2003年5月
05月01日(木) 女性ジャズボーカリスト |
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彼女の本職は放射線技師。ベッドサイドに行って患者さんと話し込んでしまう放射線技師として,その病院では名を馳せていた。 彼女はジャズボーカリストをめざしていた。 つらつら思い出すに,初めて会ったボーカリストだった。 まわりにはドラマーやベーシストは腐るほどいたのに,ボーカリストとギタリストとはまったく出会わなかったのだ。(これはアマチュアバンドの常からすると特異なことといわざるを得ないだろう) ライブハウスに誘われて,何回か彼女の唄を聴いた。 「バスルームシンガーかな」と邪推していたわが身を呪うほどに,彼女の声は魅力的だった。豊かな中音域は説得力をもって迫ってきた。ステージに立つ姿を見ながら,「たったひとりでいい。ボーカリストに出会っていれば,バンドの展開も変わったろうに」,そんなふうに思った。 好きで唄ってはいたものの,彼女はプロをめざしていた。われわれのまわりでは,音楽を「癒し」だとかなんだとか,ほざく奴らがいたので,何かの企画があるたびに「癒しの音楽やってくれない」と頼まれることがあった。それも酒が入った席で,酔いにまかせてのひとことだ。 彼女は,癒しの音楽など唄おうとは思っていない。プロをめざすのだから,対価を払って聴いてもらう場でしかスポットライトには当たらなかった。 アマチュアで,そうした姿勢を貫くには,秋の空のように高い志が必要だったろうと,思い返す。 ここ数年,彼女のステージを目にしていない。人伝に,ご主人の都合か何かで,遠方に引っ越したと聞いた。今も,次にステージに立つ日をイメージしているにちがいない。 ところで,なぜ,彼女がジャズボーカリストをめざしたのか。いつか,そのことを書こうと思っている。 |
05月02日(金) 謎解き |
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キング・クリムゾンの“DISCIPLINE”“BEAT”“THREE OF A PERFECT PAIR”,そして“SLEEPLESS”12インチの4枚をご用意いただきたい。 (無理を承知して) ポール・ボウルズ ミーツ スティーブ・ライヒと呼ばれた時代のクリムゾンのアルバム(とシングル)だ。 当時のファンは“BEAT”が出たとき,ジャケット中がピンク色に印刷されていたことを記憶されていることだろう。(最近,再発された紙ジャケットは,ここまで再現されているらしいが……) さて,ジャケットを眺めてみる。 “DISCIPLINE”のロゴは銀鼠,地は深紅。 “BEAT”は,それぞれピンクと青。 “THREE OF A PERFECT PAIR”は,青と黄色。 “SLEEPLESS”は,黄色と銀鼠。 つまり,これらの色は順番に,函入構造で色が決められたのだ(と思う)。 この話は,某所に投稿したのは今から20年ほど前になる。 レコード時代,つくられた国によって明らかに音質が異なっていたのは自明のこと。イギリス盤が愛好されたのは,聞けば違いが判るほど突出していたからだ。(さて,どちらがどうだったのだろう?)国内盤で聞いていた「太陽と戦慄」と,セコハンで手に入れた英盤は,およそ同じアルバムと呼べるものではなかった。 ジャケットの印刷も,色があまりに違っていた。この3枚のうち,“BEAT”の国内盤は,ウルトラマリンが余計な色合いのジャケットにすり変わっていた。 はて,これは誰にとっての謎なのか? |
05月03日(土) 指揮者 |
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ある年のウイーンにて。 彼は,メンデルスゾーン直系にあたるレコード会社社長と食事をしていた。彼が振った楽団の録音の優劣が原因で口論となり,実際にレコードを聞いて聞き比べようということになった。 タイトルはベートーベン作「田園」。しかし,その町のレコード店には,彼が指揮したレコードは置いてなかった。 店員は言う。 「フルトヴェングラーはいかかでしょうか。カラヤン,ワルター,モントゥーもございます」 「何で自分が指揮したレコードではなく,他のものばかり並べるんだ」 店員は,まさかこの長身の男が,その指揮者だとは信じられない。からかわれていると思い, 「お連れの方はベートヴェン様ですか」 考え得る最良のジョークのつもりで,そう質問したところ, 「バカ,ちがう,この人はメンデルスゾーンだ」 この指揮者の名をオットー・クレンペラーという。 指揮者を並べ立てて,優劣を競い合う趣味はない。ただし,クレンペラーだけは語りたくなってしまうのは,なぜだろう。 「新世界」をはじめて聞いた時,「なんて木管の音がでかいのだろう」唖然としたことは忘れられない。しかし,それだけなら,誰々のスピード,誰々の緩急,と五十歩百歩だ。 クレンペラーが突出しているのは,背の高さだけでない。(写真で見ると,吹き出してしまうほど,バランスが悪い。まるで,鴉が舞い降りた避雷針みたいだが) 人格破綻の域に達するその生活ぶりは,ツァラ,ヤンコ,バル,ヒュルセンベルグあたりのダダに勝るともひけはとらないだろう。もしかして,レーニンとともに,クレンペラーこそが,ダダの体現者だったのかも知れない。 もう少し遅れて生まれてくれば,(もしかしたら)ホルガー・ヒラーあたりと組んでバンドをはじめていたとしても不思議はない。 ロックファンは,たぶんはまってしまうだろう逸話の数々。そしてあの,うさん臭いルックス。 われわれが,ロバート・フリップの詐欺のようなディスクールにはまってしまうのは,あの妙に神妙なルックスに一因があると看破したのは誰だったろう。エイドリアン・ブリューみたいだったら,ドライブ・トゥ・1981とかインクライン・トゥ・1984とか,旧ソビエトの経済復興計画みたいな(これも誰かの盗用)物言いに,コロリとだまされはしなかったろうに。 最近,ちらほら,クレンペラーの名前を見かけることが多くなった。流行ってるのだろうか。 |
05月04日(日) チキ チータ |
