2003年7月
07月01日(火) N響 |
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イッセー尾形のひとり芝居のネタに,結婚相談所を訪れるN響楽団員というのがある。 種村季弘のたとえではないが,制服は,人の社会的位置をイメージさせる小道具なのだと,ビデオを観るたびに,そう思った。 N響の制服といえば,白のタートルネックにブレザー。本当にそうかは知らないが,そんな姿で目の前に登場したら,判断停止して「N響だ」って思ってしまう。 野球おやじといえば,ネクタイと一番上のボタンをはずした白のワイシャツに背広姿。なのに,背広を脱ぎ,ボタンを一番上まで止めると,YMOになるから不思議だ。 90年代初頭,三軒茶屋で,80年代テクノのコピーバンドによるライブが行なわれた。 冒頭,登場したのが,この白のワイシャツを着込んだYMOのコピーバンド。 一緒にいった友人は「勘弁してくれよぉ」と,骨なし魚のように崩れ落ちた。 リアルタイムで内心,カッコイイと思っていたスタイルの,あまりのダサさに,ノックアウトされたようだ。 このときのバンドは期待はずれ。友人が学園祭で演奏した「中国女」や「CUE」のほうがカッコよかった。 実は,秋元キツネ氏がキツネになるまえのバンドも登場し(バリケのあと),YMOを演奏したのだが,ベースのチューニングがどうにも合わず散々なステージだった。一曲だけP-MODELの「マーヴェル」をカバーした。よりによって,なんでこの曲を? と思った。 ラストは,80年代P-MODELのコピーバンドが登場し,ノリノリだった。(ほんと,ノリノリって感じの80年代っぽい盛り上がり)女性ボーカルを交えて「世界タービン」や「ロケット」まで演奏したと思う。 こちらのバンド,ドラムは生だったので,それはそれは気持よかった。 生は気持いい。いや,まったく本当に。 |
07月02日(水) しあわせ |
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数年前,年末の総集編攻めのなかで,たまたま「炎のチャレンジャー」(だったと思う)を目にしたとき。数年ぶりにホント,心底笑った。 100メートル走で,自分が設定したカウンター通りのタイムで走り切ると100万円もらえるという企画だ。登場したのは,そこらにいる普通のおばさん。 神妙に目を瞑り,スイッチをスタート。間髪いれずスイッチを止める。これくらいなら走り切れる! 天の啓示があったに違いない。掲示されたタイムは8秒台。何が起こったのか理解できずにキョトンとするおばさん。さあ,世界記録へのチャレンジだ。 スタート! 50メートルにも届かないところで煙のなかに消えるおばさん。 思い返すと,しあわせな気持になる。 努力を侮ってはならないと,ときどき思う。どんな理由で人を感動させるか分かりはしないのだ。 とはいえ,努力も才能のうち,と怠惰と二人三脚で街中を闊歩していたのも,また私。 努力の人になろう。何度,空振りの覚悟があったかしれない。 結局,よほど才能がないのだろう。結局は。 補記 テレビを通して手頃な心地よさを得ていたのは,せいぜい「北野ファンクラブ」まで。(ピエール瀧のステージ・アクションは,多大に北野ファンクラブ的だと思うのは私だけではあるまい) 10年くらい前の「タモリ倶楽部」で,「有名人の顔麻雀」というネタがあった。白=モーリス・ホワイトというのだけ,やけに覚えている。 継ぎ接ぎだらけのメモリだ。 |
07月03日(木) 本屋3題 |
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その1 買いそびれた佐藤亜紀の『天使』を探そうと,女流文学コーナーに向かった。本人がいくら嫌おうとも,女性の作家の本がこのコーナーに置かれてしまうのはしかたない。 しかたないのだけど,なんで美輪明宏(加藤和彦,いやドクター・ケスラーの「メケメケ」は絶品)のエッセイ集が同じコーナーに置かれてあるのだろう。笑ったけど。初手から,女流文学コーナーなんてカテゴライズしなければいいのに。 その2 続いて見つけたのは,洋泉社の新刊。タイトルが『吹替洋画劇場』(洋泉社MOOK 別冊映画秘宝 Vol. 1)。案の定,モンティ・パイソンに,そこそこのページを割いてあった。(ついこの前,日記に書いたように)やっぱりあったかと思う一方で,何だか意気消沈気味。 私たちの世代をターゲットにしたマーケットリサーチにがっちり絡めとられた気分だ。 そのまま,医療のコーナーを覗くと,朝日俊彦氏(香川県立中央病院,だったよな,たぶん)の本が出ている。わけあって,先週,某所で挨拶を交わしたばかり。この本も同じ版元だった。 フィリップ・K・ディックの小説の登場人物の気分を味わった。(洋泉社のまわしものでは,決してありません。) その3 『日はまた昇る』の新訳文庫本が出ていたので買おうかと思い,頁を捲ったところ,なんて活字の大きさ。サクサクと頁を捲れるだろうが,ものにも限度があろうと思うのだが。 恐ろしくて隣にあった,同じく新訳『嵐が丘』(ケイト・ブッシュじゃないよ,ではなく。この場合,そのもの。ヒースクリフ)には触れることができなかった。 |
07月04日(金) テレビの盆栽 |
