2003年12月

12月01日(月) サンシャイン  Status Weather

 Japanの“Methods of Dance”とRoxy Musicの“Same Old Scene”が似ていることに気づいたのはつい最近。昌己にいうと,「Japanのほうが先じゃないか」。なるほど。「ミッドナイト・エクスプレス」っていつごろ作られたのだろう。

 Roxy Musicというかブライアン・フェリーのカバーセンスは時にオリジナルを凌駕することがあった。このあたりを継承したのがSiouxsie and the Banseesじゃないかと思う。カバー曲だけでアルバムを作るなど,本人たちは否定するだろうが,ブライアン・フェリーの後を追っていたようにみえてくる。ただ,Bansees,本家Roxyのカバーはしていない。たとえば“The Thrill of It All”などは,ピッタリはまるだろうに,はまりすぎて,どこか躊躇らわれるのだろうか。

 ブライアン・フェリーがカバーした“You're My Sunshine”。絶望的な暗さは癖になる。癖になりはするが,これも“This Charming Man”と同じく別の記憶と重なり混乱する。

 登場するのは三木のり平だ。
 社長漫遊記シリーズだったろうか。この曲のメロディに「岩間サンシャイン 舞い降りサンシャイン」の歌詞をつけて,温泉地の夫婦岩(?)に飛び乗り,舞い降りる三木のり平。いくら比べても「岩間サンシャイン」のほうがインパクトで勝ってしまうのはしかたあるまい。


12月02日(火) 画材屋  Status Weather晴れ

 ペン先をいろいろと物色しはじめたのは,偶然,ドイツ製丸ペンを手に入れたのがきっかけだった。先の欠けたガラスペンや錆の浮いたGペンなどが,あたりまえのように並べられていた当時にあって,山道で猪に出くわしたような描き味がした。
 そのころ,おしなべて町の画材屋で手に入るペン先や筆は硬質だったのだ。今でも,頑なに描き手の力を拒絶するようなあの感触は蘇る。筆圧や,よもや握力を鍛えようなどという意図があったのではあるまいが。

 あらかじめ芯が抜かれた木炭を手にしたのも同じ頃。これも一長一短があり,描きやすさと脆さを秤にかけながら使った。
 そんなものだから,学生のころ,画材屋に週何度か出かけた。とにかく,使ってみなければはじまらない。

 最近では,画材屋に行くのは額装のときくらいだが,しばらく動きたくなくなるくらい魅力的であることに変わりない。あれこれと眺め,手に取っていると時間が過ぎていくのを忘れてしまう。
 そうしていると,否応無しに実感するのは,画材屋の店員の知識と技術のバランス具合だ。今どき,バァテンダーにさえ望むべきもない巧が息づいているように感じるのは,ひいき目に見過ぎだろうか。


12月03日(水) UK  Status Weather曇り

 自宅でジンを飲む機会はこの10年,まったくなくなったが,その前数年はGILBEYやGORDONが部屋の戸棚に何かしら残っていた。消火栓のようなルックスが好きだったTANQUERAYは,ほんの少し値がはるので手を出さず,そのかわりウィルキンソンのジンジャエールやトニックウオーターを買い求めた。(最近,酒屋でウィルキンソンのジンジャエールの「ドライ」という恐ろしいラベルを目にした。あれよりドライなんて,想像しただけで喉が痛くなる)

 これは最近かどうか知らないが,GILBEYのジン(赤・緑とも)がブレンドを変えたという。店頭のPOPで読んだ途端,紅茶の記憶が蘇ってきた。実のところ,ジンから紅茶という連想は,それほど奇異ではないのだ。

 Crabtree&EvelynやMelrose(これはスコットランドだけど,陶器に入った奴。上蓋の内側をぐるりとコルクで覆った奴)の紅茶を嬉々として飲んでいた記憶だ。泉昌之の「ゴージャスの人」みたいなものだと考えていただけば結構。甲冑や剥製はもってなかったけど大差ないな。

 1980年,矢作俊彦が「ロンドンじゃ,タクシー運転手まで関係代名詞使うんだぜ」ってなこといったお陰で,ジョン・ル・カレの3部作をありがたく思ったり読んだり,なんだか遠回りしたようにも思う。砂糖のたっぷり入ったミルクティーを飲みながらマッドネスやキンクスを聞くなんてことはしなくなった。ましてや,メーカーズ・マークを舐めながらなどということは。

 で,どこに辿り着いたか判ったもんじゃないが,UKといえば,結局,プログレバンド以外,思い浮かばなくなった。退化しているのだろうか。


12月04日(木) ピエール  Status Weather晴れ

 電気グルーヴのライブを見たのは一回きりだ。CMJKがいて耳夫がギターを弾いていた。今はなき新宿ロフト。昌己と徹,伸浩の4人で見にいったはず。
 当時からニュー・オーダーのサンプリングは格好よく,一回でファンになった。が,そのファンには辟易した。ステージ真ん前に陣取るワンゲルの格好をした一団。わがもの顔で奇声をあげては顰蹙を買う。最低だった。

