2004年5月

05月02日(日) ゴロ  Status Weather晴れ

 「コトナ」(コドモ+オトナ=child+adult)という言葉を発見したとき,私を含めてわれわれの誰もが一度は「オトモ」「オドモ」(オトナ+コドモ)と発し,その語呂の悪さに,やはり同じく「オドモ」を押す次の言葉が出なかった。

 ただ,「コトナ」自体はまったく役にたたない言葉で(なにせ,われわれ以外,誰も知らないのだから),せいぜい,しばらくしてから「アダルトチルドレン」なる言葉が流行ったときに,「コトナくらいに翻訳できねえかな,まったく」と,悪態をつくときくらいしか利用価値はない。初手から,あまり使うことはなかったのだが。

 今はリンスinシャンプーで名の通っている商品が出始め,CMで「リンプー」なる間抜けなフレーズを耳にしたとき,「こりゃ流行んないだろうな。口に出すと情けなくなるもの」,そんなふうに感じたことを思い出す。この場合,「シャンス」という選択肢がなかったはずはない。では,はたしてどのような思惑がはたらいたのだろう。「リンプー」なぁ。

 リンプー

 リンプー

 リンプー

 これほどイメージを喚起しない言葉って,そうはないと思う。


05月05日(水) その後  Status Weather雨のち曇り

 先日,鶴見俊輔の鼎談本(この人も武谷三男の晩年みたいに書かなくなってしまった)をぺらぺらと立ち読みした。話が山上たつひこの『がきデカ』になると,嬉々とする鶴見先生の話を,小熊英二が自分のテリトリー内へと引っ張り込もうとする駆け引きが面白かった。
 が,鶴見先生は,山上たつひこの『旅立て!ひらりん』や『光る風』『喜劇新思想大系』なんて球をどんどん放り投げるのだが,小熊にはいかにも荷が勝ちすぎる。

 なんだか,ヤプーズの客演でギターを弾きまくる平沢進が,ギーギーガガガの挙げ句,スピーカーのボリューム絞られた件を思い出す。もちろん平沢はそんなことには気づきもせず,ここぞとばかりに屈折しまくったギタリスト魂を爆発させていた。見事だった。

 いくら元・岩波の編集者だからといって,山上たつひこや長谷川伸を読まずに鶴見俊輔に話を聞こうなんて虫がよすぎる。

 ところで,「最近は小説家になってまして」なんて発言からすると,鶴見先生は最後まで山上たつひこの漫画を見とどけたのだろうか。『湯の花親子』とか『鬼刃流転』とか。できるなら,そっちの話のほうが聞きたい。


05月06日(木) 太陽は夜も輝く  Status Weather晴れ

 『五月のミル』とステファン・グラッペリについて書くことを探していると,なぜかシャルロット・ゲンズブールを思い出してしまった。繰り返しになるが,人の記憶なんて何とつながっているか判りはしない。

 「ロッキン・オン」のディスクレビューにそそのかされて(いや,何度となく=何度と泣く。さすが,ことえりの変換能力には頭が下がる)シャルロット・ゲンズブールの1st LP「シャルロット・フォーエバー」を手にしたのは学生の頃だ。親父プロデュースのこのアルバムは,いや,実によかった。当時,お袋のアルバムに勝るとも劣らないインパクトがあった。もちろんドラムの音以外は。

 ビットレートのところで触れようと思っていたのは,ビットレートを下げていくと,ドラムの音が皆,(マグマをのぞく)フランスのロックみたいに聞こえること。彼の国のロックは,なぜ骨が抜かれた白身魚みたいになってしまうのか,いまだに不思議だ。

 映画でシャルロット・ゲンズブールの姿を見たのは,それから後のことだった。何がしかの期待を抱きながら,見終わると煮え切らない何作かが続いたのち,『太陽は夜も輝く』を見にいった。実のところ,コスチュームプレイなんて? と思っていたのだが,あの映画での圧倒的な存在感は忘れられない。

 で,内田百閒の「件」とトルストイの「太陽は夜も輝く」を繋げて読むというのはどうだろう。


05月07日(金) 修正  Status Weather晴れ

 厚意のおかげで,当サイトの一部を修正することができました。
 ありがとうございました。Brug43さん。

 さて。いつの日記ということにしましょうか。


05月08日(土) 甘木と何樫  Status Weather晴れ

 今日の日記です。

 先日,娘の学習机を部屋に入れるため,書棚1脚が廊下に追い出された。それでもその部屋は8対2くらいで,私の持ち物が占拠してはいる。いずれはじき出され,居間の書斎化がすすむのだろう。まるで,スズキさんじゃないか。

