだった。マスクで酸素吸入してまでライブすることはないと思うのだが。 それでも「ダイジョブ」での「わたし しぶとい 伝染病」コールには燃えたが,とにかく激しかった。 その後,P-MODELは氷河期に入り,平沢ソロは,はじめこそクアトロだったが,徐々にキャパシティが広くなり,いきおいライブハウスからは2年くらい遠のいた。 渋谷,新宿のライブハウスへいくことはなくなり,しばらくして,中央線沿線に移っていった。高円寺20000Vや吉祥寺曼陀羅。ジョン・ゾーンや吉田達也など,土曜の夜に行なわれていたライブは,サラリーマンにはもってこいだ。 たった1,2年しかたっていないのに,ライブハウスは様変わりしていた。オールスタンディングであっても,スタートまで皆,埃だらけの床に座りこんで,言葉少なに待っているのだ。 「立ち尽くせよ!」 ライブの帰り,1Fで回転寿司をつまみながら,われわれは,よっぱらいオヤジのように,ため息をついた。 |
04月14日(月) プレスリーは戻れない |
||
ロンドンはずれにある,そのパブでは月に何回かエルビス・プレスリーのものまねショーが開催されていた。 物見遊山で出かけたときのこと。 探し出し見つけたそのパブは,ビルの地下にあった。急な階段を降りきると,扉はなく,そのまま店内に続く。少し広めのカウンターとテーブルが数席。バンドが入るスペースはなかった。 スタートまで時間はあったが,それにしても閑散としていた。空気は澱む。カウンターに4名。テーブル席は1つが埋まっているだけだ。地味な男の隣に席をとった。 そろそろスタートになろうかという時間,店内の照明が落ちたものの,プレスリーらしき人物は登場しない。と,テープが流れはじめる。やはりカラオケなのだ。 やおらステージに登ったのは,隣の地味な男だ。 「プレスリー? まさか??」 あまりのギャップに,わが目を疑った。 スポットライトを浴びる彼は,相変わらず地味ではあったものの,それなりに見応えはあった,としておこう。 ラストの曲,客に手を振りながらステージを降りた彼は階段の奥に消えた。明るくなった店内には,緊張感のない空気が相変わらず漂う。 ウイスキーをもう1杯飲み終えると,最後の客になっていたことに気付き,席を立った。外はすでに暗い。階段の途中に何やら人影がみえた。そこから3歩。そ奴は,さっきまで歌っていたプレスリーだ。目が合った。恥ずかしそうに頷き合うと,彼は階下にもどっていった。 どうやら,あのパブの出入り口は1か所しかないのだ。1ステージ終えると毎回,彼は客がすべて帰るまで,階段途中で待っているにちがいない。 それにしても,なぜ,ロンドンでプレスリーなのだろう? 容姿さえ記憶の彼方にある。覚えているのは,彼の律儀さだけだった。 |
04月15日(火) ロックと野球と関西人 |
||
あらためてその事実を確信したのは,町田町蔵詩集『供花』の大座談会のラストを目にしたときだ。出席者クレジットの「山本五十六連敗」はひとつの衝撃だった。「そりゃ,イソロクやろ!」と関西弁で突っ込み入れるまでもなく,センスのよさと,常識はずれの56連敗という語彙に笑いが止まらなかった。その後,いろいろな場面で盗用させてもらったことを告白する。 さて,そこからさらに遡ること5年。4Dのアルバムに「ヒロセ」というタイトルの曲があったことを思い出した。当時の阪神監督名がタイトルの由来だ。歌詞は「ヒロセ怒りの日」+当時の打順が連呼されるもの。音は格好いいのだが,何せ締まりのない歌詞。この組み合わせは,町蔵の「どてらい奴ら」(漢字が出ないが)で,すでに試みられていたことに気付いたのも同じ頃のことだと思う。 アメリカでは,野球というと映画と結びつくが,関西ではロックと野球の分ちがたい関係があることを確認した。 決定打は,アルケミーのオムニバス「愛欲人民十二球団」だ。登場するバンド名が,読売ジェントル・ジャイアンツ,南海ホークウインド,広島東洋カーブドエア。プログレとの相性がいいことも分かった。阪神タイガース・オブ・パンタン,ロッテオリビア・ニュートン・ジョンは,ひと捻りほしいところだ。 ノイズバンドは,カラオケボックスにおけるキャンディーズの熱唱を作品として収録してもよいことも教えられた。 |