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「プリシラ」で再び脚光をあびるのを待つまでもなく,アバは繰り返し話題にあがった。続くのは,ポール・モーリア(注1)とゴダイゴ,そしてEW&F(注2)だから,話題といってもいろいろあるが……。 卒業以来,久しぶりにフルメンバーそろっての酒の席。 友人が唐突に,「やっぱりアバだよな」。 「一番は,“チキチータ”だね」 「チキチータって何者だ?」 はて,チキチータって人の名前なのか? 「チキが名字でチータが名前だってうわさだ」 「チータっていえば,へーちゃん(注3)だな」 おいおい,チータって水前寺清子かよ! こんな話が終電まで続く。 酸欠になったためか,5名のうち,3名が電車内で胃を引っくり返すという醜態。うち1名は私だ。 残り2名にならずによかった。いや,本当に(注4)。 (注1)友人の結婚式でオリジナルの歌詞付きで披露。バッキングはQY10。ほとんど気分はカラオケ。顰蹙を買った。 (注2)「今(10年前)となってはレベッカのベースラインがトンプソン・ツインズのパクリなのはどうでもいいが,ドリカムのアースのベースラインパクリは許せねーな」という具合に。 (注3)石坂浩二氏。ということは,このネタ,「ありがとう」を知らない世代に通じることはない。 (注4)結局,皆で1人のアパートになだれ込んだ。この友人と最後にいったライブは,「象さんのポット」 at 恵比寿駅前おもちゃやの上の小劇場(スペース)。「隣はイスラム」を披露したはずだが,唄自体は記憶にない。ジーコ内山は,まだ活動しているのか? |
05月05日(月) ジントニックとヘレン・メリル |
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20歳を過ぎてしばらくしても,まっとうな酒を飲む場所に恵まれたわけでなかった。 年末の有楽町のガード下で染之助染太郎をながめたり,新橋方向の高架下にある,見た目は草臥れたカウンターバァで辻まことのポスターを肴に時間を潰すことはあっても,それは仕事の延長だ。私のキャリアとはいえまい。 だから,ジントニックを初めて口にしたのは,20代を折り返そうというくらいのころ。連れられていった四谷のバァ。有線でジャズが流れていた。 「松脂の香りがするだろう。これにヤラれて,肝硬変になった奴,何人もみてきたぜ」 奥まったソファに深々と腰を下ろし,その男は言う。確かなことを聞きはしなかったが,私よりもひと回りは上の世代だろう。当時,存命だった放送作家くずれの冒険小説家を小柄にして,灰汁を強くしたような人物だ。この2年あまり,仕事先で,週に1回は顔を合わせるルーティンが続いたが,それに自ら幕を引くことにした。挨拶に行くと「時間はあるだろう。飲みに行こうや」。右手を握りしめてやってきた先が,そのバァだった。 「マーティニにヤラれてを体壊すなら本望だけどさ,ジントニックじゃな。飲んでみるかい?」 私は頷いた。「オリーブのかわりにレモンピール入れてもらえますか」 小説を諳んじて,そう言ったものの,現実は小説のようには運ばない。バァテンダーの目が一瞬強張ったように感じたのは,気のせいだろう。若者を鍛えようとするバァテンダーなど,もはや天然記念物だ。 「ジャズお好きなんですか」 「世代だからね。聞くことあるのかい?」 「ヘレン・メリルだけです。You'ld be so nice to come home to」 「リクエストだってさ」 マーティニを飲み干し,ジントニックがやってくるまで,その曲はかからなかった。 マーティニはまだ,荷がかちすぎた。 ジントニックは,それからしばらく後,近所にウィルキンスンのジンジャエールを常備しているコンビニを発見し,以来,ジンバックに代わるまで,愛飲した。 ヘレン・メリルのCDは,今,手元にない。 |
05月06日(火) デ・ジャ・ヴ |
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といっても,モンティ・パイソンの有名なネタのことではない。 どこかで聞いたことがあるようなというニュアンスだ。 数年前,「桜坂」という唄がテレビから聞こえてきたとき,「高橋幸宏?」と思った者がどれほどいたことだろう。(近くの数名からも,同様の声が聞こえてきた)「愛は強い」の続編のようで,いっそのこと,ユキヒロ氏にカバーしてもらいたいと感じた。 矢井田瞳の「ダーリンなんたら」という唄を聞いたときも,「アンディー・パートリッジにボーカルとギターやらせたいな(いくらなんでも無理だろう。でも聞いてみたい)」 しゃくりあげるようなカッティングと,テンションのとりかたはXTCだもの。 思いつくまま,まず2曲。 他にもあることだろう。 ところで,ジャムの“Carnation”を口ずさむと,いつの間にかマイク・オールドフィールドの“Talk about your life”になってしまうのは私だけだろうか。 |
05月07日(水) アジャーニ |
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この日記のなかでは2番目に新しい話。 家内と30代になったばかりの同僚(女性,映画好き)が,「誰がきれいな女優だと思うか」となった。 「イザベル・アジャーニってきれいよね」と言ったところ,どうも話が通じない。イザベル・アジャーニを知らないらしいと気づいた。 「ほら,あの映画」と言ったはいいが,彼女も題名が出てこない。 そんなものだろうか。 確かに代表作と言ったとき,「アデルの恋の物語」じゃ古すぎる。「王妃マルゴ」は,いまひとつ当たらなかったな。「カミーユ・クローデル」は,当時は話題になったと記憶しているが,なぜか不思議なことに「シラノ・ド・ベルジュラック」と重なってしまい,なおかつ 「シラノ」のサントラが良かったこともあり,インパクトが弱い。 「サブウェイ」は漫画みたいな話で,フランスのロックは,なぜドラムにフランジャーがかかったような音になるのかを再認識したサントラがマイナス。 結局,残るのは「イシュタール」。 でも「イシュタール」が代表作じゃ,ちょっとね。かなり好きな映画ではあるが,それはスクリーンの外の話の面白さ(ウォーレン・ビーティの破産! あんな映画に金注ぎ込むとは。でも,ミサイルが飛び交うから面白いのだが) 「カルテット」「ブロンテ姉妹」,「可愛いだけじゃダメかしら」(これは大槻ケンジがタイトルをバロったな),イブ・モンタンが親爺役を演じた映画はなんといったろう? 「ボゼッション」,北斎漫画じゃあるまいし。(といいながら思い出すと,嫌いではないことに気づいた) ああ,数知れず観たのに,そういえば代表作がない。 「殺意の夏」。挑発的な口の半開きはマリリン・モンローの特許ではなかったか。 とはいえ,数ある映画女優のなかで,活躍中に「エイズで死去」のニュースが飛び交ったのは彼女をおいていないだろう。自慢にもならない。 |
05月08日(木) 「ハウス」と「恐怖 奇形人間」の共通点(映画ではなく) |