 今は娘の練習に使っているので,KORG T3は居間の一角に据えられているが,これは意外と弾くきっかけになる。練習につきあっていると,私のほうが熱心に弾いているときもある。初見で(しかも両手で)弾ける程度の曲なので,自分が音大生になったかのようで気分がいいのだ。

 で,本棚を整理せざるを得ず,出し入れを繰り返していたところ,10年ぶりに旺文社文庫版の「内田百閒の作品」(第1期~第3期、全39巻)を読みはじめてしまった。

 目次に添えられた「編集部註記」が,なんだかとてもよい。

 「著者の遺志により,かなづかいは原文のままとした。漢字は正字体を新字体・略字体にあらためた。ただし,人名・地名の一部と,著者が明確に使いわけていた漢字(例ー辯と辧)等は正字体のままとした。」

 くらべるのもおかしいけれど,中村武志が記した「内田百閒の作品を新漢字,新仮名づかいにするについて」(『間抜けの実在に関する文献』福武文庫,1990)は,読者として納得できなかったことを思い出した。


05月10日(月) ツーシーター  Status Weather雨のち曇り

 その頃,週末の夜,遠出するときは伸浩が車を出した。車種は忘れてしまったが,トヨタの濃紺,車高が低いのは大人が4人乗っていたためだとは思えない。

 南は高山(泊まり)から,北は仙台(日帰り)まで,西は糸魚川。そのまま日本海岸を下り,就職した友人宅を探しにぷらぷらしていると,当の本人が前の車に乗っているではないか。信号で伸浩が降り,そ奴の車のフトントをノックしたときは一同,大爆笑だった。
 大活躍だったが,難船小僧よろしくゴゴゴっとくぐもった音が始終響き,舟底に押し込められたような気分になるのは閉口した。

 そんな週末が数年続いた後,一人二人と予定が入るようになると,伸浩の車はヴェテランになってしまったかのように活躍する場を見出せなくなった。

 乗りつぶすなんて執着は初手からなかったのだろう。あるとき,奴が新車を買うと宣言した。

 「ファミリアか」
 「コルサじゃねえのか」
 他人事だから,なんとでも言える。

 で,奴が買ったのが,某ツーシーター車だった。
 「おい,今更,誰を乗せるというんだよ」
 「お前らは乗せねえからな」
 「お前と,ツーシーターなんて,誰が乗るかよ! そんなの情けねぇじゃないか」
 一同,異論はなかった。

 だから,われわれは誰一人として伸浩の新車に乗ったことがない。いや,それどころか目にしていないのだ。あれから10年は過ぎた筈だ。
 思えば,「誰が乗るかよ」は,唯一に近いくらいにわれわれが有言実行したことだ。まったく,どうでもいいようなことくらいしか,できはしない。


05月12日(水) 待ち合わせ  Status Weather晴れ

 徹と待ち合わせて,うまくいった試しはない。

 携帯電話どころか,借りた部屋に電話さえひいていなかった。後のバブルは,スタートの合図が鳴るのを,大阪で信号待ちする車のようにじりじりと進みながら待っていたころだというのに,私のまわりでは電報が活躍していたのだ。

 夏の夜,わざわざ近所の公衆電話までいって,徹と翌日の待ち合わせ場所を確認しても,そんなもの,すべて徒労だ。改札口で待ち合わせようものなら,必ずそれは2カ所にあり,判で押したように反対側で待っている。神保町で待ち合わせたときは,二の足は踏むまいと,三省堂の何階かの売り場で待ち合わせたところ,三省堂自体が休みだった。何者かに呪われているにちがいない。

 われわれの誰もが,同じような目に遇い,それなりに学習した。

 いつのころからか,レコード屋の,それもコーナー名を指定して待ち合わせるのが常となった。
 そうすると,今度は誰もが時間通りに,場所も間違えずにやってくる。結局,しばらくはそこでえさ箱を漁り,当の予定にはもちろん,待ち合わせ時間から遥か遅れている。


05月13日(木) ある同胞 その1  Status Weather曇りのち雨

 平成のはじめ,

 恋人なら貴
 結婚するなら若
           (埼玉県 52歳 主婦) 

