2004年6月

06月01日(火) 泣く  Status Weather雨のち曇り

 「最近,涙もろくて」
 昌己の上司がいう。
 「ちょっとしたことで,すぐ目頭が潤んでくるんだ」
 「ありますよね」
 「だろだろ。『はじめてのおつかい』観てたら,もうだめだ。ああ,思い出しただけでも」
 と,ハンカチを取り出す。
 「あーあ。まあ,あれはそうですよね」
 「仮装大賞も泣けるだろ?」
 「え,そうですか」
 「泣けるんだよ」
 
 娘が教育テレビを観ていたときのこと。ちょうど,わが家で娘と一緒にいた私の母親から聞いた話だ。そのドキュメンタリ番組は生まれつき手が不自由な女の子の日常を追ったものだったそうだ。たぶん,昌己の上司が観たならば,ボロボロ涙ぐんでしまうような内容だったろうことは容易に想像がつく。
 終始,食い入るように画面を見つめる娘。やがてエンドタイトルが現れる。
 「それがねぇ」
 母親がいうところによると,娘は番組が終わるや,テレビの向こうの少女に拍手を送ったそうだ。

 拍手か。
 泣きもせずに拍手を送ることは,私にはできないな。


06月02日(水) モラル  Status Weather晴れ

 ハヤカワ文庫版『リンゴォ・キッドの休日』に添えられた「煩雑な殺人芸術」(シスコ・マイオラノス)が,その後,どこにも再掲されずにいるのは,どうしたものだろう。
 とりあえず,引用。

 「たとえば“他人に迷惑をかけない限り”と言う,ファシストの常套語がある。(中略)しかし,人間の行為は,たとえそれがどんな善意にあふれた行為だろうと,人類愛に基づく行為だろうと,他者の迷惑にならないような行為はない。(中略)どうせ言うなら,“法に触れない限り”と言い直せばいい。(さらに中略)この反論に立ち向かうのが,自分によって速度と方向を持たせた“私の”モラルなのである。
 人がNO!と言いきったとき,人間関係が変調をきたす。軋轢がおこる。友人と称する連中が,本心を見せもする。ささいな“NO!”ひとつで,最愛の者に背を向けられるかもしれない,しかし,それらを全部引きうける決意のもと“NO!”と言うのだ。
 それは“私の,モラル,に,反する”と。」
                  (管野圀彦訳,ハヤカワ文庫,1987)
 
 高橋源一郎いうところの「大説」の所以だ。
 ただ,この単純な場所をいかに魅力的に示したとしても,PTA程度の想像力さえも持ち得ない者にとっては,楽しみたり得ないのだろう。

 
 「客の趣味に,料理人がそこまでああだこうだ言うのはどうかと思うね」私は言った。
 「お食事どきでしょう。それは趣味の問題じゃございません。生き方の問題ですからね」
               (『ライオンを夢見る』p.189,東京書籍)
 フランス人奴!


06月04日(金) スモールトーク  Status Weather晴れ

 絲山秋子が「NAVI」で連載中の小説は「スモールトーク」。「エレファントトーク」に辿り着くまで,あと何作かかるのだろうか。よもや「パオー,パオー」? 山上たつひこじゃあるまいし。


06月05日(土) 捨て台詞  Status Weather晴れ

 「今夜,二人でくるってんだ」
 徹は,喬史と裕一にすっかり見込まれてしまったのだ。中野サンプラザでのコクトー・ツインズのライブ以来,われわれはマルチ騒動の渦中で日々,戦々恐々としながらも,どこかで奴らの言動を面白がってはいた。
 ただ,そのときの奴らには,理屈も何もあったものではない。2対1ときた日には完全に押さえ込まれるのは初手から目に見えている。
 「奴らが帰るまで一緒にいてくれないか」
 
 その夜,中華料理屋で食事を済ませた私と徹は,ビデオを観ながら奴らがやってくるのを待った。いったい,どんな顔してくるのだろう。悲しい性で,話しているうちにだんだんと喬史と裕一のイメージがディフォルメされてくる。
 「ゴージャスの人みたいに着飾ってきたりしてな」
 「サファリジャケットにテンガロンハットか」
 「ベロベロ酔っぱらってきて,いきなりテーブルひっくり返されるかもしれないな」
 さすがに生彩を欠いていた。