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以前の文芸座での経験。 オールナイト(とはいえ,1回通すだけなら,外はまだ午前2時)で,石井輝男の例の映画と,恐怖少女漫画を映画化したもの,あと1本は何だったろう,とにかく3本立てだったと思う。 例の映画は大井武蔵野館で数回観ていたので,「面白いんだぜ」と,友人たちを誘い,ツアーを組んだのだ。 例の映画については,はじめて観たときから,「これは乱歩じゃなくて,しいていえば“久作+キイハンター”じゃないか」と思いはしたものの,ショッキングではあった。ただ,百歩譲っても「孤島の鬼」ではないことだけは確かだ。(人間椅子ではあるかも知れない) 友人たちも同感だったようで,映画の話云々というよりは,終始,怪優・小池朝雄(刑事コロンボの声)に圧倒されたと,ため息をついた。それだけだ。 さて,徹は大林ファンだったが(干される原因となった「金田一耕助の冒険」のことを嬉々として話したものだ),「大林のファン」のことは死ぬほど嫌っていた。 「『ハウス』観てると,あ奴ら,拍手やがるんだ。気持ち悪いったらありゃしない。『ゴジラ』でも,そういう奴が多いんだよな」日頃から悪態を吐いていた。 だから,この夜,例の映画のラスト,ドリフじゃあるまいし「首チョンパ」で終わる映画があるか,とは衆目の一致する意見だと思うが,開場で拍手が起きたとき, 「ケッ」 隣から冷ややかな舌打ちが聞こえた。 なぜか,その夜,どこに流れて行ったのかは記憶にない。たぶん雀荘で朝まで卓を囲んでいたのだろう。 しばらく後,再び文芸座に行ったとき,まわりが歓楽街だったことに唖然とした。 |
05月09日(金) エレファント・トークは22年前 |
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文学界新人賞作のタイトルが「イッツ・オンリー・トーク」。 立ち読みで,ページを捲っていくと,エイドリアン・ブリューとロバート・フリップの名が見つかった。最終章のタイトルが「クリムゾン」。 これまでも,小説でクリムゾンの名を目にすることはあったものの,女性の作家によるものは(たぶん)森真沙子以来,2人目の経験だ。80年代のクリムゾンへの言及としては初めてだと思う。 にしても80年代。もはや20年前の曲を,なぜ,新人作家が。花村萬月の小説には,「ブック・オブ・サタディ」のことを語る10代の女性が登場し,それを読んだ友人は思わず吹き出した。 「いくらなんでも,いないだろう」 たとえば,ロベール・ブリアットの『ポール・ボウルズ伝』には「シェルタリング・スカイ」への言及があり,ちゃんとクリムゾンの名が示されている(ポウルズ本人が「面白い解釈だ」といったとか)。ついでにポリスの「サハラでお茶を」も登場する。(こちらは散々) そろそろ,そんな流れからクリムゾンを取り入れる小説家が現れると面白いのだが。 ところで,この小説が掲載された「文學界」には,ベストセラー「キャッチャー・イン・ザ・ライ」(おっと,ウォッチャー・オブ・ザ・スカイと打ってしま いそうになった)が小特集で取り上げられている。翻訳家のノートに加えて,鼎談などもあり,ついでに捲っていると,トルーマン・カポーティの名が何回か登場した。 “Other Voices, Other Rooms”のあの少年のことではないが,始まりはカポーティなのだろうか。 大昔,三岸せいこという漫画家がいた。萩尾望都と大島弓子に映画テイストをプラスしたような作風(もろ,フェリーニという漫画もあったと記憶している)。彼女の作品のあとがきで,カポーティについて触れられていたことを(「名探偵登場」)思い出す。 |
05月10日(土) 空の上から |
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と題して,ここに書き終えた話がある。 書き込みをしようとして,まちがってクリックし,消えてしまった。 たぶん,彼が,そう判断したのだろう。 この話が記されることはない。 |
05月11日(日) 世の終わりのための四重奏 |
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引っ越したばかりの徹の家で飲むことになった。酒とつまみは各人が持ち寄ること。ステレオしか開けていないので,CDのソフトは持参すること。 徹は最高のつまみの手札を握っているという。 「ペヤングの,とんでもなく旨い食べ方なんだ」 「どうせ,へんなもの入れるんだろう」 「ホント旨いんだ」 しばらく後,「いいから,話せよ」 昌己が蒸し返す。気になっていたのだ。 「コンビニに買い出しに行こう」 「じらすなよ。教えてくれてもいいじゃないか」 横で聞いていて吹き出しそうになった。「ペヤング」ごときに何も,そこまで本気にならずとも。 コンビニに行き,まずはペヤング4つをカゴに入れる。 「つまみ選べよ。俺,最後に買うから」 「いいじゃないか。……頼みますよ。なんで教えてくれないんだよ」 その繰り返しで,20分くらい経ってしまった。 「じゃあ,そろそろ買うか」 「おっ!」他3人にどよめきが走る。 徹が向かった先は,乾きものが置かれた一角だ。 「……」一挙手一投足を逃さない。そして,徹が手にしたのは「……。!?」 イカの薫製だった。 「やすっぽそうな味じゃないのか」 「ホント旨いんだから,驚くぞ」 「……。」 部屋に戻り,湯を切ると,薫製を入れる。 「たくさん入れた方が旨いよな」3人から反応は,ない。独り言のように「たくさん入れよう。きっと,旨くて驚くぜ」。 「……想像してた,そのまんまの味」 「くどい味だな。イカ薫多すぎるぜ」 「ほーら,残っちまったよ」 徹は,急に勢いが萎んでしまった。 「旨い,と思うんだけどな」 その日,我々が持参したCDは,インディーズだったころのスカパラ,同じく電気グルーブなど,on timeのアルバムに加えて,Public Image Ltdの”The Flowers of Romance”,そしてメシアンの「世の終わりのための四重奏」があった。 「四重奏」はラインベルト・デ・レーウがピアノを担当した録音のもの。引っ越しすぐの部屋には「四重奏」がいちばんしっくりした。 この「四重奏」は,今も愛聴盤だ。 |
05月12日(月) アベル・ガンスと倉多江美 |
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「静粛に 天才只今勉強中!」という漫画がある。 フランス革命前後の混乱をシニカルに描いた名作。あの佐藤亜紀が絶賛していることを論拠にあげるのは猾いだろうか。 主人公は,ジョゼフ・フーシェと思しきジョゼフ・コティ。ツワイクの『ジョゼフ・フーシェ』,辻邦生の『フーシェ革命暦』,バルザックの『暗黒事件』あたりを一次資料として参考にしたのだろうが,その片鱗もないところが倉多江美らしい。 80年代の初め頃,アベル・ガンスの「ナポレオン」が再映された。スクリーンで観ることができなかったのは,今に思えば残念だが,しばらく後,深夜,テレビで放映された。 この映画,シネスコどころか,スクリーン3面を使って映写されるもの(全編にわたってではないが)で,「横にながけりゃいいってもんでもないぞ」と突っ込み入れたくなるくらい伸び切っている。いまだに,パノラマ写真と,天地を切っただけの写真の違いが理解できない私にとっては,あまり観やすいものではなかった。 この映画に,ロベスピエールが,粛正された人々の亡霊に悩まされるシーンがある。初めて観た時「おっ!」と声を出しそうになった。「粛正に」,もとい「静粛に」の一コマとそっくりだったのだ。 アベル・ガンスを盗用するなんて倉多江美らしいと思ったものだ。 倉多江美の「彼誰時」という中編は,内田百閒が,芥川龍之介との交遊を描いた一編を元にしている。 などと,いろいろいってみても,内田百閒,辻潤,武林夢想庵,長谷川如是閑などなど,倉多江美の紹介で読みはじめた作家は,実はキリがない。そしてそれは,とても甘美な読書体験だった。 |