04月16日(水) 中卒さんのスタジオ |
||
2人ではじめた社会人バンドに学生時代の友人が加わり3人になった。ベースはいなかったものの,ウインド・シンセでメロディを吹きながら,ベースラインをフォローする和之の能力に助けられ,曲もできあがってきた。 3回目のスタジオ入りのときだったろうか。浮かない顔だった。 「結婚するんだ」 しばらくの沈黙。 「聞かなかったことにしてやろう」 昌己が言った。 振り出しにもどってからが長かった。 2人では,TGの“HEATHEN EARTH”みたいな曲になってしまう。オール・イン・ワン・シンセの導入は当然のなりゆきだった。シーケンサに併せての演奏。カチっと決まるはずが,今度はホルガー・ヒラーかはたまたスキニー・パピーのような音になってしまう。 数年間,都内のスタジオをわたり歩いた。 そのスタジオがどこにあったのか覚えていない。 結婚して子どももいた友人を巧みに誘ってスタジオ入りしたときのことだ。ホールで缶ジュース片手に乱雑に張り散らかされたチラシを眺めていた。 「死ね死ね団のライブ告知だぞ。まだ,やってたんだ」 「そういえば,“中卒”ってメンバーいたよな」 「いた,いた」 スタジオを出て清算をしていたときのこと。 昌己が「死ね死ね団って,やってるんですね」 何気なくスタッフに声をかけた。 「メンバーに中卒っていませんでしたか?」 「僕が中卒です」まさか……。 そのスタジオを営んでいたのが,“中卒”さんの親戚(だったと思う)だそうだ。 しばらく後,予約を取るために連絡すると,店を畳んだということだった。 |
04月17日(木) 一言 |
||
途中の一言が,緊張感を削ぎながらもインパクトをもつ曲がある。 あぶらだこの“BUY”のブレイクの間の手「よし」。 町蔵の「気狂うて」の間奏の「なるほどな」。 しいてあげれば筋肉少女帯「いくじなし」の「だがしかし」。 一度,この3言だけで曲ができないものか思案したが,結局うまくいかなかった。 なぜかP-MODELにはこういう決めの一言はない。“REM SLEEP”の「おはよう」以外は,基本的に雄叫びだ。それはそれで格好いいのだが。 もとい。「旬2」の「ダーリン」があった。 |
04月18日(金) 禁を破る |
||
この日記なるもの,とにかく今日のことは書かない,昔のことだけを書こうと決めていたが,今日ばかりは記さずにおれない。 なんと,ダディ・グースの単行本『少年レボリューション』が刊行されたのだ。 2,500円も高くはない内容。 編集者の仕事をあなどっていた。こんな企画を実現させるなんて,これはひとえに編集者の力技がならしめたところだ。 石森章太郎の担当者も見習え(現在流布している,サイボーグ009「地下帝国ヨミ編」「リュウの道」の原稿の汚さといったらない)と檄をとばしたくなる出来。原稿ないのに,ここまできれいに復刻するとは。 それに十二分に応える内容も内容。しばらくは堪能の日々が続きそうだ。調子が狂ってしまった。いやはや。 |
04月19日(土) ベース弾き語り(アンプラグド) |
||
再開。 ベースの弾き語りを見たことがある。 立川駅のコンコース。もちろんEベースでアンプラグド。 弾いていたのは喬史だ。 立川南口にスタジオをとったときのこと。 某宗教団体信者と競馬親爺がきれいに左右分かれていたから,日曜日だと思う。 東京の東からやってきた喬史は,時間より早く着いてしまったようだ。やることは他にあるだろうに,よりによってEベースの弾き語りをすることはない。第一,音が聞こえないじゃないか。 改札を抜け,左手を見ると,見知った姿があった。 唖然とし,そして爆笑した。 以後,Eベースの弾き語り,アンプラグドという姿を目にしたことはない。一度も。 その日の練習が,思いのほかひどかったことを付記しておく。 |
04月20日(日) ステージでシールドを抜く |
||