 その後,トリオになった電気グルーヴを深夜の音楽番組で見た。30分ほどのスタジオライブ。はじめは,心なしか卓球のMCがうわずっていた。

 さて,ピエールというからにはピエール瀧,ではない。
 ここからは本日の日記。
 子どものクリスマス・プレゼントを探しにデパートのおもちゃ売り場を行きつ戻りつ。「リカりゃん人形がほしい」といっていたことを思い出し,バリエーションを手当たり次第チェックした。すると,リカちゃんのお父さんの人形があった。青い縁のメガネがついていたものの,さすがにこれじゃ喜ばないだろう。棚にもどそうと,ふとパッケージの裏面に目をやると,そこには父親の姓名がハッキリと,こう印刷されていた。
 香山ピエール

 おお,あなたは香山ピエールというのか。何と間抜けな響きだろう。せめて,ピエール香山にしてはいかがだろうか。まるでピエール・バルーが,マイク・オールドフィールドの古原マイクを真似たような香山ピエールなどという名を離れて。

 とりあえず,ピエールやらポールやら,パ行の名は,わが国の姓名とは相性が悪いことを実感した。


12月06日(土) 第二の故郷が多すぎる  Status Weather晴れ

 3ムスタファス3の名前が出ず,思わず「あのシュゲレリ村出身の」といったあとで,なぜか裕一の友人で,ステンカラーコートづくめのバンドのフロントマン・幹二の話になった。
 「高知の文化は関西圏なんだよな」
 「あ奴,コテコテの関西人ノリだったから,よもや高知育ちとは思わなかった」
 私と昌己は10年以上振りに口にしたシュゲレリ村と幹二の名前に爆笑した。

 とにかく顔が狭い私の知るかぎりにおいて,幹二のバンドが一番,ロックバンド然としていた。ギター2本にベースとドラムのリズム隊。あたりまえの編成を,彼のバンド以外に知らないのだからしかたない。

 幹二の醸し出す雰囲気をひとことでいうと,現代劇に出ている藤田まこと。私はやらなかったが,こ奴と麻雀卓を囲むとその感をさらに強くした,と昌己は振り返る。藤田まこと(のような男だが)が弾くジャムのレパートリー各種。スミスもやりまっせ。
 灰汁の強いキャラクターだった。

 ところで,藤田まことが東京出身なのは意外と有名な話。いつものとおり,まったく脈絡のない連想からすると,「藤田まことは東京出身」→「第二の故郷は大阪?」(勝手な思い込みだが)→第二の故郷って何だ??? ということになる。
 
 人口に膾炙した句である「第二の故郷」,何ともうさん臭いいいまわしだと思うのは私だけなのだろうか。人によっては第六くらいまで「第二の故郷」の名のもとに,さまざまなエピソードやら物品やらが登場する。山形県寒河江市出身のTVレポータの第二の故郷が,はじめて一人暮らしをした神奈川県川崎市矢向で(優しくしてくれたアパートの人たちとの楽しい思い出),日吉には「横浜の(いや,横浜市の)お母さん」と呼ばれる知人がいて,そこが「私にとっては第二の故郷」というように。
 「第二の故郷」といってしまえば,いくらでも人の物語はすすむのだろうが,故郷自体をもたない私にとっては,そりゃ猾いじゃないか,と思うのだ。
 この言葉の出自は,どこかにあるのだろうが。 


12月07日(日) さらに連想  Status Weather晴れ

 『エリック・ホッファー自伝 構想された真実』を読んでいると,これはサム・シェパードの『モーテル・クロニクルズ』ではなかっただろうかと思う瞬間が,たびたびある。
 『モーテル・クロニクルズ』のとばぐちの広さはなかなかのものであって,それをオリジナリティと呼ぶべきか躊躇われるが,多くのパラグラフが文章を読む心地よさに満ちているところに,その要因があるのだろう。
 誰が決めたものでもない,記憶をたどるに相応しい文章と文体は,誇りに満ちている。

 『エリック・ホッファー自伝』にある「希望でなく勇気」というフレーズにヒントを得て。


12月08日(月) 料理の点と線  Status Weather晴れ

 GHQとG2の抗争やら死後轢断やら,杉作J太郎(獣太郎)の漫画に登場する松本清六(だったか?)の話とは全く関係ない。

 「たまごにベンリ」だとか「クック・ドゥ」などに助けられて始まった自炊生活,律儀に調理した数か月。幾多の例にもれず,伊丹十三のエッセイに感化され,プレーンオムレツ,バターを絡めただけのスパゲッティ,ポトフへと手を伸ばす。
 結局,外食したほうがコスト・パフォーマンスに優れることへ気づくまで,それほどの時間はかからなかった。