 川柳というよりは妄想に等しいこのフレーズを新聞紙上で見てしまったとき,数年ぶりに,この国の行く末に暗澹たる思いがした。
 時は弟ブーム。長男だった私や昌己は見るもの聞くものすべてに憤りを感じていた。
 「若貴ってザ・ファンクスみたいだよな」
 「するとドリーなのか,兄はみんな?」
 「格闘技はよしにしよう。バンド,バンドだ」
 「ジャパン,キンクス,よしよし。ホッとするな」
 「CCR……」
 「そんなバンド名出すんじゃない」

 それから数年後,われわれは,ミャンマー料理屋へ向かうべく,駅のホームに降りた。と,ピジン,コクニー,,その他もろもろの英語(のような何か)を交えて携帯に向かい怒鳴り散らすOLを目にした。小柄なのにやけに迫力がある。かかわりにならないように,スッと追い越し改札を抜けた。
 その日は,結婚したばかりの元宝島少女夫妻と,元少女の姉を交えて,ミャンマー料理屋で一献を,という予定だった。改札で待っていると旦那がまずやってきた。
 「家内は,先に行ってていいそうです。お姉さんは……」
そこにさっきのOLがやってきて,もちろん旦那は「あ,お姉さん,お久しぶりです」。

 携帯では迫力満点だったが,話し始めると,なんだかしまりなく,自分で自分の話に落ちをつけて笑う。会社に東南アジア系社員が多いそうで,毎日,彼らのお弁当を携えて通勤しているらしい。
 「タムがさぁ」
 タム? 誰だ。と思う間に話は落ちに突入し,お姉さんはひとりで可笑しそうに笑う。ミャンマー料理屋までに川沿いの道を終始,そんな感じだった。
 私と昌己は圧倒されていた(毒気にあてられたという言葉は,もしかするとこんなときに使うのかもしれない)
 昌己がこっそりと「ダンドリくんのみどりちゃん姉妹みたいだな」呟いた。(つづく)



05月14日(金) ある同胞 その2  Status Weather晴れのち曇り

 ミャンマー料理屋のテーブルの上を小体なゴキブリが行き来する。元・宝島少女はそうした環境に至って弱いらしい。まあ,気にしないほうもどうかとは思うが。おまけに,お腹の調子が芳しくないらしく,お茶の葉と木の実の和え物や豆腐ラーメンあたりを細々と啜っていた。
 一方,お姉さんは体調万端,出るもの拒まず,何でも旨そうに平らげていく。相変わらず話も止まらない。

 お姉さんは仕事の傍ら,アマチュアバンドで活動するベーシストだ。その少し前,留学の名目でベースを携えて単身オーストラリアへ渡った。腰を落ち着けたのもつかの間,帰国したと思ったら,向こうで知り合った友人が彼女の実家に押し掛け,勝手にホームステイを決め込んだ。

 私と昌己は,以前,徹の家で発見したインド人のことを思い出す。ファミリアで多摩を一回りしたのち,明け方までの時間潰しに麻雀をしていたときのことだ。トイレに立った昌己が慌てて戻ってきた。
 「今,トイレの前で,でかいインド人と逢ったぞ」
 「親父が世話してるんだ。留学生だそうだけど」
 「インド人がいるんだったら,いるって前もって教えろよ」

 結局,お姉さんの友人は不法滞在がバレて強制送還されたそうだ。

 その後,「カラオケに行きましょうよ」という旦那の誘いで近所のカラオケボックスへ入った。ここではお姉さんはもちろん旦那がとにかく歌いまくる。ツェッペリンの「ブラックドッグ」を選曲するのはもちろん,歌いきった奴をはじめてみた。それもうまいのだ。Cola Lが活動を休止してしばらく過ぎていたというのに,「ロックのボーカルって,こんなふうに歌うのだ」と遅まきながら気づいた。
 その後もビージーズやら何やら,とにかくレイドバックした選曲だった。営業マンなのでカラオケは手慣れたものだったのだろう。

 昌己は最初こそスタイル・カウンシルや石原裕次郎を歌っていたが(何て選曲だ!),そのうちバンドエイドの“Do Tyey Know It's Christmas Time”やデュランデュラン。お姉さんは戸川純の「玉姫様」。すさまじい様相を呈してきた。
 帰り際,お姉さんからは「こんな楽しい飲み会,ひさしぶり。本当にありがとう」と感謝されてしまった。