メンバー2名のバンド,唯一のライブには,正月に飛行機で会場まで行くことになった。 田舎に帰った面倒見のいい裕一がプロデュースしたライブに飛び入り参加させてもらったのだ。 昌己はベースを抱えて搭乗した。 担当パートの都合上,トランペット,キーボード,ギターが必要だった。ギターは,調律狂っていても,弦が3本でも特に問題ないので,友人の持っているものを借りることにした。トランペットとキーボードは先に発送しておいた。 裕一宅に行くと,置いてあったギターには弦が3本しかない。いくら問題ないからといって,本当にそういう状態のものとは。 とりあえずそのギターでリハーサルした。われわれは問題なかったのだが,さすがにプロデューサーである裕一は「いくらなんでも……」絶句した。 とはいえ,正月三が日に空いてる楽器店なんてあるだろうか。訝しがるわれわれを横目に,裕一のバンドメンバーが輪をかけて面倒見のよい人で,近場で弦を調達し,その上,かけかえてくれた。 さて,本番。 P-MODELの“FLOOR”をカバーした以外はオリジナルを演奏した。オーラスは,昌己の打ち込みテープにベースとギターのノイズが鳴り続けるというものだった。 何を思ったのだろう。記憶にないのだが,当日,「最後の曲のとき,片づけはじめるから」そう告げた。 当然,本番でも片づけはじめた。 音が鳴るなか,やおらシールドを引っこ抜いて丸めた。不思議なことにそれほどの音はしなかった。途中,「何でもいいから音出せよ!」昌己はいう。その声を聞きながら,エフェクターのスイッチを切った。 「どうも」挨拶の声がして,ライトが点いた。 舞台が妙に白々としていたことだけは覚えている。 最初で最後のステージだった。 当日のようすはビデオに収録されたそうだ。こんなところにも面倒見のよさは現れる。当然,われわれは,今日まで,そのビデオを目にしたことはないのだが。 |
04月21日(月) コルグ |
||
楽器少年ではなかったものの,シンセはT3,ギターのデジタルエフェクタはA5と,少ない機材のなかでコルグ製品が占める割合は高かった。 M1の上位機種として開発されたT3は,実は今だに使っているほど,勝手がよい。 シーケンサに2機付いているエフェクタのスイッチオン/オフ機能が何と言っても無敵だ。小節の途中で思いきりコーラスかまし,すぐにオフにすると,妙なテンションが得られ,この小細工でつくったフレーズは数知れない。 2機のエフェクタはパラレルにかけられるので,ドラムはエキサイタだけにしておいて,リズムの骨格は変わらないままなのもよい。 パソコン環境が整ってから,DTMに移行しようとしたのの,何百倍もT3のほうが使いやすかった。曲の途中でテンポを変えるのも,三連音符でカウントしていけば,3の倍数小節でぴったり合う。 あまりに使い過ぎて,フロントパネル一式交換せざるを得なくなった。 「次に同じような故障があったら,無償で交換しますよ」とはコルグのサービスマンのコメント。「これほど使い込んだT3は初めて見た」といわれた。 A5の使い勝手もなかなかだ。スタジオで指より足のほうが忙しいなんてこともしばしば。 こちらはメンテナンスしいてないので,飛んだデータはかなりあるが,もともとギタリストではないので,演奏にはあまり影響しなかった。 |
04月22日(火) 歌詞の化石 |
||
かれこれ20年近くまえ,初めてメロディがついた歌詞。 P-MODELどっぷりの頃に書いたから,盗作みたいだ。 title everything goes anything waits 由来朧げな 壁 ガラス窓 気体忘られず 行方探す 興味本位に埋もれ 理由判らず響く 興味本位に埋もれ 楔を転がす ガラス窓の影 この身 落とす 欠くことなき術 genocide 残りし人の声 suicide 興味本位に埋もれ 理由判らず響く 興味本位に埋もれ 楔を転がす 地に着くまでの身 このみのみのみ fin 覚えてるものだ。 曲を聞かずに,言葉数だけ合わせたもの。 メジャーコードのやたらポップな曲だったので,かなり救われた。 じゃなけりゃ,いまや,目をあてられない。 一昨日分に書いた,面倒見のいい裕一の曲だ。 あの日のライブで,打ち込みビッグバンドアレンジ(2ドラで生と六角。コーラス隊付きという編成)で,演奏していた。 |