 10時を過ぎたころ,足音が近づいてきた。ノックの音。
 「徹,いるかぁ」
 喬史の声だ。
 「あぁ」
 小さく返事すると,徹が「よろしくな」。そのまま部屋のドアを開けた。いつもの様子の喬史と裕一がそこにいた。
 「おぉ,来てたんか」
 奴らが一瞬,顔を見合わせたように思ったのは気のせいだろう。

 その後,小1時間,まったく当たり障りない,恐ろしく空虚な話が続き,マルチのマの字も出る気配はない。
 こ奴ら,私がいるうちは,一言もマルチの話はしないつもりだ。
 そう思うと,何だか,この滑稽な場にいる気がしなくなった。すべて憶測でしかないのだけれど。
 「そろそろ帰るわ」
 今思い返すと,まったく申し訳ない。

 翌日,徹に聞くと,あの後,矢継ぎ早に「一緒にもうけよう」話が続いたのだそうだ。「何とか断った」そのとき徹は多くを語らなかった。ただ,最後に喬史はこういったのだそうだ。
 「そこまでの男かよ」
 昌己や伸浩と一緒に聞いていて,「恐ろしい捨て台詞だな」とリアクションしながらも,思わず笑ってしまった。


06月06日(日) 電報  Status Weather

 「連絡ください」
 マルチ年の晩秋,家に戻ると玄関ドアに裕一からの電報が差し込まれていた。公衆電話から連絡を入れると
 「マルチの話なんだけど」
 明らかに声は疲れた様子だった。そのまま,私は3駅向こうにある裕一のアパートまで自転車を漕いだ。
 4年間ここに住んで,電報が役に立ったのは唯一,このときだけだった。


06月08日(火) フォント  Status Weather

 昨日の日記です。

 三島賞関連の記事を読むために『新潮』を買った。
 何が感心したかといって,さすが新潮社。『あ・じゃ・ぱん』(新潮社刊)の「ん」のフォント(“!”と“ん”が合わさったようなの),捨てていなかったのだ。くっきりと印刷されていた。

 受賞の言葉/なんで,あんなふうに書いちゃうのだろう。悪意と本心のバランスは,さすが名人の域だな。

 記念対談/最後のぺージの石丸元章の言葉に胸がつまった。 

 ところで,この小説に対して,枕詞のように「現代社会に対する批評」とか何とかいうフレーズをよく目にするのだけれど,ダダイストが面白がるように,先だっての東京を面白がっていると,私は感じる。


06月09日(水) 続 眠れない  Status Weather曇りのち雨

 裕一が借りていた部屋は,(その後,公団にイリーガルに入り込んだ徹のある時期を別にすれば)もっとも過ごしやすい環境が整っていた。駅や幹線道路から程よく離れた距離,ダイニング,クーラー,食器乾燥機,布団乾燥機。前後が極端にふれてしまっているけれど。
 その部屋にはドラムセットがほぼ常に組まれていた。もちろん六角ドラムだ。とはいえ,バスドラはキッチリ隣室と隔てる壁に向かって据えられていた。ヘッドホンでモニタするから漏れる音は皆無,などということはありえない。エレキギターを弾く音はシールドを外していても,妙に通りがいい。キーボードも交えて,スピーカーから音が響くと隣人からの苦情をしばしば受けた。
 「気にしない,気にしない」
 ませた小僧でもあるまいし。

 電話をかけて後のこと。夜の10時を過ぎ,人はまばらどころか,誰とすれ違うこともない裏道ばかりを選んでいくと,その実,距離は遠いのではないかと思われてくるから不思議だ。
 
 「悪いな,遅くに。最近,眠れないんだ。例の件でだけど」
 繰り返しになるが,眠たくて機嫌は悪くなっても,眠れない経験は皆無に等しい。さらには,われわれのあいだでも,「眠れない」などと聞いた覚えはなかった。
 私は,コンビニに置かれた3流雑誌の記事(潜入ルポ「マルチ商法の実態を暴く」というようなもの)を反芻した。
 次は不安が襲ってきて,四六時中,マルチ仲間といるんだったな。
 「一人になると不安でさ。喬史といつもいて,一緒のときはいいんだけど」
 「一人になると不安なんだ」
 「ああ。眠れなくて,睡眠薬少し飲んだりしてるんだ」
 「そうしないと眠れない?」
 「何だかな」
 いったい何をしているのだろう。これじゃ,体のいいカウンセリングじゃないか。

 「マルチって,仲間から搾取するもんだろう」
 「一緒に儲けよう,って」
 「なおさらタチが悪いんだ,多くが善意からなんで。でも,PTAみたいじゃないか,それじゃ」

