2003年8月
08月10日(日) リスタート |
||
台風一過。 週末はMacの初期化作業にほとんどの時間を費やした。 あとはMailのカスタマイズだけだが,なんとも面倒くさい。結局,手つかずで,データの復旧だけすすめた。 カフェスタ以来,日記(過去の)をつけていなかったが,ここに続けることにしよう。 |
08月11日(月) 謎 |
||
光文社文庫版「江戸川乱歩全集」を立ち読み。 第一回配本は『孤島の鬼』と『大暗室』の2冊。発表年順にまとめる趣旨だそうで,『孤島の鬼』は『猟奇の果て』と合わせて一冊になっていた。 ところで,創元推理文庫版『孤島の鬼』の解説がずっと前から気になっていた。中井英夫が書いたものだ。 中井英夫は,小説の舞台となる島の挿絵(竹中英太郎)が印象に残っていて,今でも目に浮かぶ。なのに,その版に掲載された挿絵はペン画でスケッチのようなもので,おおよそ中井英夫の記憶にあるものと違うというのである。 「(竹中英太郎による)前年の『陰獣』とか後年の横溝正史『鬼火』とかの絶妙な,妖気に充ちた画風ととすり替え,勝手にそれと同じような作品とばかり思い込んでいたのだ」 ![]() 掲載されている挿絵は,他と明らかにタッチが異なる。はじめて見たときから違和感があった。 今回の版に,同じく舞台を描いた別の挿絵が挿入されている。クレジットは「竹中英太郎」だ。これが,まさに中井英夫の記憶にあった挿絵にちがいない。 ところが,この挿絵は創元推理文庫版の解説に,ていねいに平凡社版全集に1葉だけ付された挿絵で,作者不詳とクレジットされていたものだ。見れば竹中英太郎の画だと判りそうなものを,なぜ創元推理文庫編集者は,作者不詳としたのだろう。 ![]() 創元推理文庫を読んだときの疑問は(光文社文庫版のクレジットが竹中英太郎となっていることで)解けたのだが,では,いったい,あの挿絵(創元推理文庫版の)は誰が描き,どいう経緯で掲載されたのか。そして,中井英夫は,その事実を知らないまま,この世から旅立ったのか。 新たな疑問が生まれた。やっかいだ。 |
08月12日(火) 真夜中の訪問者 |
||
FMラジオを鳴らしながら,何となく眠る気にもなれず,3時をまわってしまった。こんなふうに夏休みは一日ずつ捲られていくのだ。 電気を消しても月の明かりに目が冴える。月の光に日焼け(というのだろうか)するサーカスの綱渡りを思い浮かべてしまう。 足音が近付いてくる。そしてひと呼吸。ノックの音だ。 「おーい。起きてるか」 喬史の声だった。 「な,なんだよ。こんな時間に」 「麻雀で摺っちゃって,家までかえれねえんだ。泊めてくれ」 カギをかけていないドアを開け,台所に佇む。 「起きてると思ったんだよ。ここまで来てあいてなかったら,意地でも泊まらねぇとな」 「いつかみたいにかよ」 私の留守に上がり込み,飲み食い歌って出ていったこ奴の姿を思い出した。 「とぉっくってな。おまえんち。朝,1限授業だから,一緒に行こうや」 そういうと,机のわきにごろんと横になった。 数時間後。 自称「低血圧」のため寝起きが悪い喬史を起こす。 水道水で顔をひと撫ですると気分が変わったのか「金借りしてくれねぇ?」 「家に帰るんだったら仕方ないな」 喬史は,学校へ寄らず,そのまま駅に向かった。 その日の午後,いつもの喫茶店で食事をとっていると喬史の姿がみえた。 「悪い! ほんと申し訳ない」 開口一番,平謝りだ。 「あのあと,金借りた身で,雀荘いっちゃってさ。折角借りたのに,ホント申し訳ない」 確かに,反省なら猿にもできる。ただ,猿にもできるのだから,一度くらいしてみてもいいのではないか。 |
08月13日(水) local color |
||
その頃,ある漫画雑誌に掲載されていた三岸せいことブライアン・イーノをつなげる「投書」に触発されて,トルーマン・カポーティを読みはじめたように思う。 はじめて読んだのは『遠い声 遠い部屋』だ。それは本当に奇妙な読書体験だった。 以前に書いたかもしれないが,『キルトに綴る愛』のサウンドトラックアルバムに出会うまえに,すでにこの小説を通して,あの音が響く場所に私はいた。(ときどき,その場所がケアンズや南太平洋の島々ではなかったかと不安になることはあっても。)そしてまた,この小説によって『アッシャー家の崩壊』がアメリカ人の物語であることを,強く意識させられた。 なんと幸せな読書体験だっただろう。 三岸せいこの漫画は手もとになく(実家に行けば,とうとう単行本化されなかった作品まで残っているはずだが),イーノはときどき聞く。 買ったとばかり思っていた『叶えられた祈り』は,結局,買わなかったのだ。わけあって,カポーティの本をぺらぺらと捲っていて,そのことを思い出した。断片が掲載された『エスクヮイア』は買って読んだはずなのに。 『犬は吠える1』を読みなおす。 『カポーティとの対話』のなかで,ジョディ・フォスターに言及したくだりが久しぶりに蘇ってきた。 |