 見聞する料理は面白そうなのに,自ら取り組むと心が踊らないのはなぜだろう。答えを見出すことなく,結婚してからは後片付けに専念することになる。

 義理の父が東京湾で釣ってきた(引っ掛けてきた)スミイカをもってやってきたときのこと。
 「このあたりの魚屋には置いてないから」
 そういいながら1パイをまな板におく。デパ地下の客寄せマグロの解体ショーに遥か及ばないが,義父は私の手足をとらず,言葉だけで,スミイカの捌きかたを身につけさせたいのだ。ところで,マグロの解体ショー,解体とショーって,かない強引なつなげかただな。

 義父から,梅宮辰夫よろしく持参した包丁を手渡されると,なんだか自分が羽賀研二にでもなったようで情けなくなってくる。
 中心に包丁を入れ外側の皮を剥く。まな板と包丁,そこに私の10本の指と掌を交えた数十分間の格闘が始まった。
 義父に言われるまま,皮を剥き包丁を入れ,放るものと残すものを選り分け,腑やスミが入った袋などを潰さない手加減をつかむ。なるほどと唸っている間に,目の前には切り刻まれたスミイカ1パイ。
 おおよそ原型を留めてはいない物体を前に,「ここが嘴でうんぬん」「剥いだ外側の皮の縁は食べられるから,このあたりから包丁を入れ」と,解剖学と料理のコツが合体したようなレクチャーに感心してしまった。
 最後にキッチンペーパーを取り出すと,丁寧に内側の皮の剥きかたを実演してくれた。

 正直,これまでゲソとは,イカの足のことだと思っていたが,こうやって捌いていくと,足以外のところがかなり入っていたのだ。ああ,「無知蒙昧は権利の放棄」とはP-MODELの「ダイジョブ」のワンフレーズ。

 つまりは,四面体の前に,点と線を身に付けなかったから,面白くなかったのだ。と自分で記していて,ニュー・ウェイヴ・ファンには耳が痛い。
 それで通してきたのだから。


12月09日(火) とりあえず,明日  Status Weather曇り

 「勝てる戦争をするには,机上で書類として片づけなければならない条件が無数にある。戦争の八割は実はそこにある,と言っても過言ではあるまい。極端な話,戦争とは,机上の計画に沿って軍を移動させ,駐留させることであって,個々の戦闘はその際に生じる摩擦にすぎない,ということだってできるのだ。気の毒な召集兵は移動の間にどんどんすり減り,気の毒な下級指揮官には精神主義以外頼るものがない,というのは現場の現実ではあろう。上ではそれは歩留まりの問題として計算される。時々,右翼ポピュリストは,日清戦争だって日露戦争だって勝つか負けるか判らなかった,だから太平洋戦争だって,やってみなければ判らなかったのだ,などと言うが,摩擦の度合いも歩留まりも費用対効果も計算せずに計画されたとしたら,その戦争は,最初から負けているのである」佐藤亜紀:戦争について(『でも私は幽霊が怖い』p.245-246,四谷ラウンド,1999.)

 これに続けようと考えていた引用文を,小1時間探したのに見当たらない。
 とりあえず,明日。 


12月10日(水) 探し物  Status Weather晴れ

 「人権意識とかそういうもの,年々歳々レベルが上がっているんですよ。ファミコンのロールプレイング・ゲームと同じで,経験値がちゃんと上がっているんですよ,絶対。昔は十何万人殺したって,よろこんでカメラ前で踊っちゃうんでしょう。それがベトナム戦争になると民間人数百人殺されたソンミ村虐殺事件で騒ぎになった。この間の湾岸戦争では,ミルク工場で数十人殺しただけで世論が怖くてアメリカ大統領が青ざめちゃったじゃないですか。そういう意味では人権意識は確実に上がっている。数量ではかること自体ナンセンスなどと,口では言いつつも,数量で推し量る限りはね」前衛が元気になるために-赤瀬川原平:聞き手・矢作俊彦(野性時代9月号,1995.)

 なお,引用した発言は矢作氏による。

 あるいは別の場所で同様の発言のあと。
 「人権意識とか,軍隊が一般市民を殺す怖さが行き渡ったからだろうね。だから,反戦運動とか学生運動が決して無意味ではなかった。少しは人類の役に立った。CNNを見てて妙に感心したんだ。あんなアメリカなんていうどうしようもない国が,一応学習するわけだよ。1940年代や’50年代の,要するにキャディラックが一番デカかったころのアメリカって,いまの日本くらいひどかったんじゃないだろうか」THE LEADER T.YAHAGI:聞き手・生井英孝(ドリブ?? 1992??)