 行きがかり上,その翌日,私は裕一の部屋で,喬史と話し合うことになってしまった。


06月10日(木) 懲りずまに  Status Weather曇り

 話し合うことなんて初手からなかった。あっけなく「止めようぜ」という話に落ち着いた。まあ,誰が始めたかは問うまい。戦争を始めた者が止めるといえなくなったわけでなかったことは,誰にとっても幸いだった。

 ただ,基本的に喬史は正義の人だ。次に出てくるのはもちろん,「許せない」の一言だ。それをいうなら徹のほうが許せはしないだろう。「徹だってな」私がこっそり囁くと,喬史は無理して吐き出すように笑った。
 「あっはっは。あ奴,泣いちゃうんだもんな。泣くなよ。あれくらいでさ」
 「はぁ? お前,徹を泣かせたのかよ」
 「勘弁してくれよ,だって。そんなにいわなくてもいいじゃんさ」

 で,許せない喬史は消費者相談センター(?)にいき,経緯を説明すると,マルチから一切,手を引いた。もちろん,それくらいで収まる筈はない。
 センターで「NHKから取材が入ってるんだけど,応じてくださいませんか」との相談に2つ返事で了解したのだ。

 それから数週間。喬史と裕一から「今度,ニュースに出るからさ。俺,観る勇気ないから観といてよ」。

 私は徹の部屋で,昌己は裕一と,喬史はどこかでひとり,その日の7時のニュースを待っていた。

 よーく判ったのは,テレビで「プライバシーの保護のため音声を加工しています」と流れるテロップは全く嘘だということだ。その日,ニュースの半ばに登場した喬史の声は,誰がどう聞いても喬史のもので,後ろ姿やら,資料として映し出された,マルチのノウハウがメモされたノートの若々しい文字(たぶん,字の荒れ具合から,“この人はかなり動揺していたに違いない”と感じた視聴者もいたろうが,もちろん日頃から変わりない字の若々しさだ),あれで個人が特定されないとしたら,ジョージ・オーウェルは自らの想像力を誇大妄想だと恥じ入るだろう。

 徹はその模様を録画し,放送が終わるやいなや裕一は「終わった終わった。さあ,寿司食おう,出前や出前!」勢いがついた。
 喬史はしばらく行方不明になった。私はその頃,「どこへ逃げるというのだろう。どこにも逃げられはしないのに」などと青臭いことを,どこかに記したが,すぐに学校の近くへ顔をみせた。

 「実はさ,止めようといった後,クラスの奴らに声かけたんだけど,何だかやけに警戒されるんでさ。結局,本当にやめたんだ」


06月13日(日) 中落ち  Status Weather晴れ

 岩波の同時代ライブラリー版『物語戦後文学史』(本多秋五)を古本屋で見つけ,買い求めた。分冊になるほど大部の本だが,とにかく面白いので通勤途中数日で上巻の2/3ほどを読み終えた。

 『近代文学』というと,埴谷雄高経由で,北杜夫や辻邦生のエッセイにしばしば登場したときの印象が今でも強い。荒正人,平野謙というと,三一の『夢野久作全集』,佐々木基一の名は石川淳の文庫本の解説者として記憶に止めてあるだけだ。

 個々のエピソードが何に似ているといって,パンク,ニューウェイヴミュージシャンたちの逸話に,それはそれはそっくりだ。ダダ,シュルレアリストにも近い,烏合の衆が何だか知らないうちに勢いをつけることがあるのだと,それがとても面白い。

 私は古本屋で上・下巻を買ったのだけれど,下巻の索引を眺めていると,所々ページの前に「中」とあるのに気づいた。

 中 ?

 実はこの本,上・中・下巻ものだったのだ。でも今更,同時代ライブラリーの「中」だけなんて,手に入るのだろうか?


06月14日(月) Un del di vedremo  Status Weather晴れ

 森雅裕の小説の魅力と,いつも感じる物足りなさ,その多くは,矢作俊彦の小説と対比してしまうことからうまれるものだった。アマチュア“たち”のなかでひとりのプロが消耗する様が謎解かれるストーリーは,読んでいて今ひとつ腑に落ちなかった。もちろん,本人もそうした対比を承知のうえで作品を発表していたように見受けられたが。

 80年代後半,試行錯誤を繰り返す小説家の中毒患者は,森雅裕の作品に手を出したのではないかと想像する。

 『郵便カブへ伝言』など,そそられる作品もあるし,多くを読み返したのだから面白がっていた筈なのに,何だかそれが気恥ずかしい。

 「Buddha Bar」というCDを借りたところ,なかに「ある晴れた日に」が入っていた。クリムゾンの「シェルタリング・スカイ」を思い出し,戸川純の歌詞が蘇る。後半はミレニアム・クリムゾン+清水靖晃風。