08月14日(木) 急ぐ |
||
ヴェネチアからミラノへと帰る車中,20代,70代の女性2人と同室になった。 それは,行きの電車でのことだ。 隣の女性客がトイレに席をたった隙に,それまで神妙な顔をして車窓を眺めていた神父が,やおら彼女が読んでいた雑誌を取り上げると,興味ある記事でも載っているのか,真剣な顔つきで読みふける。その間1分ほど。すばやく元あった場所に置くと,また神妙な顔つきにもどる。 そこに女性客がもどる。一瞬,怪訝な顔つきで神父をにらむが,そ奴は相手にしない。 車中で眠ろうものなら,なにされるか知れたのもじゃない。それだけが刷り込まれた。世事に疎かった自分を情けなく思う。 だからそのとき,2人と会話することになろうとは夢にも思っていなかった。 イタリアに来て以来,本当に読むものがなく見るものがなかった。ミラノの本屋で『仕立て屋の恋』の英語吹き替え版ビデオを買ってしまうほど,何もなかったのだ。 駅で英字新聞を買ったからといって,スノッブでも何でもない。それしか読も(読める)ものがないのだから仕方ない。 それさえ1時間もすれば「読める」記事は尽き,怠惰と船を漕ぎ出したころ。2人は何やら真剣な様子だ。若い女性が突然,英語で話しかけてきた。 彼女はユーゴスラビア難民の看護婦だ。ミラノで職にありついたので,アドリア海(だっけ?)を渡ってイタリアにやってきたところ。老婆はミラノに住む息子の家へ行くのだという。 老婆はいう。「みんなイタリアにくればいいのよ。海を隔てててもお隣なんだから」(たぶんこんなふうに) 看護婦は、内戦の悲惨さを訴える。 どうにも居心地が悪かった。だから私は,こんなふうに切り出してしまった。 「僕には,この戦争が内戦なのか宗教戦争なのか判らない」 途端に彼女を声を荒げ,「私たちは言葉を取り上げられたのよ!」 私は追い打ちをかけた。「ホント! なのに国連はどうしているんだろう」(まったく恥ずかしい) 彼女はあきれはてた。私は,仕草で「眠ってれば」と伝えられたことを理解した。もちろん,その通りにした。 さらにしばらく後,内戦の話は終わり,私も加わって,とりとめのない世間話だ。無事,ミラノの駅に着いた。2人はそれぞれなりに忙しく,簡単な挨拶を交わすと,ホームを急ぐ。 私には,急ぐ理由が何一つ見つからなかった。 |
08月15日(金) コピーガード |
||
マン・レイのCD-ROMからジャック・リゴーのポートレイトをコピーし,HPに使用させていただこうと,手かえ品かえやってみたが,やはりだめだった。 “WEEKLY WORLD NEWS”ばかりでは,あまりに品がないとは思うものの,代わりが見つからない。ついつい笑いに走ってしまう。 キング・クリムゾンのコピーバンドとして,その名を馳せたわが国のバンド「美狂乱」。確かにギターフレーズはそっくりだったが,アルバムでのドラムの音処理はフランスのバンドみたいに腑抜け,ボーカルは2流のヘビメタバンド並。(ギターがボーカルを兼ねていたから,なおさら評価が真っ二つに引き裂かれる。エイドリアン・ブリューってとこか。) 時同じく、本家Discipline King Crimsonが登場するなか,このバンドは若人あきらを真似て,失踪,記憶喪失し,New Orderとはならず,昔の音源を切り売りしながら身を潜めていた。 よくも悪くも,わが国でのクリムゾン解釈の典型だったという印象しか残っていない。(意外と評価高いそうだが。) 同じ頃,イボイボ(YBO2)でベースとボーカル(こっちはジョン・ウェットンだな)を担当していた北村昌士は,80年代の終わりとともに撃沈。その後,こっそりと出した(ように感じた)バンド,Canis Lupusのアルバム“Aqua Perspective”〔WECHSELBALG WCD-11〕は,クリムゾンのコピーとしては出色。北村昌士の場合,ベーシストというよりもボーカリストとしての評価が過小ではないかと思う。(というよりは,この人,ベーシストとしてはまったく面白みない。) いまだに愛聴盤だ。 1.Untitled 2.Final Speak 3.Bolero 4.天使 5.The Quest 6.Opus23 グリーグの主題による変奏 7.Aqua Perspective |