 さて,学習したはいいものの。

 この,小説家2人が別々の場所で発言したフレーズをつなげてしまうことがある。


12月12日(金) フラッシュバック  Status Weather雨のち曇り

 きもさべ社中。
 職安通りにて。


12月13日(土) ピリカラ再び  Status Weather晴れ

 幽霊部員であった英一郎だが,ときどき気が向いたときにやってきた。放課後の美術室で,水彩画のように油絵を描きながら,突然,一節唸る。
 「緑の なかを 駆け抜けていく 真っ赤なホワイトポルシェ」

  真っ赤なホワイトポルシェ

 受け狙いのフレーズが,この年になるまで記憶に残っている。今,たとえるなら,それは「ピリカラ・フレンチ」みたいなものだろうか。

 ピリカラ・フレンチ

 食べたことはないが,なんとも嘘っぽい響きだ。いや,味も響きもなにも,そんな売り文句,あるはずないだろうに。
 ピリカラ・フレンチ界の巨匠なんてのがいたとしても,女子プロ界の聖子ちゃん(たとえが,かたっぱしから古いが)のように,選択肢がほとんどない,狭い世間を露にするだけだろうし。


12月14日(日) ブーム  Status Weather晴れ

 このところのモンティーニュ流行りってのは,少し前に起きたエリック・ホッファー流行りの余波と考えてまちがいないのだろうか。


12月15日(月) 奢る  Status Weather晴れ

 学生のときならば,移動する時間や場所に友人たちと共通性があるのは当然のこと。それが,仕事をするようになってからも数年の間は,都下・都内を問わず,出没するテリトリーが友人たちと重なることなど珍しくなかった。あまりにもテリトリーが狭すぎたのだろう。

 とはいえ,2日続けて徹と高円寺文庫センターで出くわしたときは,さすがに気まずかった。お互いまったく共通性のない仕事をし,住む場所も遥か離れている。2日目に飯を食いながら,同じように「これはまずい」と感じたにちがいない。それ以後,徹と偶然に出会うことは一度しかなかった。

 学生時代,喬史とは平日の朝一番とか午後3時とか,中途半端な時間によく出くわした。そのたびに,豪華すぎる朝食や中途半端な時間の昼食につき合うことしばしばだ。「ブートレッグの音が悪い」という理由で返品につき合わされたのも(クレーマーだな,これは。)駅前で偶然に会ったときだった。

 さらにしばしば,食事を奢ることになった。喬史に,他意はないのだ。時間はさておき,食事をしようとぶらついていたときに友人と出くわしたので「飯食うか?」。ただ,そういうときに限って,「昨日の夕飯はタバコ3本」とか「キャベツと白米1升」(80年代の話なのだが)なんていう懐具合。聞いてしまうと「会計,一緒に」の一言が躊躇われなくなるのはしかたない。
 「わりぃ! 出世払いってことで」
 いきなり,いつのことになるとも知れない「出世」の話が飛び出したものだが,立場が変わることもあったのだから,たとえ7対3でも,それはもちつもたれつだろう。

 所帯をもった喬史の家に友人こぞって出かけたときのことだ。雀卓を囲んだときから,喬史の様子がおかしいことには皆,気づいていた。麻雀のとき,あれほど厳しかった喬司の口調が妙に穏やかなのだ。「おぉ,いい手だな」なんて言われれば,何か裏があるのではと警戒した。
 いい時間になったので帰ろうとすると,「旨い店があるから飯食っていけよ」。
 喬史がみそラーメンを注文するところを見たのはホント久しぶりだった。

 馬鹿話をしながら食事を終えると,誰ともなく「ひとり,いくらになる?」。その瞬間,所帯をもった喬史の変化をわれわれは目の当たりにすることになる。
 「それじゃ,奢ったことにならないじゃねぇか」

 帰りの車中,われわれは「奢ったことにならないじゃねぇか」を連発した。なんと素敵な響きであったことだろう。


12月16日(火) 瀬木口くん  Status Weather晴れ

 「ホント許せねえよな」
 これは喬史の口癖だ。彼には「許せない」ことが多かった。その対象は時に「保健室のババア」であったり「教務のオヤジ」であったり,ほとんどは自ら期限を守らずに蒔いた種を契機にした諍いのなかで吐かれた。

 入学早々,徹と喬史は,「昼飯を食わせてやる」という先輩の誘いにつられてハングライダー部に入った。経験に学ぶことが少ない徹は,同じ「昼飯食わせてやる」という文句に再び捕まり,今度は私を道連れにその先輩が入っていた文芸部に顔を出した。
 部室にいた瀬木口くんの第一印象は「ドラマに出てくる商社マンのようだ」,よもや同学年だとは予想だにしなかった。入学時点で20代を折り返していたのだから,あながちピントハズレではない。