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東京都立美術館で,ナムジュンパイク展が開かれた年のこと。映画を観ようと上野にきた筈が,なぜか入ってしまった。 入り口近く,ピーター・ガブリエルとローリー・アンダーソンのコラボレーションが上映されていたので,山道で猪にでくわすようなときめき(とはいわないだろうか)を胸に,先を進んだが,あるのはモニタ,モニタ,またモニタ。 氷川丸の体内巡りのような道順で辿っていくと,まわりはモニタばかり。そして,あの「テレビの森」があった。 こうやって記憶に残っているのだから,インパクトはあったのだろうが,まあ,美術館で観るものではない。佐賀町あたりであれば,好事家が集まって評しただろうが。内藤礼のインスタレーションと比較しては酷だろうか(さて,どちらにとって?) 同じ年の秋,学祭で一教室を借り,「ディスコ」と称して,踊れない曲ばかりをかけた。曲の合間には友人のバンドがYMOのコピーを演奏。 各人,テープ(まだ,カセットテープの時代のこと。まさに,遅れてきた『ハイ・フィデリティ』)を持ち寄って,適当にかけた。 当時,オーディオ・マニアの友人は,まったくの娯楽のためにスイッチャーを買いこみ,アパートの一室でスイッチングに勤しんでいた。 ビデオカメラをモニタに向けてモアレを作ったり(ビデオ「旬4」にも見られる小手先の技),無声映画とガウディのレーザーディスクを流しながらスイッチングしている様を見せつけられた。 この男,私のアパートにきては,ひまになるとヒンズースクワットをはじめ,そのことを私が咎めると,すぐ,しゅんとなる。気まずい時間が過ぎ,とっとと帰ればいいのに,なかなか帰りはしないのだ。 さて,自称「ディスコ」では,こ奴の趣味が存分に発揮された。 レンタル屋から20インチからのモニタを5台借りて,ビデオデッキ3台,カメラとつなぎ,スイッチング。もちろん,教室は真っ暗に目貼りをした。 ラジカルTVにインスパイアされたのか,単なる偶然か,ビデオには,ゴジラやGIジョーまで登場したのには唖然としたものだ。 ちなみに,機材のレンタル料金は,学内への搬入時のドタバタで,学祭実行委員が立て替えた模様。未だにわれわれは,その代金を払っていない? |
07月05日(土) 先が読めない |
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初めての場所で買い物するときは,まず,全体のようすを確認してから,もう一巡する。本屋でもCDショップでも同じだ。とくに奇異なことではあるまい。 ところが,家内は一点集中型。往路で一軒一軒チェックしながら,復路で買い求める。元町のチャーミングセールのときなどは,一日がかりで往路を制覇したはいいが,石川町にたどり着くと19時。あわてて復路をつぶしていった。もちろん,すべて手に入れられることは滅多にない。 新大久保と大久保のちょうど中間あたりに,小体なイタリア料理店があった。小柄なマスターはいつもぴったりした紺色のパンツを身に付け,慇懃な態度をいつも崩さない。 夜は6,000円のおまかせコースのみ。海の幸中心に,プリモピアットどころではない。一体,何品出てくるのか判らない豪華さだった。 10数年前,はじめて家内といったとき,その旨さに舌を巻いた。ただ,まったくのおまかせであり,次に何がサービスされるのか判らない不安と隣り合わせ。最後まで気が気でなかった。 ゆっくり食べていようものなら,テーブルの上に乗らないほどの品が次々と登場した。 数年後,再び,同じコースを頼んだ。前回の反省を胸に,今度は出された皿を次から次へと片付けた。すると,しばらくして 「もっとゆっくりめしあがってください」 マスターは,相変わらず慇懃な態度を崩さない。「シェフの料理が間に合いません」 そんなこと知ったことか。次の皿を出せ! そう思ったものの,すでにコースの終盤に入っていたらしく,消化不良のまま,デザートをたいらげた。 この店も今はない。当時,ランチメニューにあった「海の幸のホワイトソースパスタ」は,そりゃ旨かったのだが。 あのマスターのことを思うと,中井英夫と田中B公氏のことが浮かんでくる。そんな雰囲気だった。近づかないに越したことはない。 |
07月06日(日) 肩書き |
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SEを辞めた友人は,家族とともに親元を頼った。子どもには厳しくとも孫には弱い,どこにでもいる両親だった。違うのは,父親は国鉄マン,母親は中学校の校長という,とにかく堅い職業だったこと。 そ奴は,しばらく後,親の伝手もあって公団住宅に移った。 仕事を探してはいたらしい。一時音信不通になった。 われわれは週末に集まり,酒を飲みながら噂した。 「生きているのだろうか?」 初手から生死を問うのはいかがなものか。 「“ここにいるよ”と,こおろぎの精のよ、な高い声が聞こえるんだが」 友人は続ける。 「店でも始めて忙しいんじゃないか」 「そういえば,ファーストフード風のお茶漬け屋やりたいって,いってたな。ちょっと高級な具を使って」 10数年前のこと。何ごとも1歩先に行き過ぎると旨くいかないものだ。 「便りがないのがいい便り,よくいってたじゃないか,あ奴」 いい加減に締めくくり,そんな席が数回続いたあとのこと。便りが届いた。 「カメラマンをしている」 何だ! カメラマンって。あ奴がカメラ手にした姿見たことないぞ。だが,文面はこう続いていた。 「○○温泉で,団体バスにくっついてスナップとるカメラマンだけどな」 そ奴は,温泉地の,それこそ芸能界の縮図のような興行界を目の当たりにしながら,まったくいかがわしい空間を3年ほど泳ぎまくった。カメラマンとして。 さて,本題はこれから。 先日,知人の結婚式に出席したとき,肩書きが「資産家」という輩が数名いた。 肩書き=資産家 思わず吹き出しそうになったが,いるのだ,資産家。 なってみたいものだ,資産家に。 |
07月08日(火) また,ベース |