05月13日(火) バリチュウ? |
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喬史は浪人中,「ケチャやってみない」と誘われて芸能山城組に入った。ケチャとは,バリ島の民族音楽。「ケチャケチャケチャ」とせわしなく連呼する。芸能山城組がどんなグループか知らずに入った友人もすごいが(そんなことしてるから浪人するのか,浪人したから入るのか?),「ケチャやらない?」という勧誘も,はて。 その店以外では飲んだことがない飲み物に通称「バリチュウ」なるものがある。バリ島出身という店主は「島での飲み方」だと力説する。だが,観光で訪れたことがある家内は「飲んだ覚えがない」。 ただ,バリチュウは,意外と美味しく,自宅でもつくれてしまうので,真偽はともかく,その店で出会ったことを幸いに思う。 作り方は簡単だ。 インスタントコーヒーを薄めにつくり,それで焼酎を割る。レクチャーは受けなかったが,それ以外考えられない味だった。 炭酸紅茶をつくろうと,友人と炭酸を買い出しに行ったものの,ナトリウム入りのものを選んでしまい大失敗。その後,「ウイリー」なる飲み物が登場したとき,「これこそ,夢に見た炭酸紅茶だ」と感嘆した。 そのことを思い出させる味だ。 いまだに,あの店以外でバリチュウに出会ったことはない。そして,その店も今はない。 ところで,バリ島に焼酎はあるのだろうか? |
05月14日(水) I was born |
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台風が近づいている。通り一本へだてて,海へ開けた公園は横殴りの風雨で,とんでもない状態だ。ガラス越しに「今日,果たして帰れるのだろうか」と,不安が首をもたげる。 明日午前9時から,2,000人規模の会が始まろうというのに,セッティングのスタートは午後8時。おまけに,この天気だ。女性ジャズボーカリストは,不安げに窓の外を眺めている。 自分たちの持ち場の準備を終えた頃,みなの仕事もケリがついたようだ。午後11時をまわっていた。用意のいいメンバーは近場のホテルに部屋をとっていた。「泊まっていく?」冗談じゃない。何がうれしくて(そんなこと,ひとこともいってないが)2まわりの上の異性の寝起きの顔を見なけりゃならないんだ。 「雨,弱くなったみたいだから,今のうち,帰ります」嘘八百で,その場から逃げるように駆け出した。 ドアをあけると台風の目と睨みあい。質の悪い台風は,開場待ちでもするかのように,そこから動かなかった。 広い通りに出るまで,女性ジャズボーカリストと言葉を交わす余裕などありはしない。最終バスはすでに停留所を通り過ぎ,タクシーの空車はしばらく来そうになかった。 雨風を避けながら,場違いの茶飲み話から,いつの間にかバンドの話になった。 「お金とって唄うのって,ジレンマない? 僕らは,それで活動休止したんだから」 深夜の居酒屋での討論を思い出す。あげく,その店は出入り禁止になった。夜中の1時過ぎ,ニューウェイヴバンドとしてのありかたに口泡を飛ばしていたのだから,しかたない。 「夢だからね。そんなこと,いってたらダメだよ」 彼女は,こともなげにいう。 通り過ぎるタクシーのフロントは赤い明りしか映らない。私はそっと聞いてみた。「なんで,始めたの?」 「放射線かける患者さんは,ほとんど,がんなのよ。治療がうまくいかないと,患者さんとは永遠の別れ。でもね,かなしいけど,何か教えられることがあるの。 そのじいさんは,ガンコで時間に厳しい。なぜか気が合ったんだけど……」 「どんな人でも,巻き込んじゃうんだ」 「まあね。このじいさんには夢があった。もう一回釣りにいきたい。でね。私,友達に釣り雑誌,あるのよね,そういうのが。譲ってもらったり,コンビニの地図を勝手に使って,拡大コピーして」 「……」 「目の悪いじいさん見えるように,スペシャルビッグな地図つくったりよ」 「力はいってるね」 「状況は厳しいから,それくらいはしなくちゃ。でも現状維持がやっと。だんだん落ちていってしまうの。なのに,じいさん,もう一回,釣りにいくんだってウキウキして。 あきらめてほしくないよね。つい,それで,いっちゃったの。“私も自分の夢,かなえますから,がんばって”って。そんなこといっても,つらいのよ。そのとき口に出た夢が,ジャズボーカリスト」 「前から,なりたかったの?」 「ううん。そう思ってたって中途半端に決まってるじゃない。でも,それからは必死。英会話ならったり,こっちだって真剣にしなくちゃ」 打ち合わせのとき,人待ち時間に見せてもらった楽譜を思い出す。すきまなく書き込まれたコメントは,まるで指揮者のようだった。 私は,いたずら描きのような,わがバンドの図面を重ねた。少なくとも,そこには音符はなかった。バンド内「治外法権」を謳っていたので,楽譜が必要ではなかったのだ。 「結局,じいさんは亡くなって,夢だけが残されたわけ」 話が終わったからといって,タクシーがやってくるわけではない。ずぶ濡れになりながら,それからしばらく,タクシーを待ち続けた。 |
05月15日(木) 出前 |
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学校があった町に,急にわれわれの顔見知りが増えた。しかし男ばかり。おまけに平均年齢が異様に高く,自営業者とくる。 「よお,昨日,あの後どうだったい?」 「振り込んじゃいましたよ」 雀荘での知り合いは,みな,そんな調子だ。週3日は学校まで辿り着くことなく,空の上から呼び止められる。 「こらこら,待ってたぞ!」 見上げると,2Fの喫茶店の窓には友人の姿。この時期のツケは卒業間近,忘れたころにやってきたのだが。 雀荘だけでは飽き足らず,マージャンパイを仕入れる奴も現れた。当然,そ奴のアパートは占拠されっぱなし。いなか暮らしが長いからかどうかは知らないが,鍵が掛けられた状態のドアを見た記憶がないほど,戸締まりに無頓着な男だった。 そ奴は,空いた時間を近所の中華料理屋でバイトに費やしていた。だから,われわれが揃ったときに都合よくいるのは,5回に1回というところだ。 ある日のこと。めんつは揃った。雀荘には今週の負けを取り立てようと手ぐすねひいて待つこの町の知人。それでもマージャンがやりたい。 「あ奴のアパートでやるか?」 「どうせ,鍵はかかってないさ」 午後の日差しが,われわれに「日陰は涼しいぞ」と手招きしていた。 もちろん鍵はかかっていない。そ奴は午後の授業に出て,そのままバイトのはずだ。 われわれは,早速上がり込んで,卓を囲んだ。 それから,どれくらい経っただろう。 「ハラ減ったな」 「出前とるか?」 「そうだ。あ奴がバイトしてる中華料理屋に電話してみるか」 驚いたことに,出前を持ってやってきたのは奴だった。 どう考えても,出前先が自分の部屋だということに気付きそうなものなのに,ドアを開けるまで気付かなかったのだ。 「おいおい,シャレにならないよ」 ダチョウ倶楽部じゃあるまいし。確信犯なのか。いまだに不思議に思う。 |