 医学部受験に失敗すること幾度,いつの間にか妹のほうが先に大学を卒業してしまった。医学部をあきらめ,入った先がわれわれがいた大学だと聞いたのはしばらく後のことだ。
 ジャージ姿が闊歩する特異な学内光景のなか,いつもジャケットにネクタイを結んだ瀬木口くんの姿はやけに目立った。

 6月のある日,講義をふけようと教室から抜け出したわれわれは,校門近くで瀬木口くんに出くわした。
 「聞いてくださいよ。非道いんですよ」
 われわれは顔を見合わせた。

 すでに彼の評判は仲間うちに知れており,すれ違いに目配せするくらいの仲だった。突然,そう切り出されるのも不自然ではない。
 瀬木口くんの話は,こうだ。

 ある教室で講義の間中,瀬木口くんの後ろから,ささやくような奇声が聞こえたのがはじまりだった。
 アチョー!!!!
 振り返ると,後ろには見覚えのない数人がいた。
 それからは別の教室でも,同じ顔ぶれが授業中,時にはすれ違いさまに「アチョー!!!!」を連呼した。瀬木口くんはブルース・リーの大ファンだったので,そ奴らもファンなのかと勘違いしたらしい。

 「でも,違うんですよ。非道いでしょう。単に人のことからかってたんですよ」
 「何だよ,そ奴ら」
 喬史が声を荒げる。「アチョーだって。何だよ,それさぁ。まったく,幼稚にも程があるぜ」
 「一対一だったら,僕だってやりますよ。でも,あ奴ら寄ってたかって馬鹿にしやがって。悔しくって」
 「ブラバン仲間で,楽器吹きながら取り囲んじゃおうか」
 そう続けたのは和之だ。滑稽な提案ではあったが,そ奴らのあまりの馬鹿げた行為を聞いた以上は,助っ人を買って出ることさえ厭わない。

 結局,暴力沙汰にはならず,おさまるところにおさまったが,喬史の気持は,それくらいでおさまったわけではなかった。
 「まったく許せねぇや」
 しばらくのあいだ,瀬木口くんの顔を見るたびに,そう吐き捨てた。


12月17日(水) 肝臓  Status Weather晴れ

 某月某日 私鉄の車中にて

鑑三氏 「肝臓の調子が悪くてさぁ」
甘木氏 「医者行ったのか?」
鑑三氏 「いろいろ注意されてきたよ」
甘木氏 「酒は止められたろ?」
鑑三氏 「酒はいいんだ」
甘木氏 「えっ?」
鑑三氏 「消毒して,悪いもの流してくれるんだ」
甘木氏 「……そうかぁ」
鑑三氏 「一番悪いのが,長期出張だって」
甘木氏 「なるほど」
鑑三氏 「食生活が偏るからな」
甘木氏 「短期出張だったらいいのか。単身赴任は,もっとよくなさそうだな」
鑑三氏 「転勤ならいいのにな。あと,3日以上の徹夜もよくないんだそうだ」
甘木氏 「それ,健康であっても身体によくないよ」
鑑三氏 「そうだよな」


12月18日(木) 目覚め  Status Weather晴れ

 CDアルバムをかけながら(またはラジオを付けながら)うとうとすると,オーラスの曲の最後になってタイミングよく,ハッと目を覚ますことがある。まったく聞いていた感覚は残っていないのに,律儀というか貧乏症といえばいいのか。
 したこともないタイムスリップの手応えを想像する。

 同じく,空を飛んだことはないのに,その感覚がはじめて自転車に乗った時のようなものではないかと想像する。


12月19日(金) 12月8日  Status Weather晴れ

 1981年12月9日,渋谷公会堂。再結成されたキング・クリムゾンの初来日。早々にソールドアウトになった浅草国際劇場でのコンサートより前に設定されたため,結果的に初来日初日を観る事が出来た。
 アナログとディジタルの間にあった1981・1982年の音楽シーン。ドラムの音,特にビル・ブラッフォード独特の,張りつめた皮から抜けるようなスネアの音は,この時がもっとも強烈だった。

 その日,公園通りを上っていく前に,輸入レコード店に立寄り,出たばかりのクリムゾンのブートレッグを手に入れた。そのLPのセッティングリストから「レッド」と「太陽と戦慄パート2」が演奏されるであろうことも知った。
 どこにあったか定かではないそのレコード店の名は“KINNY”(スペル違ったかな。)という。白地の厚手なビニールでできたレコード袋の感触を覚えている。