04月23日(水) 歌詞の化石 その2 |
||
さて,2人組の社会人バンド,バンド名は最後まで定まらなかったが,仮に「COLA-L(そりゃつらい)」としておこう。 ドラムとギター,トランペットひと吹きの曲が,記念すべき歌詞付きの最初。 title 天才病患者 八幡の薮いらず駆け抜けろ 千人の天才病患者 暗闇に崇高な風駆け抜け あとかたもなく 発明の王国 キミは天才病患者 短い曲だった。1分くらいだったろうか。 ベース付きバージョン,カシオトーンバージョンなど,いろいろつくったが,人材不足のため,オリジナルに帰結せざるをえなかった。 はじめてスタジオで録音したときのテープは,手もとに残っており,後日,別の曲のベースパートを被せて,音を厚くしたこともある。 |
04月25日(金) ギャグ爆弾を利用して |
||
娘が寝る前にお話をせがまれる。 (いきなりホームドラマみたいなシチュエイションだが) 適当な話が続くわけはない。 そんなとき役立つのが,モンティ・パイソンの「ギャグ爆弾」の構造だ。 とても面白い話があって,それがどういう話なのかはせずに,その話を聞いた人が笑い転げる場面を積み上げていく。 案外,話は続くものだ。 ただ困るのは,いつも電気を消してから,「どんな話か気になって眠れない」といわれることだが,もちろん,数分後には寝息が聞こえてくる。 弟に貸して手元にはないのだが,『モンティ・パイソン大全』に,あのドイツ語のギャグは「隣の家に囲いができたってね」「へー」程度の,昔からあるシャレだ,と書いてあったと記憶している。 |
04月26日(土) 名画座といえばモンティ・パイソン |
||
80年代なかば,何度,名画座でモンティ・パイソンを観たことだろう。吹き替えと,字幕を続けて観たりすると,どっちがどっちか判らなくなってしまった。 「ミーニング・オブ・ライフ」はちょっとニュアンスが違うので,ここでは「アンド・ナウ」「ホーリー・グレイル」「ライフ・オブ・ブライアン」の3作だ。 そのころ,実はモンティ・パイソン関係映画を最初に観たのが「タイム・バンデッド(バンデッドQ)」だったことに気付いた。地方劇場で「スター・ウォーズ」の吹き替え版と併映されていたのだ。 さて,ある年の正月。2年続けて,正月映画といえば名画座で観る「モンティ・パイソン」と決めていた。1月2日に当時,大塚にあった名画座をめざした。寒い1月だったことを覚えている。 しかし,こともあろうか3日まで休館だったのだ。正月に休む映画館があることを知った。お陰で風邪をこじらせ,月なかばのP-MODELのライブに行けなくなった。 不思議と思い出されるのは「ホーリー・グレイル」ばかり。(アンド・ナウは総集編みたいなものだから)「ライフ・オブ・ブライアン」は脳天気なラスト以外,ふだん思い返すことはない。 人喰いうさぎをスクリーンではじめて観た時の衝撃は,今も比類なきものであり続けている。 |
04月27日(日) 杉浦直樹とジョン・クリース |
||
好きな映画は,と問われれば「ときめきに死す」と答えていた時期があった。画面に漂う空気に,丸山健二の原作のイメージがとてもうまく表現されていたと思う。 が,まじめに堪能するだけでは消費し尽くしてしまう。どうにも搦め手に入り込んでしまうのが癖だ。 杉浦直樹ってジョン・クリースに似てるな。ふと思うやいなや,イメージがやおら広がる。そうすると,これはジョン・クリースでいえば(こじつける必要はまったくないのだが)「フォルティ・タワーズ」ってことか。 いやはや,シリアスな「ときめきに死す」が「フォルティ・タワーズ」に重なってしまった。 強引だが,まったく本当に。 |
04月28日(月) サークル名が,なぜ… |
||