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お笑いタレントが歌う佐賀県の曲。 曲調はポップパンク,詞は嘉門達夫の亜流,「公表」なんてレア(なま)な単語が発音されると,聴いているほうが恥ずかしくなるのも事実。 なのに,ひっかかる。 ベースの弾き語りというスタイル以外,どこに惹かれる理由があるだろう。曲は,いかにも「ベースでつくりました」と宣言しているようなものだし。 つくづく手弾きベースの威力を感じてしまう。 昔,打ち込み音楽全盛のころ,ホルガー・ヒラーの名言に「他のパートにテープやシーケンサを使ってもかまわないが,ベースだけは生でなければならない」というのがある。 同じころ,(この教えを破った)高橋幸宏は,細野晴臣のスケジュールがとれなかったためか,ソロライブで,録音テープを使ってベースパートにしたことがある。確かに奇妙な演奏だった。 われわれのサラリーマンバンドでも,「ホルガー・ヒラーの教え」として,これだけは忠実に守った。 さて,平沢ソロ。 ベーシストとしてクレジットされているのは今堀恒夫だけ(一部,キツネになる前の秋元の名もあるが)。われわれにとっては,ティポグラフィカのギタリストとしてのイメージがあまりに強烈な今堀をベーシストに起用するのに口を挟むいわれはない。 ただ,error ライブでの貧弱な秋山のベース(OH MAMA!の,あのバージョンは犯罪ともいえる)以外生がないという,(一部,平沢が弾いている箇所もあるかもしれないが)まさにベースパート不在の災難が,実は平沢ソロのある種の「薄さ」の一因でないかと(非難をあびるのは承知で)思っている。 高橋BOBが演奏したライブ音源はまとめられなかったし……。 (とはいえ,いまひとつ馴染まなかったのも事実。唯一の例外は,バーチュアル・ラビット・ツアーだ。このときは,友田真吾の生ドラムに大幅に寄ったセッティングと相俟って,凍結前,P-MODELのような音圧だった。) 解凍P-MODELもベース不在の不幸が,いつもつきまとっていたものの,「FUNE」のフレットレスや,何といっても「バーチュアルライブ3」の出だしに尽きる。 そんなに,メンバーそろって練習するのが嫌いのなのだろうか,平沢。 小西の数十年,弦を替えていないベースでもかまわない。聴いてみたい。 |
07月09日(水) プレッシャー |
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奮発して,アークヒルズにあった「ル・マエストロ・ポール・ボキューズ・トウキョウ」(それにしても,なんと大仰な店名だろう)へ食事にいったことがある。閉店の2週間前ころだったろうか。 金さえ出せば,旨いものが食べられるのだと実感したのは事実だ。閉店が目の前に迫っているニいうのに,押し付けがましくないサービスにも感心した。 ただ,私(たち)にとって,店内に流れる時間があまりにそぐわず,食事途中まで落ち着かなかった。アルコールがまわってしまってからは,こっちのものだったが。 もっとも,家内と食事にいって落ち着いて過ごせた経験はほとんどない。 はじめていったフェヤーモントホテルの「スリジェ」で(念のためGoogleで検索したところ,このホテル,まだあるのか。数年前に潰れたと聞いた筈だが),私が食事するときの姿勢の悪さを指摘されて以来,国内のレストランで一緒に食事すると,どうにもプレッシャーを感じる。 私はといえば,あげく,ティファニーのテーブルマナーブックなる冊子を買い,その,まったく役に立たずの内容に(塩月弥栄子よりも),ますます混乱した。 子どもが生まれたが,「分別がつくまではレストランに入らない」などと殊勝なことはいわなかった。2歳を越えてからは食事に連れていき,毎回,食事をした気がしないほど振りまわされた。 家内と交代して,子どもを店の外であやしながら,ランチを摂ったこともある。 「何もそこまでして」 何度,喉から出かかったことだろう。 二人きりのときのプレッシャーは失せたが,違った意味でストレスを感じた。 最近,子どもと食事にいっても,絵本1冊で大人しく時間を過ごせるようになった。また,私の姿勢を指摘されるのではないかと,びくびくしている。 |
07月11日(金) タイ |
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バンドのメンバーが,社会人になってから一番変わったのは,いつの間にか大食家になったことだ。20歳過ぎてから。 学生時代,単位をとるために,埼玉の山奥の少年自然の家へ1週間,ボランティアにいったことがある。当時,住んでいた家からは,朝一番で出ても(初手から,そんな電車で行こうなんて思ってはいなかったが)間に合わない。ちょうど,いい案配のところに,そ奴の実家があったので,前日に泊まらせてもらうことになった。 その日の夕方になって,そ奴の母親が部屋にやってきた。片手に鳥の腿肉をもって。 「夕飯できるまで,これでもつまんでいて」 つまむって,鳥の腿肉……。 「うちの子は,食が細いから,友達がきたときくらい,いっぱい食べてもらわなきゃ」 不吉なことをいう。 「俺の先輩が,この前,夜までいたんだけど,母親にどんどん食べさせられて,胃がひっくりかえってしまったんだ」 椀子そばじゃあるまいし。第一,ここには蓋がない。 その夜,鉄板焼きに,サケの押し鮨のほか,書ききれないほどの手料理が登場した。胃はひっくり返らなかったものの,そ奴の母親の嘆息を聞くことになった。 「あーあ。遠慮しないで,もっと食べて」 「いえ,遠慮なんて。もう食べられません」 食が細かった友人が,大食家に変わったのには理由がある。 いつのころからか,そ奴は,タイ料理にはまってしまったのだ。自宅でパクチーを栽培し,トムヤンクンを作る。 一度,食べると癖になるようで,いつの間にか,われわれの打ち合わせはタイ料理屋で行なうことが多くなった。 そのころは,よもや平沢が東南アジアにはまるとは,夢にも思わなかった。 最近では,飲むのはタイ料理屋で,ばかり。私の家の近くにあるタイ料理屋のパッタイは,そ奴をして,タイで食ったどんなパッタイより旨いと絶賛されている。 隠し味は,ケチャップだと踏んでいるのだが。 |
07月12日(土) 匂い |