05月16日(金) インド人におごってもらう |
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久々に,コトナのころみたいな話。 昼は,カレー屋にいった。 数か月前にできたカウンターだけの店だ。インド人と,自己開発セミナーから抜けられなかった宮台真司のような店員コンビのいい味が気に入っていたこともあるが,カレーの味もなかなか。月数回は利用していた。 今日はいずれも店にはおらず,インド人ひとりが仕切っていた。混んでいるときもあったのに先客は2名。しばらくすると私だけになった。インドポップスと空調の音が空しく響く。マサラカレーを詰め込みながら,片手で「マックピープル」を捲る。 食事を終えようとするころ,「チャイ飲みますか? 美味しいよ」 カウンター越しに聞かれた。どうもおごってくれるらしい。インド人におごられる。あまりの非日常性にあわててしまい,笑顔で応えてしまった。 よほど貧相をしていたのだろうか。それにしてもインド人におごられる日がくるとは……。 チャイを待つ間,何か話をしなければ,プレッシャーに押し潰されそうになりながら出た言葉が「どこかで店やってたんですか?」 「11年前にやってたけどね。今も,本当は車の仕事」 車の仕事って,いったい何だ??? カレー店のほうが数万倍似合っているぞ。とはいえず「ほお」と曖昧に相づちを打つ。 「夜は混んでるんだけど,昼のお客さん少なくなって,みんなで相談してる。出すの遅いでしょ」 確かに,いつもいる料理人は,ひたすら一人前のカレーが入った鍋を,魯山人の納豆のように,納得いくまでかき混ぜていた。遅いかと問われれば,そうも見えるが,あの仕草さえ見なければ,そんなことはない。 今日は早かった。しかし,こ奴はかき混ぜない。あれがないと,どうも食った気がしないから不思議だ。 とてつもなく旨いチャイを飲みながら,経営コンサルタントのように相談にのった。人を見る目がないことだけは確かだ。私の自慢は,これまで営業経験どころか,ものを売るセンスはゼロだということなのだから。 その場ではいわなかったが,メニューに載っているビーフカレーと牛タンカレー,旨いのだろうが,あれは止めたほうがいいと思う。牛食うインド人ってね,ちょっと……。 この店。世界飯店の隣とだけ記しておく。 |
05月17日(土) Newパンチザウルス |
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昭和の終わり,友人たちが揃って同じ雑誌を買っていたからといって,怪しげな宗教団体に気触れたわけではない。偶然かどうかは判らないが,その雑誌には好みの共通項が網羅されていたのだ。 「平凡パンチ」の後に登場した「Newパンチザウルス」だ。 山上たつひこと,どおくまんが同じ雑誌に漫画を描くことはあっても,そこに,みうらじゅんと岡崎京子が加わると,それまでは一冊の雑誌では足りなかった。 「Newパンチザウルス」により,われわれは週一回,至福の時間を過ごすことができた。(かなり安上がり) 一冊も捨てた覚えはないので,たぶん全冊揃うと思う。 ところで,およそ他人の趣味にすり寄ることをしない友人たちの間で,唯一,面白い漫画としてコンセンサスが得られたのは杉作J太郎の「ヘイ! ワイルドターキーメン」か「卒業―さらば、ワイルドターキーメン」に載っていた「金の斧 銀の斧」のパロディだった。 まぬけな学生が道ばたで,アイドル○○のグラビアが載った雑誌を拾う。人のいないところでゆっくり見ようと思い,池のほとり行くと,石に躓いて雑誌は池のなかへドボン。そこに池の精(じいさん)登場し,「お前が落とした雑誌はどれじゃ」 1.アイドル○○のグラビアの載った雑誌 2.アイドル△△のグラビアが載った雑誌 3.アイドル◇◇のヌード写真集 「はい,3です」 「バカモン!◇◇は,まだ脱いでおらん。しっかり勉強しろ!」 ほら,暗記している。 こんなので,メモリー無駄にしてるようだ。 |
05月18日(日) ロックバンド |
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マッドネスについて書きはじめるとなると,どれだけページがあっても尽くせないほどの思い出がある。 とにかく下のHPを御覧いただきたい。 (と,語りかけるようなものではないが) http://www.madness.co.uk/ 実にバンドのイメージ通りつくられていることに驚いた。 もう,クリックするごとに「おーマッドネスのセンスだ!」と絶句。 こ奴ら,“OUR HOUSE”のビデオクリップは,ガンビーズの格好で,手を振って終わるのだ。 またクリックすると「おい,なんで部屋のポスター,ワンダーウーマンなんだ」と突っ込みたくなる。そう,昔,クラスに一人はミドルネームに「ワンダー」がつく奴がいたものだ。日曜日の午前中,遊びに誘うと,「用事があるから」といって,妙によそよそしい。どうやら,こっそりワンダーウーマンを観ているようだと噂がたつ。翌日から,あだなは,もう「ワンダー○○」だ。 ああ,マッドネスから遠く離れて……。 ひとつだけいうと,5人以上メンバーがいるバンドで,全員が作詞作曲し,バンドとしてのクオリティを維持できる奇跡を,マッドネス以外にみせてくれたバンドはいない。さらにいえば,オリジナルメンバー(一時,ひとり抜けたものの)を維持していることも加えて,本当に,理想のロックバンドであり続けている。 このHPに,「シティ・ロード」の表紙を飾ったときの写真があった。宝探しのようだが。 本当に,いや,まったく本当に。 |
05月19日(月) チャーギョウ |