08月17日(日) 広告 |
||
「犬は吠える」を少しずつ読む。 以下はメモ 1. 矢作俊彦は自作の『神様のピンチヒッター』を映画化(ビデオ化)するにあたり,画面に映ってしまう屋外広告ひとつひとつを覆い,画面のトーンを統一した,と読んだ記憶がある。 2. 地方の空港に降り立つと(福岡!),とにかく屋外広告が氾濫するさまに驚く。アジアの都市に共通する色の氾濫だ。 3. 50年前のニューヨークには清涼飲料水の屋外広告だらけだったという。 50年後,東京の屋外広告はサラ金ばかりだ。 清涼飲料水の宣伝戦略は,ポップアートに捕まえられるくらいの(善し悪しはさておき)インパクトがあったのだろう。生活の風景に入り込んだだろうか。人の欲望を刺激する何かがあった(何かしかなかった?)のだろうか。 とするならば,サラ金の広告戦略は,何かしらの欲望を刺激するだろうか。 4. 風景とアートがつながるとしたら,都市自体の匂いが先立つ。 5. 屋外広告は煙草とサラ金ばかりだったことに最近,気付いた。煙草の屋外広告が空いた空虚を埋めるものは見当たらない。 |
08月18日(月) ライブハウス |
||
吉祥寺・曼陀羅にてライブを見た。 今も耳の奥がキンキンしている。 オールスタンディングどころか,椅子とテーブルがステージを囲む。曼陀羅クラスで,立錐の余地もないほどの観客を集めるバンドはいないのだろうか。はたまた,私たちが見にいくバンドに人が集まらないのか。 演奏中,椅子に腰掛けてステージを見遣る自分の姿が情けなかった。下手したら腕組みでもしてしまいそうな態度になってしまう。音の空気は全然そんな生易しいものではないのに。 あるのは,余裕ではない。 そこに立ち尽くしてしまうような時間を失ってしまった私の姿だ。 |
08月20日(水) 観ないで評す |
||
片岡義男のエッセイ集に『5Bの鉛筆で書いた』(角川文庫)がある。 いまだ,1作も小説は読んだことがないものの,ある時期,エッセイ集を買い漁った。もう絶版だろうが,ブックオフあたりの100円棚をこまめにまわれば,見つけるのはむずかしくない。 「トリビアのペーパーバックのおかげで,へえ,そうだったのか,と言うのがぼくの口ぐせになろうとしている」というタイトルの一文が書かれたのは,四半世紀前になるのだろうか。本書に収載されたエッセイは,創刊号当時の「POPEYE」連載ものだという。 ここで紹介されているのは『ハリウッド・トリビア』というペーパーバック。「ロバート・レッドフォードが主演して当たりをとった『スティング』『追憶』『グレート・ギャッピー』は,どれもみな,まずはじめにウォーレン・ビティのところに持ち込まれ,彼が断ったものである」というように。 最近,この手のテレビ番組の評判がよろしいようなので,ふと思い出した。 要は見せかたなのだろうか。なんだか……。 |
08月21日(木) ダブルスーツ |
||
待ち合わせ場所にやってきた伸浩の姿を見て,私は絶句した。 彼が3年間勤めた会社を退職して半年ほどになる。私たちの誰も,その理由を聞かなかった。第一,退職する理由を聞いて何になるだろう。 聞かなかったはいいが,月~金で仕事をしている身には,彼の生活パターンについていくのは大変むずかしい。いや,ついていくことはない。強引に割り込んでくるのが常だった。 月曜日の夜10時,突然「これから行く」との電話だ。有無をいわさずにやってくる。1時,2時くらいまで,だらだらと過ごし,時には車で近所をぶらつく。休日ともなれば,友人のひとりひとりを拾いながら,いつの間にか中央高速に乗り,大町あたりまで飛ばす。 野郎ばかりのドライブなのに,伸浩の好みは,なぜかアベックが立ち寄りそうな場所ばかりだ。何度,情けない思いをしたことだろう。 高山まで泊まりで出かけたときは,私たち以外の客すべてがアベックだった。詛われていたとしかいいようがない。 暇を持て余し,夜になると家の近くをジョギングし,庭で縄跳びをして汗を流していると聞いた。親とは同居していたはずだ。そんな息子の姿が,どう映ったか,考えるに忍びない。 だから,「海浜水族公園へ行こうぜ」と呼ばれたときも,慌てなかった。 ――また,アベックが行きそうなところだ。が,しかし。 プータローになって,はや半年。休日の真っ昼間の公園へ,この男はダブルのスーツを纏ってやってきたのだ。待ち合わせの相手は私だ。 「どこでもいいから,はやく職につかせなければ」 正直,そう思った。 だが,何がどう転ぶか判ったものではない。 彼のために,帰りに家に近くで買った転職情報誌は,結局,彼の転職には役に立たなかった。転職先を見つけたのは私だ。 |