 その日のレコード店は,どこへ行ってもジョン・レノンの曲ばかり。いやでも前年の事件を思い出すというものだ。ただ,私にとって,その日はジョン・レノンというよりは三波紳介の命日として記憶されていた(いや,今日に至るまでそれは変わらない)ので,「減点パパ」でショーン・レノン(ジュリアン・レノンでもいいけど)の言葉をたよりに似顔絵を描く三波紳介の姿が思い浮かんでしかたなかった。


12月20日(土) 必殺技  Status Weather晴れ

 ザ・グレート・カブキの必殺技は「毒霧」。どこかで「この毒霧をかぶると死ぬ」という説明を読んだ記憶がある。なるほど,文字どおり「必殺」だ。
 「死んじゃうんだぜ。恐ろしいな」
 徹がいう。
 「けど,技じゃないな」
 そのときほど,プロレス・ファンのアンビバレンツさを感じたことはなかった。


12月21日(日) メール  Status Weather晴れ

 今年,弟からのメールの一部。

某月某日
 今夜はすごい人達が店に来ました。最初にロッド・スチュアート,次にロン・ウッド,最後にスラッシュが来て,その横のテーブルでバリー・ボンズが食事をしていました。なんか凄い豪華な感じでした。

某月某日
 今日,買い物に出かけたらテリー・ギリアムを見かけました。久しぶりに嬉しく、ワクワクしました。
 この頃いろんな人々を見かけます。次は、ジョン・クリース か ジョン・ライドンを見てみたいものです。

某月某日
 先日,オジー・オズボーン一家が店で食事をしている時に奥さん(シャロン)が業界関係者に殴られ,ちょっとしたニュースになりました。オジーがすしバーの前を一生懸命走っていたのがすこし笑えました。


 もちろん,こんなのばかりではないのだが,こんな内容が多いのも事実。


12月22日(月) プロフィール  Status Weather晴れ

 「今半」ったって,「うちは浅草ですから」って,日本橋とは違うってことです。あっちは妾の子で,浅草は本妻ですから。羽振りがよかったころは贔屓にしてたんですが,今じゃあ,日本橋まで出かけるなんてやってられませんよ。三越に入ってるのが浅草のほう。高島屋は日本橋です。

 伊達巻きは30日に築地までいきゃ,いいもの手に入るんですが,これだってね。ここいらへんので済ませて,贅沢いってられませんや。

 魚屋で鰤一本買ったってね,3枚までしか下ろしちゃくれません。あとは自分でするしかない。かみさんに照焼きは任せて,私は刺身のタレづくりです。煮付けにする醤油は何だってそれほど変わりません。火入れると味が飛んじゃいますから,醤油は。

 育ての母親のお陰です。親爺が遊び人で,実の母は働きづくめですね。だから,小さいとき芸者あがりの妾さんのところにやられたんです。それが一番判るのが浴衣ですね。柄の選びかたから,あれはセンスが違うんです。兄弟のなかで私だけですよ。兄弟と話してると「こりゃ,だめだ」って判っちゃうんですよ。「そんな遊び人みたいな柄やめときな」っていわれたってねえ。

 下駄や雪駄までは,あれは金持ちの道楽です。貧乏人には手が出ません。
 着物はいいものでも帯で決まるんですがね。私,何が残念って,角帯は結えないんです。見よう見まねで覚えたんですがね。

 用事があって出かけた鎌倉の病院にて。71歳の元飯場の親方の話。


12月23日(火) 経理部長  Status Weather晴れ

 10年ほど前にいた会社でのこと。

 塾教師くずれの世慣れた蘆野,一回トイレに立つと小一時間は部屋に戻らない坂本の2人と仲良くなった。
 当然のように社内で浮いていたわれわれ3人の,経理部長はどこを気に入ってくれたのだろう。ときどき飲みに誘ってくれもした。人のいい高木ブーのような(高木ブーって,かなり性格が悪いそうだ)ものごしで,そのころ定年まであとわずかだったようだ。
 「蘆野さん,今日,どうです? 一杯?」
 「またまた,部長,好きなんだからまったく」
 なんて,うそのようなやりとりがよく交わされる。私と坂本は,蘆野に付き合うような形で新大久保界隈をはしごした。皆,長っ尻でなかったので,文字どおり「一杯やっていく」という感じだ。多くは部長が勘定の6分ほどをもち,残りをわれわれが折半した。

 その年の瀬,めずらしく2件目,3件目とはしごした。どの店でも,たわいのないエロ話ばかりだ。同じく,その手の話に目がない蘆野は笑いっぱなしで息も絶え絶え。絵に描いたようなサラリーマンのアフターファイブ。最後には,われわれの社内でのポジションを危惧し,いろいろと助言をもらった。同じ部署の上司と飲んでも,よもやそんな話にはなりはしない。とにかく気持ちのよい飲み会だった。