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子どものころ,家のそばの空き地に円柱が置かれてあった。直径が,ゆうに身長の2倍はあるコンクリート製のものだ。何に使うものか判らなかったが,私たちはそのなかに入って,しばしば遊んだ。 同じ一角に,ちょうど酒樽を5倍くらい大きくしたような物体が置かれていた時期がある。 そのなりに入り込むと,化学物質の匂いが鼻についた。決して「いい匂い」ではない。なのに,当時の甘美な記憶と相俟って,以来,同じ匂いがするとノスタルジックな気分になる。 アスファルトの焼ける匂いにも,同じような記憶が纏わりついている。 草いきれよりは,藁ぼこり。喉が弱かったはずなのに,埃の匂いと記憶がつながるのは,やはり,子どものころの遊びと繋がっているからなのだろう。 10代を過ぎてからは,匂いが,自分自身を通しての記憶ではなく,場所を特定するようになる。 いちばんは古本屋の匂い。ブックオフに,あの匂いがまったくしないのはなぜだろう。それだけで足が遠のくというものだ。 輸入レコード屋にも独特の匂いがあった。 久しぶりに神保町へいった。 変わらない古本の匂いに,少し懐かしさを感じた。 |
07月13日(日) SandeMan |
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バブルの終わりの始まりごろ,ローマから入り,ミラノで働く弟のアパートに潜り込み1週間,最後は夜行列車でパリにたどり着いた。 ポンピドゥ・センターに寄る以外,予定はなかったが,バスルームシンガーに限りなく近い女性ボーカリストは「アニエスbの帽子がほしい」と,カッコだけはつけたがる。 地下鉄を乗り継ぎ,店を探し出し,ほどなく頼まれものを買い付けると,出発まで,あまり時間はない。 会社への土産は,悪意を忍ばせて,ドゴール空港で買うことに決めていた。 CDを買おうかとヴァージン・メガ・ストアを覗いたが,ああいう店舗は,値段以外,どこの国でも,あまり変わりない品揃えだ。ミラノでも入ったばかりだったことに気づいた。 場所は覚えていない。もう二度といけないだろうが,どこぞの酒屋に入った。フランスに来たからにはワインだろう。疲れてくると,ものごとを単純に考えたくなる。 とはいえ,相手はフランス語ばかり。手書きのラベルさえ珍しくない。考えあぐねていると,緑色の瓶が目に入った。見た目はタンカレーみたいなのに,ワインらしい。 “Sandeman” ラベルに描かれたシラノ・ド・ベルジュラックのようなシルエットが妖しい。ホフマンの砂男のことなのだろうか。 いろいろな思いが錯綜し,思わず買い求めた。 壮絶な悪天候のため出発は2時間遅れ,飛び立ってからも揺れがひどく,食事のサービスができない状態で,ソ連上空をゆく。 私は,早々にジントニックを流し込み,仮に胃がひっくり返ったとしても,酒のせいなのか揺れのせいなのか判らない状態で眠りについた。大韓航空機はソウル経由で成田に到着できた。助かった。 アパートに着いたその週末,友人とSandeManを開けることになった。律儀にオイルサーディンを携えて,そ奴はやってきた。 「どんな味なのだろう」 「まず,俺からな」 沈黙。そして声。 「うまい! 子どものころ想像していたワインの味だ」 「!?」 「飲んでみろよ」 「おー」 地の底からわき上がるような嘆息が続いた。 そうやって,ワインが空になるまで,それほどの時間はかからなかった。 翌日。私たちは初めて,頭が割れるような二日酔いに悩まされた。 思えば,ポートワインだったのだ,SandeMan。フランス産でもなかった。 二人で1本空けるものじゃないだろう。 |
07月14日(月) 卓を囲む |
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正月の2日に,新宿で飲むことになった。忘年会が順延になり,とうとう年が明けてしまったのだ。 予定の人数を大幅に下回り,連絡がとれたのは私を含め3人。西武新宿で友人のひとりと待ち合わせ,プログレファンに餌をまいたとしか思えないディスク・ユニオンの「新春プログレ祭り」を覗いた。 「新春パンク祭り,新春ニューウェイヴ祭り,新春テクノ祭り,新春つけることないよな。やっぱり新春といえば,プログレか」妙に納得して東口をめざす。 すでに,もうひとりはきていた。みな時間を持て余しているのだ。とはいうものの,どこへいくあてもなく,飯でも食うか,ということになった。仮に,あとひとりいたならば,雀荘に直行していたかもしれない。 どこも人で溢れていて,動くのにもうんざりする。 「お好み焼きにするか」 相づちもなく,反ばくもなく,そのまま目についたお好み焼き屋に入る。意外と,正月から店を開けているものだ。 「さてと。まず,ベビースターもんじゃかぁ。外せないよな」と切り出す友人。 「……」 「まず,ベビースターって,それ繋がらなくないか」 もうひとりが,すかさず切り返す。 「知らねえなぁ,こいつ」 確かに知らない,ベビースターもんじゃ。ダブル・ジャンクフードみたいじゃないか。アメリカ人にこそ,ぜひ食わせたい。 さらにカレーをトッピングし,次々とオーダーする。笑いながら,私たちは,そのようすを眺めていた。 つくりながら,ガキのように,話はきたないほうに進む。昔はやった究極の選択だ。(ホントきたない話で申し訳ない) 「○○味の△△と,△△味の○○,どっちがいい」 ○○には吐瀉物,△△にはもんじゃが入る。カレーのバリエーションがあったことは,いうまでもない。 当時から,この話,オチは「○○味って,どんな味だ。そんなのあるかよ」でおしまい。何回,こんな話ばかりしていたことだろう。 この正月,私ともうひとりの友人には,すでに子どもがいた。見せられないな。正月から「ベビースターもんじゃ+カレー」食いながら,古びた究極の選択話をする父親。 ほとんどのとき,この話は,ハナ肇のブロンズ像ネタにつながるのだが,この話は,いずれまた。情けなくなってきた。 |
07月15日(火) フェイク |