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喬史は,みそラーメンが好きだと公言して憚らなかったが,学生生活が終わるまで,学食以外で彼がみそラーメンを食する姿を見たことはなかった。 「旨いラーメン屋じゃなければ食べない」のだそうだ。 「どうやって,旨いかどうか判断するんだ?」 事ある毎にわれわれは尋ねた。 「花板が……」 だから,ラーメン屋に花板はいないと思うのだが(最近は,なんだか勘違いしているのもいるようだけど)。 一生,みそラーメンを食べられないのではと危惧,することはない。学食のみそラーメンが旨いとなぜ判ったのか? 卵が先か鶏が先か……。 吉野家で「白(ごはん),ぎょく(玉子)」なんて平気で言うわ,カネのない時は「夕飯,タバコ3本」。マージャンで勝った朝は,徹夜明けにステーキ弁当。こ奴の胃腸にだけはなりたくなかった。 食事のときも,ばか話ばかりだ。意外と旨いラーメン屋で,(そ奴はここでも,みそラーメンは頼まないが)注文するのはラーメンと餃子。 「こりゃ,ラーギョウ」だな。 「おれは,チャーギョウ」 「こ奴,いいところ突くな」 どこがいいところか判らないが。 「おれ,チャーラー」 「そりゃ,食い過ぎだ」 不毛な会話を何度繰り返したことだろう。 |
05月20日(火) コンパ |
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コンパと聞いて,まず思い浮かぶのは,しりあがり寿の「コンパさん」。次に「江古田コンパ」のばばぁだ。 このばばぁには,赤子の手をひねられるがごとく潰された。 子どもが生まれた翌日,友人2人とささやかな祝杯をあげようと江古田に降り立った。ひとりが「前から入りたかったところがあるんだ」といって,指差す先に「江古田コンパ」の看板が。 「コンパ……さん? かぁ。カトちゃんですよ?」 だから,そうではないのだが……。 「最近のバァは腕もったバーテンダーいないのよね。うちの○○さんは違うから。資格もってるから,味が全然違うわよ。何飲むの,こちら強そうだから,アースクエイクあたり どう? こっちはアラスカにしなさいよ」 と,ばばぁは夢野久作の小説のように,饒舌にどんどん決めてしまう。腰を振りながら「あーすくえーく」なんて,どういう神経しているんだ? 1杯目から悪酔いしそうだ。 気がつくとカウンターの前にやってきて,一振りしては,いつの間にか消える。そのタイミングに,度を超して飲み過ぎた。 遂にはカウンターにうつ伏せてしまっていた。 目の前には食べ残した焼きうどんや,つまみの姿が。そういえば,バーテンの○○さん,じきじきに焼うどんもってきてくれてたなぁ。ありがたいことだ。酔っ払いの思考速度で妙な感謝をして,再びうつ伏せた。 アルコールが腰にきて,頭から潰れるという経験は,以後,ない。よく家まで辿り着いたものだ。 翌日,鬼のようなばばぁのことを思い出した。われわれのカクテルをすべて振ったのは,あのばばぁだった。「資格をもったバーテン」とか「腕がどうの」とかいう話はどこへいってしまったのだろう。 こ奴,百魔のひとりにちがいない。 乾杯,もとい完敗だ。(これはちょっと,マズいな) |
05月21日(水) 情けない |
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この間,仕入れた情報。 ただし,あまり汎用性はない。 キング・クリムゾンの「太陽と戦慄パート2」をパクッて「エマニエル夫人」サウンドトラック中の「愛のテーマ」(ではなかったかも知れないが,とにかく映画のなかでも使用された曲)がつくられたというのは意外と有名な話。ロバート・フリップが裁判に持ち込み勝訴した。 ここまでは「ああ,そうなのか」くらい,それほどの感動はない。 では,誰が「エマニエル夫人」に「パート2」が使われていることに気づいたのか? ひとりのベーシストが登場する。マイケル・ペリン似の(ということは,二瓶なんとかというウルトラマンに出ていた俳優にも似ているということだが)ジョン・ウェットンというその男は,ツアーで寄ったパリで,空いた時間に映画館に入った。 「 話題になってるエッチな映画でも観てみるか(ニヤリ)」,そんなモノローグがあったかどうかは知らないが,期待に胸ふくらませてスクリーンを見入っていた姿を想像すると,情けない……。 感情移入しようかと思う頃,何とスクリーンから,日頃自分が演奏している曲が聞こえてくる。空耳か。いや,そんなはずはない。まさか……。 気分は萎え,そそくさと映画館を後にした彼は,しずしずとリーダー兼その曲の作曲者フリップのもとへ。 「話題の映画「エマニエル夫人」のなかに,「パート2」そっくりの曲が使用されているという噂ですぜ」 というようなやりとりがされたかは記録にない。が,もはやこのシーンはコメディの範疇だ。 いわゆる「真夜中のカウボーイ」はフリップ&イーノだけじゃなかったのだといってしまっては,言い過ぎか。「エマニエル夫人」観ただけで。 子どものころ,「エマニエル菌?」なんていっていたころのことを思い出す。「シビルの部屋」を観にいった友達は「シビル○○」と呼ばれていたし……。今のガキは,そんなことやってないだろうに。 |
05月22日(木) 合田佐和子のいる場所 |
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1980年代を通して,表現者としての合田佐和子から目が離せなかった。もちろん,そのモチーフが他(写真,絵画)からの盗用であったことは知った上で。 はじめは劇の描き割りではなく,本の装丁者として出会った。たぶん矢作俊彦の『死ぬには手頃な日』であったと思う。 「パンドラ」買い求め,エジプト行きあたりまでは後を追ったが,そのあとパッタリ消息が途絶えた。 10年ほど前,突然,青山の画廊で久々に個展が開かれるという情報を得た。足を運ぶと,相変わらずトーンを絞った油絵とコラージュ。ナスターシャ・キンスキーはじめ映画スターをモチーフとする姿勢は変わっていなかった。もちろん買い求められる値ではなく(もしかすると,数カ月の寂しい懐をもちこたえさえすれば手に入れられる金額であったかもしれないが),受付に置かれた小冊子を購入して帰ってきた。 「オートマチズム」と題されたその冊子の奥付をみると1989年7月1日限定503部,発行所 トムズボックスとなっている。 果たして,500部も売れただろうか。 なにせ50年以上前,ブルトンとその一派がくさるほど描き散らかしたオートマチズムをコミュニケーションツールに置き換えたものだったのだから。いかにも古くさい。 やばいな。 なぜか精神の危うさを感じた。 再び,消息は途絶えた。さらに数年,ある3号雑誌にインタビューが掲載された。何でも精神科に入院していたそうで,そこに写されたポートレイトの目は虚ろなまま,弛緩した精神を露呈する。 合田氏は,揚げ物さえ体質的に受け入れない油嫌いなのに,嘔気をこらえながら油絵を描きはじめたという。そのことを知ったとき,いつか,こんな姿を目にすることになるだろうと思っていた。 だから,何だというのだろう。 合田佐和子がいた場所は,いまだ空白のままだ。 |
05月23日(金) マイアミでの諍い |