 「昔さぁ,まわりにああいうタイプ腐るほどいたじゃないか。なんだか懐かしくなってきたな」昌己は感慨深げだ。
 「どこに行ったんだろうって,たまに思ってたんだけど,就職して弁当つくってたんだな」

 なお,その1の冒頭に記した妄想の投稿主は,60代だったような気がしてきた。 


05月16日(日) 水っぽい  Status Weather曇りのち雨

 「キャンティなんて,あんな水っぽいワインは飲めませんですね。店先にこんな器に入ったのばかり飾ってありまして」

 店主は両手で果物かごほどの大きさをなぞると続ける。
 「わたしくは飯倉のキャンティに行きましても,フランスワインを頼みましたよ。いやな顔されましたけれども」

 物腰はイサムノグチの小説に登場する執事を想像させた。レストランでは,あと10cm背が高ければ,そうした物言いは,それこそ水商売っぽくなりかねない。
 「イタリア産の飲めるワインが入ってくるようになりましたのは,そうですね,ここ10年,いや20年でしょうかね。それまではおおよそ,飲めるような代物はございませんでした。これは面白味があるワインでして,あのころ,もしこれがあれば飲んでました。ふつう日本に輸入されているイタリアワインはほとんどが南の西側産のものですが,Puglia州,長靴の踵のところです。やっと,このクラスのワインがイタリアからも登場し,手頃な値段で手に入るようになりました」

 と,すすめられたのが「コッピ・ヴィナチェロ・プリミティボ」。面白いワインねぇ。なるほど。

 それよりも,キャンティを「水っぽい」って,『美味しんぼ』でドライ・ビールの喉越しを「スプーンを舌に当てたときのような感覚」と表現されたときと同じく,その新鮮な表現に驚いた。


05月18日(火) ツボ  Status Weather曇り

 ピーター・ガブリエルの3rd アルバムに“I Don't Remenber”という曲がある。前奏には,ソラミミアワーで取り上げられたに違いないかけ声(というか間の手)が入っている。曰く,

 「てかってかってかっ(×たくさん)」

 その頃,ビートたけしが語尾につけては笑いを取っていた「ってか」を,よりによってピーター・ガブリエルが連呼するのだ(もちろんソラミミだ)。
 喬史はいたく気に入ったようで,事あるごとに「てかってかってかっ」と,うるさい。われわれは,はじめのうちこそ面白がっていたが,何度も繰り返し聞かされると,いい加減笑えなくなってくる。ところが,その段階を越すと(もちろん越すまで喬史は続けるのだ),くだらなさを伴った笑いが襲ってくる。
 この手にはまり,何度となく喬史に笑わされることになった。

 同じようなパターンは他にもあった。ジャパンの「ブリキの太鼓」の一曲“Ghost”。この場合,いきなり「ごーお?すぅと?」と声を裏返らせる。何が面白いかというと,喬史の狭い音域なんだけれど。
 ただ,最近,昌己と話していて「あれはいったい“Ghost”の曲のどこだったのだろう」となった。この曲に“Ghost”という単語が出てくる箇所はある。とはいうものの,おおよそ喬史が声を裏返らせたようなフレーズではない。結局,「何か他の曲と勘違いしていたんじゃねぇのか」ということで,その場は意見が一致した。ついでに「Ghost,聞いたことないんじゃないか」。

 ものまねも,してみせはする。ただ,何せ蛍光灯拭きのバイト先の社長なんて,一緒にバイトした者にしか判らないものだ。おまけに社長を知っている者が聞くと,本人にはまったく似ていない。何に似ているといって,しりあがり寿の「コンパさん」演じるところの田中角栄だ。「まぁ? しょの?」(もちろん,これはまんがだから,あくまでも吹き出しが想像させる幻の発音)

 一番判らなかったのが「ラベック姉妹」。喬史のネタふりやリアクションに,よく「ラベック姉妹かよ,かは!(から笑い)」が出てきた。もちろん,われわれも笑っていたとはいえ,あれは何が面白かったのだろう。
 ただ,今だって喬史の口から「ラベック姉妹」と出たら,必ず笑ってしまうと思う。


05月19日(水) 1991  Status Weather曇りのち雨

 三島賞の賞金が100万円でホッとした。ヒト桁多かったら,「今年は4冊本を出す」なんて宣言,絶対に実現する筈ないものな。

 で,1991年。第4回三島賞に『スズキさんの休息と遍歴』がノミネートされた。筒井康隆以外は推すものがなく,佐伯一麦の作品が受賞した。このときの経緯が,まあ矢作俊彦らしい。

 当時の「新潮」に載った筒井康隆の講評には一枚のイラストが差し込まれている。小説の賞の講評になぜ,イラストが?