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弟が日本から出て行ったのは平成のはじめごろのことだ。喫茶店とチェーン店の厨房経験だけを携えて,以後,海外の日本食レストランをわたり歩いている。そう,今日まで。 最初にミラノの日本食レストランに潜り込んだ。以後,パリ,ロンドン,テルアビブ,そして今はロサンゼルスにいる。手際よくグリーンカードも取ってしまったそうだ。 ただ,やることなすこと,まがい物好きだから,どうにも存在がうそっぽい。 ミラノにいたときは,クラフトワークのライブを観に行って感激して電話してきた。いわく,「イタリア人にもカラスがいたんだ」。カラス=黒尽くめのニューウェイヴファンのこと。 ロンドンではコリン・ヘイ(メン・アット・ワーク)のソロコンサートへ。ロサンゼルスでは,カルチャークラブのライブに必ずいっているそうだ。 微妙にというか,場所とミュージシャンの相関がかなりズレているように思うのは私だけだろうか。 数年前は,ロサンゼルスから連絡があり,「こっちのミュージシャンがP-MODELのカバーしてたよ」という。曲は「OH MAMA!」だったか「おやすみDOG」だったろうか。 やっかいだったのは,こ奴が結婚式をフィレンツェで挙げたときのこと。家族みんな,フィレンツェくんだりまで,YMCAのピクニックみたいに隊列を組む。 ところが,親戚縁者のうち,イタリア語を聞きとれ話せるのは弟だけというシチュエイション。結婚式がはじまり,神父のありがたいお言葉となった。 しばらくして,誰も解していないようすを悟った神父は弟(=新郎)を手招きする。 「あなたが,みなさんに訳してください」 新郎みずから,神父の説教を参列者+新婦に話す。 一言二言はじめはしたものの,さすがに馬鹿馬鹿しくなったのだろう。 「あとで説明するから」と謝り,そのまま奇妙な結婚式は終わった。 先日,奥さんが所要のため帰国した折も,ボブサップとアントニオ猪木,ジャイアント馬場の新しいフィギュアを買って渡してほしいと連絡が入った。 なんでも,奥さんには「帰り際に,コンビニ弁当を買って帰ってきて」と懇願したそうだ。まがいなりにも料理人。なのに,こ奴,昔からコンビニ弁当が大好きなのだ。 |
07月16日(水) インターミッション:リバース |
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20年ほど前,何周遅れでザ・フォーク・クルセダーズの音源を集めたことがある。いきおい,昔の紙関係も漁った。繰り返しで出てくるエピソードに「悲しくてやりきれない」誕生話がある。 発売中止になった「イムジン河」のマスターテープを逆回転させ,コードを拾いながら,手を加えて出来たという,なんとも加藤和彦らしいエピソードだ。 同じころ,こんな話もあった。 当時,発売からすでに数年,怪物アルバムの名をほしいままにしていたピンク・フロイドの「ダークサイド・オブ・ザ・ムーン」。テープに録音して逆回転させたファンがいたらしい。 すると,どうしたことだろう。ロジャー・ウォーターズが「よく,ここに気づいたね」といっているではないか。これは,隠されたメッセージだったのだ。 はて,なんで,逆回転させなければ聞けないようなメッセージを仕込む必要があるのだろう。第一,肝心のメッセージだって,まるで教育テレビの理科教室のお兄さんがいいそうな一言だ。 ハナ肇のブロンズ像への幕間は,ここから。 ベビースターもんじゃの友人は,胃がひっくり返る話をすると,なぜか顔が緩んでしまう。満面の笑みが全身を覆う。 こ奴の前で温泉旅行の話をしようものなら,もうたまらない。 「下呂温泉って,おいおい,いいのか」 だれも,そんなこといってないだろう。勝手に話しをもっていくなというのに。 実は,その後,こ奴抜きで友人3人と下呂温泉へいった。 日本酒を買ってきたので,しばらくしてからみんなで飲もうということになった。 「何て切り出そう」 「下呂温泉で買った日本酒だぞ」 「それだけで,もう話はあっちへいくな」 「酔っぱらったら,もう大変だ」 「面倒くさいな,まったく。こんなことで悩むなんて」 まったく面倒くさい。 ところで,これだけ引っ張ったハナ肇のブロンズ像話,実は,ホント,たわいない話であるのだ。 |
07月17日(木) ブロンズ |
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ベンヤミンいうところの「出会いの聖なる一回性」というものは,複製技術時代を生きる私たちにとって,やはり意味を成しづらいのだろう。 その場に居合わせなかった私に,そのことを後悔させる動機は,あまりに少なかった。あのビデオが残っていては,いや,まったくに。 その日,珍しく私たちは,学校がある場末の町で遅くまで飲んでいた。誰一人,終電間際の不毛な駆け引きをはじめる気配もなく,一人ずつの終電時間が過ぎていく。 その町にアパートを借りていた私か徹の部屋,いずれかに転がり込む算段なのだろう。 「場所を変えないか,そろそろ」 一人が切り出す。 「じゃあ,俺はこのへんで」 徹のリアクションが続く。いつものことだ。 「まあ,そういうなよ。酒買って,お前ん家,いこうぜ。コンビーフ奮発するぜ。馬肉のじゃない奴だ」 最後の一言に,徹が反応する。 「……本当に,馬肉じゃないんだろうな」 「あたりまえじゃないか。牛肉のコンビーフだぜ」 徹の家にいくことに話は決まって,私はそこで別れた。 翌日の午後。学校へいくと,学食で2時のワイドショーを食い入るように見つめる徹の姿があった。こ奴,嫁姑の確執を描く再現ドラマが死ぬほど好きなのだ。 「昨日,あれからどうだった?」 私は尋ねた。 「それが,さぁ」と,いうやいなや爆笑だ。「帰りに寄っていけよ。いいもの見せてやる」 徹の部屋で見たのはホームビデオだ。 映っている友人のすべてが出来上がっている。喬史はカメラを向けられると「ハラホロヒレハレ」など,ゼスチャー交えてリアクションする。 カメラがパンして戻ると,また「ハラホロヒレハレ」だ。 「おいおい,カメラ向けるなよ。勘弁してよ」 「わかったから,リアクションしなけりゃいいじゃないか」徹 の声だけが響く。そし て,またカメラは喬史を映す。「ハラホロ,ほんと勘弁してよ」 パンした先に伸浩の姿があった。これ以上ないというほど至福の顔。まるでハナ肇のブロンズの胸像のような色艶だ。 思わず吹き出した。「なんて平和な顔だ」 「それが,さぁ」徹は,すでに笑いを堪えている。 「……このあと……すぐだぜ」堪えきれず,思わず吹き出す。 「こ奴,トイレに駆け込んだんだ。信じられるかよ。こんな満足気な顔してさぁ」 その後,しばらくの間,このビデオを見ては伸浩のその後に思いを馳せ,そのたびに爆笑していた。 |