 家に帰った私は,酔った勢いにまかせて曲をつくった。それまでも,それ以後もそんなふうにして曲を作ったことはない。タイトルは「経理部長とエッチな話」(here)。
 翌年,われわれは,その会社を続けて辞めた。

 さらにその後,人の良い経理部長は,仕事中に倒れて,そのまま亡くなられた。
 あるとき,「安かったから皆さんに」と経理部長がいくつも買い求め,いただいた爪切りは,今もわが家にある。


12月26日(金) 文体  Status Weather晴れ

 「あ奴らは何だって,世の中のスムーズな成り立ちってものに,いちいち文句をつけたがるのだろう。」

 「何が本気なもんか。これが本気なら,人生は一場の悪い冗談だ。」


 『マイク・ハマーへ伝言』に数ある名フレーズのなかで,実は雅史と英二のモノローグが,なぜかいつも思い返される。

 80年代に入ってからの倉多江美の短編作品は数が減り,また,物語のスタンスも変わってきた。同じ頃,内田美奈子の漫画を読みあさった。御厨さとみから関川夏央風なキザな物言いを取っ払ったような漫画で,その分,臭みがなかったが,今,読み返すと,下手なトレンディ・ドラマと誤解されかねない構成が気になるかもしれない。

 矢作俊彦の小説は,登場人物が,作家のナルシスティックな自家薬籠とはまったく無縁な形で描かれているのだが,なぜか反対に読まれることが多い。だから,光文社文庫版『マイク・ハマーへ伝言』への書評で(たぶん週刊宝石),高見恭子が「三人称で一人称のように物語を描くのが旨い」といったコメントを読んだとき,とても感心したのだ。

 このあたり,なぜか似ている。

 あるのは,(時に特異な)キャラクターと彼等に相応しい物語,それを描き出す文体。 
 ここ数年でまた,文体が変わったのだが,その少し前,取り組んでいた,ヌーボーロマンの翻訳のような,現在形で止める文体を続けていたならば,どんなふうな物語が紡ぎ出されていただろうかと思うことがある。


12月27日(土) セルフノーツ  Status Weather晴れ

 メインのフレーズは,昌己と2人でスタジオに入ったときに出来た。それを聞いた和之がラフに加わって一気に曲としてしまったもの。(リンク調整中)
 私のパートはラフなのではなく,そのようにしか入れなかった。二度と同じようには演奏できないスリリングというか,演奏能力を持った昌己,和之のラフな感じと,演奏能力がない私のわががまな演奏が,ひどい録音と相俟って忘れられず,どうにも捨てられないテイクだ。
 歌詞は本来,2番まであるのだが,このテイクでは声が出なくなり,1番を2回繰り返している。
 「迫力あるテイク」と自負したいものの,何せ,この歌詞とボーカルは,何度聞き直しても取るところがない。私の責任だ。
 とりあえず,メンバーのパートに文句は言わないというスタンスだけは崩さないCola-Lだったが,歌詞とボーカルについては,やはりなんとかすべきだったと思う。

 その後,このテイクを聞き直すたびに,バンドの敗因はボーカリスト不在であったことがあからさまに示されることになる。
 とりあえず,アップするにあたり,ボーカルパートは加工した。お陰で露骨な雑音が入って格好悪くなってしまった。
 「ピンチ・オペレーション」というタイトルは,もちろんチャンス・オペレーションから。社会人バンドによる「転職宣言」を意図したものの,まったくの企画倒れであった。

 和之が忙しくなったためスタジオに入れなくなり,いきおい再現できず,この後,一回も演奏していない。


12月28日(日) 砂糖  Status Weather晴れ

【そのパスタ屋のテーブルの奥に置かれていたもの】
 タバスコの瓶。
 粉チーズが入ったポット。
 紙ナプキン。
 シュガーポット。
 ガムシロップ。

 しばらくして,頼んだ品物を店員が運んできた。

【私たちのオーダー】 
 私:じゃがいもとあさりのトマトソースパスタ+サラダ+ホットコーヒー
 家内と娘:トマトソースパスタ+イタリアンサラダ+ホットミルクティ

 まず,ホットコーヒーが私の目の前に置かれた。カップの手前にシュガーポットが添えられた。ところが店員は「砂糖はあちらをお使いください」という。

 はて,最初にコーヒー??? 砂糖はあちら???