「学祭のとき,部屋借り切ってライブをやろう」 裕一が提案した。そ奴はYMOのコピーバンドからスタートして,ドラム+キーボード+テープという編成でオリジナルをつくり,ライブハウスにも出没していた。サディ・サッズの前座を務めたこともあった。 全員ステンカラーコートづくめでスミスのコピーバンドという,気が狂いそうなルックスのバンドにも声をかけた。われわれと3バンドで日に数回のステージをこなそう。話はまとまった。 何事にも手続きは必要だ。 教室を借りるにあたり,公認・非公認は問わないがサークル名と担当教授が必要だという。 担当教授は,ゼミの教授に引き受けてもらった。 「サークル名は何というの?」 そう問われて,言葉に詰まった。まだ,何も考えていなかったのだ。 「ムジークになると思います」 裕一が咄嗟に言った。たぶん,坂本龍一の「フォト・ムジーク」からの盗用だろう。 そんなありきたりの名前になるはずはなかった。ゼミ室をあとにしたわれわれは,たまり場に移った。 「音楽の友に対抗して,音楽の父というのはどうだ」徹が提案する。「音楽の友」は,学内にあったサークル名だ。 「何だかえらそうだな」 「せいぜい,音楽の父方の妹,くらいじゃないか」喬史が返す。 みんなは頷いた。 サークル名は「音楽の父方の妹」に決定した。 ゼミの教授はあきれ顔で「かっこ悪い! ムジークじゃなかったの?」 そういったきり,学祭期間中,われわれの教室に足さえ踏み入れなかった。 |
04月29日(火) コクトー・ツインズとネズミ講 |
||
夏休みがはじまって,友人たちとはしばらく会っていなかった。9月の中野サンプラザ,コクトー・ツインズのライブを集合場所に怠惰な日々を過ごしていた。 もちろんライブの日まで連絡はしなかった。1か月程度のことだ。だが,魔の手はどこに潜んでいるか判らない。 その日,中野・RAREで待ち合わせた友人3人のうち2人のようすが妙な具合だ。カラ元気というかのか,テンションは高いのだが,そうしていないと沈んでしまいそうな不安定さが見え隠れしている。 「何だよ。気持悪いな」 「ハハハ,信じるものは救われるってさ」 「変な商売に手を出したんじゃないだろうな」 「ギクッ」 「何がギクッだよ」 「鋭いな」 「言えよ。黙っておくからさ」 「そのうちな。ほら,開場したぜ」 その日,サンプラザ前で,このような会話が交わされてことを,よもやコクトー・ツインズの3名は知るよしもなかったろう。 ライブは心地よく,芸のない表現だが「天にも登る心地よさ」だったと,ここではしておかねばなるまい。 ライブ終了後,地下鉄のなかでも,ライブのことはさておき,話は怪しげな商売のことに終始した。 その日,奴らは最後まで口には出さなかったが,人工ダイヤのネズミ講に絡めとられてしまったのだった。それから半年,われわれは友人のひとりがとうとう,そのネズミ講を廃業に追い込むまで,難儀な荷物を背負わされてしまった。一攫千金を狙う目は,もはや正気の沙汰ではなかったのだ。 その後,コクトー・ツインズは「天国もしくはラスベガス」というタイトルのアルバムを発表する。それこそ,あの日われわれ残り2人の心境そのものだった。 (強引なオチだ。やれやれ) |
04月30日(水) 営業経験 |
||
新宿のアンティノックスで,ダムドのコピーバンド,という,まさにTPOをわきまえた知人がいた。彼等のバンドも広義には社会人バンドだ。 そ奴の生業は,大学で日々実験に明け暮れる研究者。理系でパンクという,なかなか微妙な取り合わせ。 最近,心理学者にしてフリージャズ,インプロビゼーションバンドでサックスを吹きまくる人物のことを知ったが,通じるものがある。 アマチュアバンドにとって,ライブハウスのチケットノルマは厳しい。1バンド50枚なんてのは文句をいう範疇ではない。そ奴のバンドも,ライブハウスのオーナーの檄が飛び交うもとで,チケット売りに東奔西走していた。 「あそこのオーナーの取り立て,いわゆる営業部長並みに厳しいんだ」 ときどき愚痴をもらすこともあった。 「ほかでやれよ。楽なところもあるぜ」 しかし,ダムドのコピーバンドは,ライブハウスを代えなかった。 あるとき,その理由を聞いてみた。 「おれ,社会人経験ないだろ。だから,あれくらい厳しく言われるの,いい経験なんだ」 まさにパンクスの物言いだ。われわれには返す言葉がなかった。 |
「日記」へもどる |