07月18日(金) フォトグラファー |
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80年代に入ってからニュー・ウェイヴのファンに鞍替えした身として,アントン・コービンのポストカードは,とりあえず買っておくべきものだった。スージー・スーや(当時の)ボノはともかく,デヴィッド・ボウイやピーター・ガブリエルの写真も撮っていたので,単に「ニュー・ウェイヴっぽいから」という理由だけではない。 当時のロックシーンのなか,PVでデレク・ジャーマンがいた位置に,写真ではアントン・コービンがいたように思う。 モノクロ写真と,紫外線に焼けたような肌合いが,今はなき「(当時の)ブリティッシュ・ロック」に似つかわしかった。被写体のリストを辿ると,これも詭弁であることに変わりないのだが。 ブリティッシュ・ロック,その音圧が懐かしい。 私は,それまで写真に興味はなかった。それが,アントン・コービンの作品を契機に,モノクロ写真がアンテナに引っかかってくるようになった。 以後,マルセル・ボーヴィスやアンドレ・ケルテス,そしてラルティーグ。写真集を買い求め,展覧会に足を運んだ。思えば,結局は「わかりやすい構図」がすべてだったのだ。 とはいえ熱が冷めるのにも,それほど時間はかからなかった。 それは,須賀敦子の『コルシア書店の仲間たち』を手に入れた日のことだ。電車のなかで冒頭の「入り口のそばの椅子」を読み終えると駅に着いた。栞代わりに指を挟んで,家の途中にある古本屋に立ち寄った。 画集,写真集が棚差しされた一角に,『人間とは何か 世界写真展』というタイトルの写真集が目についた。手に取って捲ると,すべてモノクロ写真。奥付は昭和40年8月5日とある。それにしては状態がいい。なぜかわからないが,私は,そのまま勘定を済ませた。 家に帰ってから,まず写真集を眺めた。見たことのある写真もあったが,ほとんどが初めて見るものばかりだ。 それから須賀敦子の本の続きを読みはじめると,冒頭にこんな一節があった。 「いちめんの白い雪景色。そのなかで,黒い,イッセイ・ミヤケふうのゆるやかな衣装をつけた男が数人,氷の上でスケートをしている」(銀の夜) そのマリオ・ジャコメッリという名の写真家の作品を目にしたときの話は,違う人物につながっていくのだが,私は,さっき買った写真集に,よく似た一枚があったことを覚えていた。 微妙に構図は違うものの,クレジットは確かに“Mario Giacomelli”となっている。 こういう経験があるから,どうしても本屋,古本屋へ足を運んでしまう。 |
07月19日(土) 隣人から伝言 |
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学生時代,風呂なし2階建てアパートに住む友人の引っ越しを手伝った。 殺風景な6畳部屋には,古びた神棚が据えられている。珍しい光景を眺めていると,その上に何やら筒状に丸められたポスターがあるのが見えた。 「あれ,忘れ物かな」 「ヌードポスターじゃないのか。前の住人から心ばかりの餞別だぜ,たぶん」 「シャルロット・ランブリングかなぁ。それともナスターシャ・キンスキーかぁ?」 しばらくの間,ポスターの被写体で盛り上がった。話はどんどん膨らむ。 やおら少しずつ手を伸ばし広げてみると,それは確かにポスターだった。 「さてさて」 女性の髪のようだ。やはり……。 と,友人の手がピタっと止まった。 「ふざけんなよ」と一声。 私たちは覗き込み,絶句。そして爆笑した。 そこに写っていたのは原由子だった。 ナスターシャ・キンスキーと原由子。違うにもほどがある。 授業を終えると,友人の部屋に向かう。学校からそれほど遠くなかったので,というよりは,することがなかったので,よくいったものだ。だらだらと時間は過ぎ,結局は近くで夕食を共にする。 引っ越して早々,隣人から焼き鳥の差し入れがあった。40代の冴えないサラリーマンだ。銭湯の帰りらしく,こざっぱりとはしていたが。 あるとき,友人はあることに気づいた。夜,遠くで聞こえる鼻歌が,だんだんと大きくなる。どうやら隣人らしい。銭湯帰りに,近くの飲み屋や一杯やってきたところなのか,やたら気分よさそうだ。友人の部屋の前を通るときは絶好調。そして鍵が開く音がする。 まあ,これくらい仕方ないか。友人は気にも,とめなかった。 ところが,よく聞くと,部屋に入ると同時に声がピタリ止むのだ。あれだけ盛り上がっていた歌声がまったくしなくなる。 「聞きにきてみろよ」 そう誘われると,いかざるをえない。確かに友人がいう通りだった。私たちは隣人を肴にまた,くだらない話だ。 そのうち,10時,11時まで,その部屋で時間を潰すことになってきた。 ドンドン! 隣人が壁を叩く。 意外と音が漏れるのか,というより,私たちの声が大きすぎるのだ。静かにしろという合図なのだろう。そう理解した。 ドンドン! が数回続くと,最後は 「早く寝ろ!」 「そのうち,歯磨けよ,宿題やったかっていわれそうだな」 相変わらず,減らず口ばかりの私たちだった。 |
07月20日(日) たったひとつの冴えないやりかた |
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その場にいなければ,何をいわれているか判ったものじゃない。お互いにそれを了解していたから,特に問題にはならない。思えば,至極あっさりとした関係だった。 徹がクラス会にいったときのこと。欠席したクラスメイトを俎上にあげ,笑いをとり,会の中心に潜り込む奴がいたという。次の飲み会では,別の欠席者がターゲットになる。そ奴が話すことは,いつもその場所にいない友人の悪口ばかり。さすがに辟易したそうだ。 あるクラス会の席。いつもはうるさいくらい響き渡るそ奴の声がまったく聞こえなかった。徹は,不自然なようすにしばし黙考,あたりを見回した。 簡単な理由ではあったのだ。 そ奴がいつも悪口をいっている欠席者が,その日にかぎってみな揃っていた。 「他に話すことはないのかなぁ」 翌日,徹は私にそう告げた。 |