 今,私の手前に置かれたシュガーポットは何なのだろう。これは使わずに,前もってテーブルに置かれた砂糖を使えということなのだろうか。目の前のシュガーポットは飾りなのか?
 テーブルに2つ置かれたシュガーポットを前に,私たちはその真意を計りかねた。

 それよりも何もセットで頼み,まず飲み物が出てくることが,なんとも理解しがたい。
 
 挙げ句のはて,パスタを食べ終わった私たちのテーブルにやってきた店員は,そそくさと皿を引き上げると「ごゆっくりどうぞ」。
 テーブルには飲みかけのコーヒカップ2脚。ここから,「ごゆっくり」するには,少しばかりの勇気が必要だろう。


12月29日(月) セルフノーツ2  Status Weather晴れ

 そのまえに。

 家内が仕事の都合上,ノートPCを買う必要に迫られ,いろいろと雑誌を捲っているとG5についてこんなコメントを目にした。
 「(G5 2GHzデュアルの動作速度について。Photoshopのフィルタで試したところ,速度にあまり差が出ず,色の置き換えは倍以上早かったことを受けて)アップルの広報によれば,扱うファイルが大きくなれば,さらに差が体感できるらしい。うーむ,不思議な強さだぞ,G5。」

 で,セルフノーツ2。

【#1】
 11/8拍子(のはず)のリフに昌己がドラムパターンを乗せたもの。Cola-Lは演奏能力を磨く前に,暗黙の了解として,作る曲の拍子だけはとりあえず引っかかることを念頭に置いた。
 このテイクは,初めてスタジオで合わせた日に録音したもの。ここから発展させようと,再三練習したが,練習すればするほど下手になっていった。(ひとえに私のカウント間違いであったのだが)

【#2】
 スタジオに入りはじめた頃,このような勝手きままなパートばかりを嬉々として演奏していたものだ。
 まったくの素人だった私が,ミキサーのバランスを終始コントロールしていたことを思い出した。今となっても,なぜ,私が担当したのか,その理由は判らない。
 あるとき,自分のパートのボリュームがいつもあがっていたことに愕然とした。聞き直すまでもない。

【#3】
 以前,日記に記した俊介を交えた最後期の録音。ここでも録音バランスは滅茶苦茶だ。このフレーズも以後,一回として膨らませようとはしなかったもののひとつ。(リンク調整中)


12月30日(火) T3とuntitled song  Status Weather晴れ

 わが家には,今も3.5インチFDが捨てられず数十枚ある。すべてKorgT3のためだ。互換性がない自己完結形のシーケンサのデータはFDに保存する以外,どうしようもない。
 どういう構造で保存されているのかまったく想像できないが,1枚が4トラックに分かれ,1トラック20曲(1曲につき8トラック)まで保存される。
 10年ほどで,打ち込んだパターンはどれくらいの数になるだろう。ただ,圧倒的にタイトルのついていない曲が多く,記憶を辿って,FDの山からめざす曲を探す他ない。

 当初はバンドで演奏するためのデモ,もしくは足りないバンドメンバーを補うカラオケのような使い方をしていた。それまで80年代テクノに何の思い入れもなかったが,ある頃から,とりあえずピコピコさせたアレンジで曲を作りまくった。まあ,シーケンサを使うのだから,生演奏に横恋慕するようなスタンスは,どうにも潔くないように感じたのかもしれない。

 ピコピコした曲のほとんどにはタイトルがついていない。


12月31日(水) untitled2  Status Weather晴れ

「untitled2」のベースパートを録音しに,昌己が私の家へやってきたのは6,7年前のことだ。お互いの仕事が忙しく,それまでのように週末,スタジオへ入ることがなくなり,しばらくたった頃のことだ。

 曲のスケッチができるとテープを渡してはいたものの,T3で打ち込んだものばかりだったので,いきおい生音を入れづらくなっていた。いずれにしてもスタジオに入らなければ話にならない。

 とりあえず,録り貯めたスケッチひとつひとつに昌己のベース,もしくはドラムを加えて,区切りとしようかと思いめぐらせていた。
 「ベース入れてよ」
 そんなふうに連絡したのだと思う。

 昌己は厳しい親の目をくぐり抜けて,ベースを携えやってきた。
 「玄関先で母親に見つかっちゃってさ,『どこいくの!』って問いつめるもんだから『うるせぇな。どこだっていいだろ』っていったって,こっちはベース抱えてるんだから,みえみえだけどな」
 まったく厳しい環境になってきた。わが家では家内が訝しむ。

 その数日前,ふとしたはずみでホルガー・ヒラーのアルバムを聞き直した。あるはずのない原点を確認したように思い,急にできたのが「蛇を踏む」だ。

 昌己は「untitled2」のベースラインを考えていたのではないだろうか。たぶん,1回くらい弾いたかもしれない。私はといえば,「untitled2」はさておき,「蛇を踏む」にベースパートを加えてほしかった。カラオケを数回聞き,その場で録音したのが,すでにアップしている「蛇を踏む」。後にも先にもベース入りのテイクはこれひとつ。

 情けないのはこの曲だ。タイトルもつかず,ベースラインも入っていない。(リンク調整中)



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