 「スズキさん……」は,ヴォネガットよろしく自ら描くイラストを(少なくとも前半が)効果的に用いて書かれた小説だ。他の選考委員の揚げ足取りをそれまでかわしていた筒井先生だったが,オーケン(大江健三郎のほう)の「絵が下手だ」のひとことに返す言葉がなく,結局受賞を逃した。件のイラストはそのときに指し示された一点だったそうだ。

 イラストが下手という理由で,三島賞を逃した小説家。もちろん,それだけではないのだろうけれど,なんだかトリビアっぽいな。


05月20日(木) カバー  Status Weather

 たぶんデヴィッド・リー・ロスだったと思うのだけれど,カバーアルバムをつくったとき,オリジナルで演奏しているバンドのメンバーがバックやコーラスを担当した。
 わがままなカラオケじゃないか,と笑ったのだけれど,最近,まさにカラオケアルバムが出た。

 「あの頃,マリー・ローランサン2004」

 1983年に加藤和彦がCBSソニー移籍第一弾として発表したアルバムだ。バックは高橋幸宏,矢野顕子,高中正義,ウイリー・ウイークスなどなど。巷にはレンタルレコード店が登場し,物議をかもしていたころなので,リスナーのみなさんへとかなんとかいうメッセージカードが同梱されていた。

 さて,これをどうカバーしたかというと,バックの音はすべてそのままに,ボーカルトラックだけをカバーしたミュージシャンのものに差し替えたのだそうだ。オリジナルのカラオケ化。ボーカル勝負だから,解釈も何もあったものではないだろうに,意外と面白いという。(出典「ストレンジ・デイズ」)

 次はぜひ『ベル・エキセントリック』でチャレンジしてほしい。海野弘のエッセイもそのままに。


05月22日(土) ジュース  Status Weather曇りのち雨

 「なんで,プチトマトジュースってないの?」
 娘に問われる。

 プチトマトジュース……。旨いんだかなんだか判らないな。


05月23日(日) 酸欠  Status Weather曇りのち雨

 週末,渋谷に映画を観にいくという伸浩にチケットを頼んだ。

 ゴールデン・ウイークど真ん中,平沢進ユニットというクレジットだけが事前にインフォメーションされていたが,P-MODELとどう違うのかは見当がつかない。La Mamaの10周年記念か何かのシリーズだったと思う。

 念のため「お前もくるんだったら3枚」と申し添えたものの,翌週,手渡されたチケットは2枚だった。伸浩は卒業時点で,ふつうの2倍もの単位を懐に忍ばせていた。堅実さとの折り合いのよさを,われわれのなかで唯一持ち合わせ,なおかつ,それをバッジにして胸ポケットに飾り,毎日磨き立てているような男だ。得体の知れないライブに大枚叩くなんて考えられないのだろう。

 フロアの真ん中に柱が据えられた,お世辞にも見やすいとは言えないLa Mamaの,私と昌己はよりによって奥まで入り込んでしまった。そのあたりはトイレの出入りで人が絶えず行き来するというのに,周りはすでに立錐の余地もない。
 幻覚マイムが登場し,頭で合わせる変拍子の曲を繰り出す。バンパイアは,やや拍子抜けしたが,後のことを考えると,あれくらいのテンションでよかったのかもしれない。
 で平沢ユニット,つまりは此岸のパラダイス亀有のワンパターンバンドが登場した。新日の若手のように客を押し分けながら,ステージまでの花道をつくったのは,当時のP-MODELのベーシストとキーボーディストだった。
 平沢が一人で“Kameari Pop”を演奏したのち,その後奏を出ばやしに,ケラ,田井中さん,秋山,三浦の面々が登場。一曲目「ダイジョブ」イントロが始まるや,その尋常ではない押され方に心底ゾッとした。数曲続くうちに,酸素はどんどん欠乏していった。昌己は胃をひっくり返しそうになったという。たぶんこれからも,あのときほど狂乱した,酸素の薄いフロアに居合わせることはあるまい。
 