07月21日(月) Lime Wire |
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“LIME WIRE”をダウンロードし,試してみた。 アーチスト名“P-MODEL”で検索したところ,引っかかってくるのはクラフトワークの“Das MODEL”やエミネム(って実はよく知らないのだが)の曲だとかばかり。 YMOで検索にかけると曲が意外と出てきた。妙なところで知名度の差を見せつけられた。 2号雑誌「ピコ・エンターテインメント」廃刊の理由は,やはり特集のせいだったのだろう。 さて,そのあたりでうろうろしていては,DLした甲斐がないというもの。 続いて“Robert Fripp”で検索する。“Here comes the flood”や“Under heavy manners”,フリッパートロニクスなんてものまである。テクノ周辺では重宝するのかもしてない。ドクター・アレックス・パターソンとのコラボレーションの例もあるし。 “King Crimson”では,メキシコシティのコンサートはいいとして,“Talking Drum”とか“Thrak”の前振りの曲だけとか,中途半端なものもちらほら。 結局,XTCの“Dear God”をDLした。 |
07月22日(火) 老いたる新人類の年への哀歌 |
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雑誌や新聞でアルバムレビューを見て,アーチスト名とアルバムタイトルの区別が,まったくつかずに途方に暮れる。昨日今日に始まったことではないので,慣れてしまった。 “Various Artists”のクレジットを見つけ,「こっちがアーチスト名か」というのも悲しいものだ。 ところで,日記にタイトルを付ける習慣はなかったので,(みなさん,日常書く日記にもタイトルをつけているのだろうか?)適当半分に書いてきたが,今日のタイトルばかりは実感。 おいおい埋めることにしよう。 |
07月23日(水) 留守 |
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借りていた部屋に戻ると,玄関先で隣人が待ち構えている。何やら妙なようすだ。 「お友だちがきてたみたいなんだけど,帰ってしまったかな」 低く呟く。 「すみません。間違えて呼び出されましたか?」 「いやぁね。そうじゃなくて。部屋にいたら,ばかデカイ音でミカバンドが聞こえてきてさ。何だか……聞き苦しい声がかぶってるんだ。『タイムマシンにお願い』だったんだけど」 部屋に入ると,『黒船』のジャケットが出しっぱなしで,LPがターンテーブルに載っている。 学校を中点にして,駅とその部屋は等しい距離にある。駅まで歩いて20分くらいかかっただろうか。おまけに電話を引く気はない。私の部屋を訪れるには,そこそこの勇気が必要なのだ。 農家に続く畦道際に立つ一戸建てを3人でシェアするつくりだ。あたりの「野を焼く煙」さえ見渡せる。だから,ほとんど部屋のカギはかけない。 それまでも留守のとき,部屋を訪れた友人が,一息ついて駅へ向かうことはあったのだが。 LPをかけ,それに合わせて唄うのはあ奴しかいない。 ふと,流し台をみると,バナナの皮とケーキのカップが放置されている。バナナの皮……。思わず笑ってしまった。 唄って,食って,帰ったわけだ。 しばらく後,学校を休んだ友人のアパートへいく3名。鍵はかかっているものの,どうにも,なかに人のいる気配がする。 「いるんだろ,あけろよ」 「別に,恥ずかしくなからさ」 何か,不躾なことをしているとでも思い込んでいるようすだ。 「雀荘いくぞー」 相変わらず返事はない。 「コラ」 ひとりが調子にのってマッチを点け,ドアの隙間から投げ込もうとする。さすがに私たちは,その手を止める。 「だいじょうぶや,だいじょうぶ,鍵あけるって」 「お前ら,何してんだよ」 振り返ると,後ろに,手に烏龍茶のペットボトルをさげて部屋の友人がいる。 弛緩したリアクションに,一同,マッチもつ手を隠す。 放火するところだった。 |
07月24日(木) ヴェネツィア |
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80年代の半ば,加藤和彦とマーク・ゴールデンバーグのコラボレーションアルバムが出た。 打ち込みが新鮮なころのこと。ほとんどの楽器,プログラミングを2人だけでこなしたもの。ゲストミュージシャンの扱いが面白かった。 高橋幸宏は六角スネアのみで数曲に参加。友人は「こんなバスドラ,もう踏めないもんな」と嘆息混じりに呟いた。 清水靖晃のソプラノサックスは,ほとんど“Flesh and Blood”以降のアンディ・マッケイだ。スタイリッシュな曲ゆえに,リーゼントともみあげが目に浮かぶ。まるで「バイクメ~~~ン」のドトキン(だったか?)を小太りにしたような。 アルバムタイトルは「ヴェネツィア」。 その後,社会人になって,ひとりでグッゲンハイム美術館を訪れた。 ヴェネツィアとタンギー,ヴェネツィアとエルンスト。まったく妙な組み合わせだが,アカディミアへ行くよりは,気が利いていると感じたのは若かったからだろうか。 さらに数年後,家内と雨宿りに入ったバールの隣は,夜になると開くトラットリアだった。時間を潰しに,鞄に押し込んだままの「望遠郷5 ヴェネツィア」を眺めた。まじめな観光者を装おうと,あたふたしていたのだ。が,とても面白いガイドブックだった。 今にしてみれば,このシリーズ全刊揃えておくべきだったと悔やまれる。 貝類が苦手な家内を横目に食べたシャコが,ホント旨かった。 このときの旅行で買い求めたチャチなリトグラフは,同じくコモ湖の登山電車開通100周年記念のポスターとともに,わが家の玄関先に飾ってある。 |