08月22日(金) 本を手に入れる欲望 |
||
鞄には読みかけの本が入っている。なのに,これから東京に帰るまでの3時間,車中で読む本を駅の本屋で探す。ときどき,いや,しばしばそんなことがある。 もちろん,さらに多くの場合,ほとんどページを捲らずに眠ってしまうのだが。 さて,ここに生まれる欲望は「本が読みたい」なのか「本を手に入れたい」なのか。たまに考える。 「昔の万引きは,読みたい本が買えないという理由だった」などの言説が巷で聞かれるたびに首を傾げる。 「読みたい本」が「買えない」から「万引きする」。ゲシュタルト崩壊しているじゃないか。まず,本を読むことと買うことはイコールでない。買えないから万引きするでは,方法だけが一人歩きしている。 百歩譲って「本を手に入れたいけど,買えないから万引きする」なら話はまだ通じる。ただし,そんなふうにして本を万引きした蔵書家がどれほどいるというのだろう。 かつての比較文化人類学のように,ティピカルなキャラクターをつくりあげ,その実,そんな人間は実際にいはしなかった,と同じような誤謬をおかしてるのではないか。 最近の書店は売り場面積が広すぎる。それが,どこか許せない。 |
08月24日(日) 3ムスタファス3 |
||
野口体操が脚光を浴び文庫本で紹介され,アレクサンダー・テクニックの本が平積みされたりしている光景を見ると,80年代初頭を思い出す。雑誌にしては,ばか高い『遊』だったので,新刊は立ち読みし,古本屋でBNを手に入れた。稲垣足穂を経由して松岡正剛を知った。(それぞれの間隙は飛ばしてしまおう。) ロバート・フリップにどっぷり嵌っていたころ,バウスシアターでグルジェフの『注目すべき人々との出会い』が再映された。私は昌己と2人で観にいった。フリップはベネット経由でグルジェフにつながるのだ。とはいえ,今思うと,グルジェフではなく,ビート・ジェネレーションを当たっていったほうが,当時のフリップの音楽には近付けたのだが。 監督はピーター・ブルック(だったはず)。グルジェフも「ムーブメント」と呼ばれる体操(というより踊りみたいなもの)を考案,ミュージシャンでは,キース・ジャレットやケイト・ブッシュがステージでその一部を披露していたように思う。 映画のなかで,やたら美しい踊りが一糸乱れぬ様子で登場する。 数年後,3ムスタファス3のアルバムをミラノの弟に送った。なぜか,寄こした電話のコメントが忘れられない。曰く, 「神秘的だな。アラブの女性がクルクル回転しながら踊ってるみたい」 まったく的確なコメントだった。音楽を聞いて「神秘的」と形容する感覚が悪くない。いや,3ムスタファス3を聞いた弟以外,「音楽を聞いて神秘的だ」などという人間で出会った経験は,未だない。 |
08月26日(火) HPばかり |
||
サイトに曲のデータをアップしたり,「カフェスタ日記」に手を入れたりばかりで,日記が続かない。 かつ,会社のウインドウズマシンで昼休みにHPの作業していると,張った画像がバカでかくて(MacのIE,NS,Safariでは,そんなふうに見えないが),最近のIEって少し昔のタグは使えないのだろうか。 それはそれで,ばかばかしくていいのだが。 明日から出張。週末に少し手を入れる予定。 |
08月29日(金) サラサーテの順番 |
||
出張中,時間があったので(意外とあるのだ)映画館に入り『英雄』を観た。地方の映画館のこと。『仮面ライダー555』他と,どちらに入ってもよかったのだが。(前号の「テレビ・ブロス」を読んだ印象が残っており,下手すれば,そちらを観ていたかもしれない) 「派手な鈴木清順」といってはいいすぎだろうか。 出張で前回観たのが『梟の城』(かなり前だ)。どこか共通する雰囲気を感じるのはなぜだろう。 帰り際,あれだけ酷評した改訳版『日はまた昇る』を買ってしまった。本文もさることながら,解説に付けられた1枚の写真をしみじみと眺めた。最近,こんなのばかりだ。 パリのアメリカ人って,この夫婦は特別なんだろうか。おおよそ他人ごとには思えないスナップショットだった。ヘミングウエイ夫妻が,日本人に見えてならなかった。 シュトラスブルグでのはハンス・アルプたちの写真ではなく,銀座を行く辻まことと竹久不二彦,武林イヴォンヌに似て。 |
08月31日(日) |
||
「本日休演」は本日,休演。 |
「日記」へもどる |