 P-MODELの1st,2nd,せいぜい3rdまでの曲をアレンジをまったく変えずに,(ほとんどボーカルはケラだったけれど)途切れなく演奏し,サッさと退場。アンコールにも応えたのだけど,とにかく素っ気ないステージがそれはそれは格好よかった。


05月25日(火) 眠れない  Status Weather晴れ

眠らないと機嫌が悪くなることはあっても,眠れないという経験は皆無に等しい。プー太郎だったころの伸浩が,ひまをもてあまし眠れなくなり,夜中に庭先で縄飛びをはじめたり,ランニングで一汗流したりしているという話を聞いたとき,こ奴の身にはなれなかったが,こ奴の姿をみる親の気持ちは推し量れた。ため息が出た。

 数年前,出張で甲府にいくことになった。接待みたいなことをしなければならなくなり,昌己に店を紹介してもらったときのことだ。

 出張初日の昼過ぎ,電話で予約を入れ,日も暮れたころ,私以外は50過ぎの女性3名,計4名でその店へ向かった。
 カウンターに10席ほどしかない小さな店だった。みてくれは町中の居酒屋以外の何ものでもない。ただ,カウンター越しのガラスケースには,これまで見たことがないキノコや地のものであふれている。蜂の巣がそのまま入っていたのには閉口したが。

 ビールではじめ,山菜やらヤマメやら食って,一升瓶でサーブされるワインを飲んで,ほうとうを頼んだところ,女主人は目の前で麺(というのかな)を打ち始めた。
 「本格的なのね」
 何が本格的か知らないが,料理の手さばきを眺めているだけでも飽きなかったことだけは確かだ。合間合間にタバコをふかしていたのも豪快だ。

 「蜂の子食べてみましょうか」
 怖いものみたさでいうと,1人が乗ってきた。
 「うちの蜂の子は女王蜂しか出しませんから。主人が山で取ってきて。一回刺されたので,あと一回刺されたらショック死なんですけどね」
 さらりという。これまでも,一皿一皿に波瀾万丈の物語がついてはいたのだけど,いいのだろうか,そんな危険な目にあわせて。

 バターでサッと炒め,見た目はまんまだったけど,味は大人しいチーズみたいだった。

 とてつもなく安い勘定を済ませ,各人ホテルにもどったが,この夜ばかりは妙に寝付けなかった。場違いなもの頼むのじゃなかった。

 この店,奈良田といった筈なんだけど,検索してみると,カウンターだけの店どころかデカい郷土料理屋が出てくる。こんな店じゃなかったんだけど。


05月27日(木) ミュージック  Status Weather晴れ

 昨日の日記です。

 いつのころからかウイスキーが飲めなくなった。飲むと頤のあたりが熱をもち,その熱が頭を覆い,頭痛がひどくなってくる。身の置き所のない倦怠感は翌日の夕方まで続く。
 最後に飲んだのは数年前,目白で昌己とともに元宝島少女の婚約を祝ったときのことだ。昌己は彼女と初対面で,「ご結婚おめでとうございます」が挨拶の言葉だった。
 「セレブレーターと呼んでくれ」
 その後,昌己はいった。確かにわれわれが祝った知人は数えきれなかったのだ。いまだに“セレブ”と聞くと,バリトンで「オメデトー」をハモる声が聞こえてくるのには,そうした理由がある。

 表参道で知り合いと待ち合わせ,サントリーバーで用事を済ませた。女性店員ばかりのそのバーで私はビールとジントニックを飲んだ。
 「旨いモルトウイスキー出す店があるんだけれど,いきませんか」
 連れられて,その店に入ったのはまだ夜8時前だった。
 赤と黄で配色されたバァだったが,なぜか落ち着きがあった。
 「空間コーディネーター,バブルの遺産ですよ」
 細身で目尻がキツいバァテンダーは,そう説明する。
 「音楽もそのコーディネーターの指令なんですか」
 「11年間,毎日,聞いてたらさすがに嫌になってきますよ。なんだかニョロニョロしていて。でも,これ以外かけると怒られるんで」
 BGMは「マニュフェスト」前のロキシーミュージックばかりだ。