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渋谷で飲もうという話になった。 ところが,その日,夜11時まで,何をしていたのか記憶がない。だから,思い返せるのは,まずマイアミに行ったことからなのだが,何で飲みにいくのに,マイアミに入るのか? それも夜11時集合ということはあるまい。 5人のうち3人は,すでに酔っていた。ひとりは,ハナ肇のブロンズ像のような色つやをして,やたら機嫌がいい。ポン酒とワインをチャンポンしたということを覚えているのだから,やはり,どこかで一次会を終えたのだろう。 「安いから,ここにするか」 マイアミは開店記念のため,割安で注文できたのだ。店先にそう記された幟が翻っていた。 毎度のばか話を終え,多摩っ子を自称する友人は,いつの間にか終電を見送ってしまった。あとは,いかに他の友人を帰宅させないかの心理戦に突入していた。 チェックのため先頭に立った喬史の様子がどうにもおかしい。 「だって,割引だって幟が出てんじゃねえか」 「あれは夜11時までです」 「ふざけるなよ。そんなら,とっとと片付けとけよ」 「……」 「払えねえな」 喬史も喬史なら,店員も店員だ。どう喝して怯むような奴ではなかった。場数を踏んでいるのは明らかだ。もしかしたら,日ごと,このようなサギまがいをしているのかもしれない。 一発触発のようすに,われわれは,近くにあった灰皿を手にした。 そこに口元を押さえながら割入った男がいた。ブロンズ像の友人だ。夢見心地を過ぎ,さっきからトイレに籠りっきりだったのだ。 くぐもった声で「やめとけよ。ここははらっとくからさ」。 その様子を見た友人は爆笑だ。諍いになりはしない。 とはいえ,憤懣やるかたない,われわれは,そのまま友人の誘いのままラーメン屋に入った。ここでも,ブロンズ像の友人は,注文するやいなやトイレに駆け込みなかなか出て来ない。われわれが食べ終わった頃,店員も気になって「見に行ってきましょうか」 「かまいませんよ。そのうち出てきます」 からっぽになった胃にラーメンを流し込んだ友人が,のれんをくぐって出てくるまでには,それからしばらくの時間が必要だった。 多摩っ子の友人の策略は奏功し,われわれは朝まで,ダンキンドーナッツで,不味いコーヒーを押し込んだ。 |
05月25日(日) デフ・スクール |
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バンド名が決まらず,(結局,決まらなかったのだが)いろいろなバンドを参考に討議が続いた。 前にも書いたが,練習を終えて,駅近くの居酒屋で終電を過ぎ,結局,看板まで白熱してしまう。傍からみると,場違いにもほどがあったろう。 「エンベロープス・アンド・ディナーズ」=便せん(封筒だな)と晩ご飯=ビンセント・ヴァン・ゴッホやら,ヘジテイツ,対バンドなど,どうも笑いに偏ってしまう。 イギリスに70年代なかば「デフ・スクール」というバンドがあった。バンド名の由来は,〈その場所=デフ・スクール〉を借りて練習をしていたからだという。キンクス+ロキシーミュージックと称されたそうだが,私はリアルタイムでは体験していない。 90年代早々,突如,再結成され,ライブアルバム1枚を残す。オリジナルアルバム2枚(?)もCDとして再発されてしまった。 そう,オリジナルメンバーには,あのクライブ・ランガーがいる。だから,ライブアルバムで聞かれる音は,マッドネスやモリッシーの2ndで聞かれる音に通じる空気が漲っていた。 その頃はマッドネスの停滞期でもあり,早速,ヘビーローテーションで聞きまくった。 居酒屋での討議の際,何度か「デフ・スクール」のことが話題にのぼった。 「センスあるよな」 納豆の天ぷらをつまみながら,何度ため息をついたことだろう。 結局,バンド名は仮のまま(COLA-L(それは飲みきれない)),居酒屋は出入り禁止になったのは,前に書いた通りだ。 |
05月26日(月) 宮本信子はタンジールに向かったのか |
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ポール・ボウルズがにわかに脚光を浴び出したころ,ボウルウズ夫妻を写した写真がそこかしこに見られた。 いきおいあまってか,ジェイン・ボウルズが書いた小説まで翻訳されてしまった。表紙には彼女のポートレイトが使用されていたと記憶している。 そのころ,われわれはボーカリストをリクルートしようと東奔西走を繰り返していた。 あるとき,ひとまわりも年下の女性に声をかけたことがある。 「唄ってみないかね」 スタジオに入ると,カバー曲(思いっきりピコピコさせた「センチメンタル・ジャーニー」や「ブレイク・アウェイ」など)は唄うが,オリジナル曲になるとスタジオの外で煙草を吹かしはじめる。唄はいまいちだった。 とはいえ,ステージ映えするので,何度かスタジオに入った。毎度,どうにも接点がつかめなかった。 ある時,スタジオへの道すがら,買い求めたポール・ボウルズの特集号に掲載されたジェイン・ボウルズの写真を見て,ひとこと「宮本信子って,この人の真似してたのね」。 なるほど,当時の宮本信子の髪型やファッションはジェイン・ボウルズそっくりだった。ということは伊丹十三はポール・ボウルズか。 それはさておき,彼女とのセッションのなかで,意見の一致をみたのは,唯一,そのひとことだけだった。 数年後,「コスモポリタン」でマルチまがいの化粧品店のチーフ・スタッフとして,その名前と写真を見た。人は相応に年をとるのだと感じた。付けられたコメントは,まったく当時を偲ばせるものではあったが。 |
05月27日(火) 次のボーカリスト |
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次にスカウトしたのは中学生時代の友人だ。 煩わしさと徒労に辟易し,昔の友人たちとは音信不通のままでいようとしたものの,どういう方法を取ったのか,数年ぶりに連絡が入ってしまった。それも同窓会だという。 4-6-3のダブルプレーのようなタイミングで,出席したのは10年以上前のこと。 数年ぶりに会った友人たちは,やけに所帯じみて,おおよそバンドメンバーにスカウトできそうにない。 それでも,中学生時代から自分の部屋にドラムセットを持ち込んでいたNと,クリムゾンのリザードをダビングしてくれSは,何とか巻き込めそうだった。Sはベースとボーカルをやっているという。 いつまでたっても,ドラムとベースばかりだ。 一度,3人で飲もうという話に落ちついた。 さて,新宿で待ち合わせていると,Nの話があやしい。「早いものがち」「感性が鋭い奴にしかわからないバイトをしている」などと言いはじめる。Sは,某宗教団体に入っていたのち,わけあって脱退したそうだ。 恐ろしい2人に挟まれてしまった。 マルチ商法の非を問うときはSとタッグを組み,新興宗教の悪口をいうときはNに寄り添う。ヌエのような数時間,生きた心地がしなかった。 マルチよりは宗教脱退者の方が,まだ気がおける。それにしても,こんな選択肢しかないものだろうか。 唄えるということでSをスタジオに招待した。 「フレディ・マーキュリーなら唄えるんだけど」 ホントかよ??? どう聞いても,音域はワンオクターブないぞ。それも,いきなりテッペンからスタートするから,下がっていくしかない。聞いてるほうの喉が苦しくなってくる。 即断,ボーカルものはあきらめて,スリーピースバンドの線でいくことにせざるを得なかった。 それにしても,「フレディ・マーキュリーなら唄える」と言い放ったのボーカリストは奴だけだ。それだけは,ボーカリストらしい物言いだ。 (ベーシストS編は明日,記す) |