07月25日(金) ブラマンクの夜 |
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倉多江美の短編に「ブラマンクの夜」という作品がある。 町中を夜な夜な歩きまわる,おそよ共通点がない人びとのようすを淡々と描いたものだったと記憶している。NHKの新人ディレクターがドラマ化しそうなテーマとストーリーだったが,80年代なかばに発表され,同時期の他の作品と同じく,その後,日の目を見ずに置かれているものだ。 そのなかで,主人公の男の子が繰り返し呟くモノローグは「生温いオレンジエードなんて,まっぴらだね」。 私は,いたく気に入って,「生温いオレンジエードより不味いものを飲んだのは,はじめてだ」というように使いまわしていた。 同じ頃,エンドレスで聞いたThe Smithsの“This Charming Man”とともに,夏の夜の気怠さを思い出す。明け方までの時間を,本一冊を読み切ることだけに使えたのだ。 ある夜,読みかけの『ローズウォーターさん,あなたに神のお恵みを』を終え,『菊の雨』を捲った。やけに暑い夏だった。 私にとっての「ブラマンクの夜」だ。 と,終われば,それはそれ。 ただし,もうひとつ,単純な理由で,記憶が「ピンクの電話」と繋がってしまうのだ。彼女たちのネタに(どんな話だったかは,すっかり忘れた),アジア人なまりで「カワイイ オトコノコ チャン ネ」という台詞がある。初めて見たときは吹き出したが,「カワイイ オトコノコってThis Charming Manか」と気づき,以来,どうもキンキン声が聞こえてくるような気がしてならない。 |
07月26日(土) 秋刀魚の味 |
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精神科の病棟でアルバイトをしていたころのことだ。教授の伝手で,その病院でアルバイトをする学生のほとんどは同じゼミ出身。もちろん,医学部でもなければ看護学科でもない。文系なのに,妙に関係が深かった。 週に夕方5時から0時までと,0時から9時半までを各1で月6万円。年末年始は割り増しがついたし,ボーナスも出た。それに見合うだけのシビアな場所ではあったのだが。 今にして思えば,傲慢だった。当時の私は,遅れてきた反精神医学指向,「ドグラ・マグラ」の解放治療をどこかで間に受けていたので,人は理解できるものだという「態度」で接していた。他所からみれば「いけすかない奴」と指差されてもしかたない。 「態度」が取り繕えなくなる2年半だったと言い換えられる。 森田童子が心底好きな患者さんに,カセットテープを渡され,感想を尋ねられ,解釈を受ける。彼の状態は落ち着き,近くにアパートを借りて,通院しながら社会復帰をはかるようになった。 「今度,帰りに家で飯食っていきませんか? レコードで聞くと,また違うんですよ」 適当な用事をつくっては,彼の誘いを後送りした。 ある日,準夜勤に入ろうかという時間に,階段を上がり彼がカウンターにやってきた。 「今夜,仕事終わるころ,自転車置き場で待ってますから,家で夕飯食べてくださいよ」 その日は,なぜか断ることもせず,頷いた。 0時過ぎ。病院の自転車置き場に彼の姿があった。 近くのアパートまで先導され,彼の部屋に上がり込む。 「さっきまで,夕飯つくってたんです。秋刀魚と味噌汁,旨くできたんだ」 私たちは,彼がつくった夕飯を一緒に食べながら,音楽の話をした。秋刀魚は少し火の通りが甘かった。 1時を過ぎ,そろそろ帰ろうかというころ,胃の調子がおかしくなった。トイレを借りた。胃がひっくり返った。自分でも驚いた。体調はいたって良好だったのだ。 彼は,そのことを気づかず,機嫌良く別れた。 10年近く後,竹内敏晴氏のレッスンに参加した。(初日,「レッスンを受けずに,その場にいたのは私が初めてだ」といわれたが,2日目午後には結局参加させられてた) 話が障害児学級の教師に及んだ。誰からも,熱心で,分け隔てない態度で接すると評判の教師の実践を参加観察したときのこと。子どもをギュッと抱きしめる彼女の指先が,反り返っていたことが気になったそうだ。 終わってから,話を聞くと,実は仕事が辛かったのだという。 彼女はさておき,身体が私の偽善的な態度にNOを叫んだ結果だと感じた。 以後,人との関係づくりはやっかいになった。が,以前に比べれば,数段楽なのも事実だ。 |
07月27日(日) ランチ |
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学生時代,昼飯だけを食べに行く喫茶店の定食は300円だった。選択肢は焼き肉定食と若鶏の生姜焼きのみ。 肉は未だに苦手だが,値段の安さに釣られて,友人たちと週3日は通った。若鶏のササミだけを食べていた。 若鶏の正体は,どうにも怪しいのだが。 さて,決して旨くはない定食を待つ間,長椅子に座る私たちの身体は,だんだん平たくなっていく。時に,終電のヨッパライそのままに,床に滑り落ちそうなくらいに。 「この定食,350円になったら絶対来ないな」 脂身だらけの焼き肉定食を目の前に友人は断言する。 「330円でも微妙だぜ」 逆オークションのように,値段が下がる。 「脂身がこれ以上多くなったら,どこ食えばいいんだよ。限界じゃないか。どこで,こんな肉調達してくるんだろう」 中年の不良ウエイトレスは,私たちの会話を後目に,箸を置くやいなやどんどん片付けに入る。 「まったく,不良ウエイトレスってのは,不良バーテンよりタチが悪いな」 「ランチっていや,リディア・ランチのビデオがレンタル屋に置いてあったぞ。クレーン車と火炎放射器が活躍しまくるやつだ」 「SPKじゃないのか」 「ノイズバンドのプロモーションビデオだとは思ったけど……」 結局,350円になってまで,私たちは,この喫茶店に通った。 思い返すと,昼以外に入った記憶はない。 |
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