 連れがボトルキープしていたのはラフロイグだった。
 「これに辿り着くまで,20本くらい試したかな。“この方”の指導でね。これくらいの荒さがフィットする」
 すすめられるままに一口含むと,まさに口の中にISLAYの風景が浮かぶというのも,まんざら嘘じゃない。

 バァにきたらからには,バァテンダーの蘊蓄に耳を傾けること,小説で学習した習性は意外とついてまわる。
 「アイラといえば,村上春樹が何か書いてましたよね」
 「村上さんの本,お読みになられたのでしたら。これは,あのなかに登場するモルトウイスキーです」
 国の成り立ちから,一通り話を聞くと,ゆうに2時間はかかると耳打ちされ,話の端を折りながら,3時間近く居座ってしまった。 


05月29日(土) ハンシタ  Status Weather晴れ

 [小泉]KOIZUMI  物語には多く登場しないが,さっぱりした性格の人気者だということを押さえといて貰いたい。
   (レジェンドコミックシリーズ2/杉作J太郎作品集,マガジン・ファイブ刊)

 これも,最近の日記です。

 探し物が見つからず,新宿・世界堂へ向かった。が,店自体を探せない。私の記憶では,丸井とディスク・ユニオンに挟まれた狭い通りにあったことになっていて,当然,そこにはなかった。
 帰りに寄った書店で,杉作J太郎の『帰ってきたワイルドターキーメン L.L.COOLJ太郎』をみつけた。先週,買おうかどうか迷ったすえ,そのままにしてきたものの,勢いにまかせてその日は買ってしまった。


 『ヘイ! ワイルドターキーメン』『卒業 さらば,ワイルドターキーメン』は,刊行されてすぐに買い求めた。当時,われわれにとって,松本清六は,泉昌之における,たかはしたかしと双璧をなす魅力的なキャラクターだった。今,その2冊が手元にないのは,しばらく後,喬司に貸したままになっているからで,まあ,こうした本の行方はそんなものだろう。

 で,以前書いた「金の斧銀の斧」のパロディは,「放課後の男」(前後編)で,初出は1985年「ガロ」7月号だと記されている。とすると,私は,昌己か徹を経由して「ガロ」で読み,単行本で読み返し,今回,再び読み返したことになる。
 とにかく,全編通して語り口とエピソードの一つ一つが,他に代えられない魅力だ。
 それ自体にまったく興味はないが,モーニング娘。について,杉作J太郎が書いたエッセイは,トラウマを引きずり出されるような隠喩にあふれ,それはそれは情けなくなってくる。これも文章の魅力なのだろう。

 ところで,この本,本体価格1,600円というのは,やはり躊躇われるよな。


 さて,翌日,池袋・世界堂で探し物を手に入れた。ところが,値札に比べてレジで計算された額はかなり安い。もちろん質すことなく,サッとその場を離れレシートをみると,

 ハンシタヨウヒン 20.00% オフ

 なんと,版下用品は20%オフなのだ。ありがたいけど,“ハンタヨウヒン”ってくくりは,何とかならないものだろうか。


05月30日(日) キアイ  Status Weather晴れ

 石川セリの姉だか妹だか,ROMYの“Kiai”。泉谷しげるプロデュースだったと思う。まあ,数百万光年彼方で孤独を味わうほどではないにしろ,気合いからはるか遠くで日々だらだらと暮らしていた私にとって,それは馴染まない言葉の一つだった。

 秋空の下,娘の運動会にはじめて参加したときのこと。父兄は場所取りに命がけだ。当日の深夜,密かに潜り込み,シートをガムテープでしっかり固定し,ていねいなことに署名までしてある。開場少し前,園庭でその張り紙を目にしたとき,唖然とした。そのうちに,やってきた父兄は準備万端,次第にビーチパラソルの花が開きはじめる。一瞬,「ここはどこだ」と,わが目を疑った。
 午前中の競技が終わり,昼食になった。ここでも父兄の気合いの入りようはただごとでない。
 何せ,寿司屋の出前が闊歩するのだ。運動会の円庭に。そのシュールなこと,手術台の上のミシンとコウモリなんてやさしいものではない。

 一方,小学校の運動会は弛緩した空気が漂っていた。準備体操のBGMが,ヒーリングミュージックなのだ。いくらストレッチ体操だからといって他に選択肢はなかったのだろうか。拍という概念が欠如した曲なのだけど,これで体操する身になってみてはいかがだろうか。
 



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