05月28日(水) 不幸は嘆くもの |
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町田康の『へらへらぼっちゃん』を読んでいたら,ベーシスト編を書く時間がなくなった。 Sとスティーブ・セブリン,トリスタン・ツァラ,中野照夫,クリス・スクワイア,ミック・カーンなどが登場する予定。 こう書くと,ツァラがいることが不思議だが。 ブルトンと円楽が似てることに気づいたのは,そのころ。顔もグループのなかでのポジションも。 ああ,タイトルにつながらない。 |
05月29日(木) ベーシストの条件 |
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ポンピドゥセンターで「アンドレ・ブルトン展」が開かれたことがある。(後に日本にもやってきたはずだが) 矢作俊彦のレポートによると,「ブルトン展って何を展示するのだろう」と訝しがって観に行ったところ,展示品のほとんどが貰い物,贈られ物だったそう だ。贈り主がピカソやマン・レイ,ダリだから展覧会になるものの,貰い物で展覧会開いた芸術家(といっていいのかどうか)は他にいないだろう。 同じころ,私はブルトン=円楽説とともに,ツァラ=スティーブ・セブリン説を唱えた。 セブリンといっても,毛皮のヴィーナスではない。スージー・アンド・ザ・バンシーズのベーシストのこと。やたらとネックの長いベースで,実に単調かつカッコいい(テクニックに走らないにもほどがある?)フレーズを奏でていた。 もうひとりのベーシストの記憶がある。 解凍前P-MODELのベーシスト中野照夫は,タルボのフレットを取っ払い,それをピックで弾いていた。本人のフェイバリット・ベーシストがミック・カーンとクリス・スクワイア。おっしゃる通りの音だった。 さて,われわれのバンドに参加したSは,ジャコ・パストリアス仕様のフレットレス・ベースを持参してきた。 「おっと!」 われわれは,どよめく。 軽く音あわせだ。6/8拍子のオリジナルにはじめてベースラインがつく瞬間。 治外法権バンドでは,拍子以外は(時に拍子さえも)本人まかせ。出てきた音に文句はいわない。 終わって,違った意味で驚いた。 われわれの曲は,私がキーボードやギターを弾いても,基本的にメロディーラインがなかった。出てこないのだ。 この曲もキーボードのリフとドラムのみ。そこにフレットレス・ベースだから,「もしかしたら,メロディをつけてくれるのでは」一縷の望みをかけていなかったというと,うそになる。 そこにSが弾いたベースラインは,1音のみ。 フレットレス・ベースだろ? 他にすることあるだろうに。 その後,数回,スタジオに入ったものの,バスドラが重くなった感触しかしなかった。 バンドは休息に入った。 訳あって,Sのベースはいまだに私の実家にある。 申し訳ない。 |
05月30日(金) 大井町の記憶 |
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中央線沿線にたまっていた者にとって,大井町の姿は遥か彼方にあった筈だ。 なのに80年代後半,幾度,京浜東北線に乗って大井町で降りただろう。もちろん大井武蔵野館以外,あれほどに通う理由は他に何一つなかった。 一軒の映画館の影響力としては,他に類をみないほど,あの頃,刺激的なプログラムを組んでいた。ぴあやシティ・ロードを開くと,まず,大井武蔵野館の欄を確認した日々を送ったのは私だけではあるまい。 和製ミュージカルを再発見はいうに及ばず,以前記した石井輝男がこれほどに脚光を浴びたのは,大井武蔵野館の功績以外の何ものでもない。 本屋には,いわゆる「文脈棚」という並べ方がある。ひとつ間違うと,単に嫌みな棚になりかねないが,なるほど,こういう流れで関連させたか,と妙に納得させられることもある。 大塚にあった「田村書店」は,往来堂書店と同じ経営者だったこともあり,嫌みにならない文脈棚づくりに秀でていた。足繁く通ったものの,いまやカフェ。昔日の夢だ。 名画座のプログラムこそ,この「文脈棚」の出自ではなかったのだろうか。大井武蔵野館のプログラムは,まさに文脈で構成されていた。 世は作家の時代だった。 大井武蔵野館のやりかたは,映画監督で映画が評論される風潮のなか,「モロッコ」に頼ることなく,RKOのプログラムピクチャーの面白さを楽しむ術を教えてくれたようなものだ。 スタンバーグに喧嘩売っているわけではない。ただ,いいものと,いいことをしようというものの区別だけはつけておかねばなるまい。 やけに軒の低い駅前通りをつきあたり,その左手に,80年代の夢を抱える檻が輝いていた。 |
05月31日(土) 1990年代 |
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90年代に入って,大井武蔵野館にいった記憶はない。夢は抱えたものの,工場ではなかったのだから,しかたない。さよなら大井町,さよならニッポン映画。 では,どこを利用していたのだろう。 80年代,私は池袋を「古本屋の町」として認識していた。新刊本屋は今に至るまで充実しているが,当時の西口の古本屋はなかなかのものだった。古本屋以外で池袋にやってきた記憶は数えるほど。そして,それ以外の記憶のほとんどは映画がだった。そのまま90年代に突入した。 とはいえ,文芸座ではなく,池袋シネマ・ロサで観た映画が,やけに多いことに今さらながら驚く。 エリック・ロメールの春夏秋冬4部作は,ここで観た。ついでに「レネットとミラブル4つの冒険」(おい,青の時間なんて言葉まで蘇ってきたぞ)。ああ,自然光はダイナミックさに欠ける。ゴダールだって,ルコントだって,ここで観たのだ。なんかフランス映画ばかりだけど。監督で切っているけれど。 「五月のミル」 ステファン・グラッペリの楽しげなバイオリンの音色。 「マルセルの夏」「マルセルのお城」 浅茅陽子に似た母親役の女優は何といっただろう。自分がよもや,新たに家族を持つ日がくることなど,予想だにしていなかった。 やはりフランス映画ばかりだ。 足が遠のいたが,池袋シネマ・ロサは,いまだにやってるらしい。それだけで頭が下がる。 その後,池袋西口へは,タイ料理を食いに足繁く通うことになる。 |
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