 で,結局,森雅裕の話になってしまった。


06月15日(火) ウイリー  Status Weather晴れ

 あまりに塩っ辛い炭酸水しか手に入らず,徹と企てた炭酸入り紅茶の開発は,あっけなく頓挫した。

 ドクターペッパー以来,(あれを紅茶とカテゴライズしてよいのか判らないが),炭酸+紅茶の組み合わせには固定ファンがいるように思えてならない。
 というのも,同じころ,続けざまに「サスケ」「ウイリー」と,同系統の炭酸飲料水が新発売されたのだ。特に「ウイリー」は,思わず「これこそ,夢にまでみた炭酸入り紅茶じゃないか!!!」といってしまう味がした。

 われわれが,徹の部屋で茶渋のついたコップに日東紅茶のティーバッグを垂らし,なみなみと炭酸水を注いだようにつくられたわけじゃあるまい。

 残念なことに,いずれもあっけなく市場から消えた。
 しばらく後まで,頑に「ウイリー」を売り続ける自販機が家の近くにあったのだが,遂に在庫が底をついたのだろう。数年後,その自販機でも手に入れられなくなった。


06月17日(木) bad tuning  Status Weather晴れ

 iMac、調子悪いにもほどがある。使い物にならないぞ,これじゃ。
 だんだん野蛮な再起動をかけはじめ,自制心を取り出すにに一苦労だ。やりたいことがいろいろあるのにな。
 週末に再インストール決行だ。


06月18日(金) 物物交換  Status Weather晴れ

 昨日の日記です。

 仕事でお世話になっている先生を訪問。読み終わって,そのままになっていた福島真人の『暗黙知の解剖』(金子書房)をお持ちしたところ,予想外に喜ばれた。最近,ワーキングマザーになった知人のために探していた本を発見し,物物交換のように頂戴してきた。

 夜,廊下に追い出された私の書棚に残っていたのは『「わざ」から知る』(生田久美子,東京大学出版会)。これも次回,物物交換のネタにしよう。


06月19日(土) bad! bad!!  bad!!!  Status Weather晴れ

 再インストール2回,それでも何だか調子は怪しい。ハードの問題なのだろうか。


06月20日(日) 助教授  Status Weather晴れ

 小室哲哉の話ではない。

 われわれのゼミ担当の助教授は,ユング?トランスパーソナル心理学にどっぷり浸かっていた。ゼミが始まって最初の課題が「マンダラ描いてきなさい」だったと思う。

 まんだらけ? いや,違う。

 描いてきなさいって,美術系の学部じゃないんだし。

 始まっただかりだというのに,「もしかするとわれわれはゼミの選択を誤ったのではないか」と,しばし慌てた。とはいえ,先輩から得た「あのゼミに入って卒業できなかった奴はいない」という情報だけで選んだのだから仕方あるまい。

 私は別冊宝島の『精神世界マップ』をたよりにでっち上げた。昌己のマンダラは(なんだか妙なものいいだけど)細かに描き込んだ傍目にも力作だった。後々まで,昌己のマンダラは助教授の研究室に貼られていた。喬史や徹,伸浩,裕一がどんなものを提出したのかは記憶にない。

 講義も何だか妙な話が続発した。

 あるとき,この助教授(女性)が台所で夕飯のしたくをしていると,背後に人の気配を感じた。
 いきなり回し蹴りして「断りなく,おれの後ろに立つんじゃないぜ」などといったわけは,もちろんない。
 一声「バン」。振り向くと息子が人差し指でピストルを真似ていた。まあ,ありそうな光景だ。ただ,講義ではこのあとに,
 「あのとき,息子は私から離れて,独り立ちするっていうことだったのね」。こっちの文章がおかしくなってくるくらい,いろいろ解釈しては自ら納得する。
 また,あるとき,風呂あがりになぜかドライブしたくなり,真夜中の町中を飛ばしていると,路側帯に乗り上げ事故ったそうだ。単に無謀な運転はするものでない,という教訓話かと思うと,「私は死にきれてなかったのね」。

 死にきれてなかった?

 死にきれたり,死にきれなかったりすることがある,というか,そういうふに考える人間がいることが,まず驚きだった。
 何でも,自己の成長とこれまでの自分の死の象徴が,この自己もとい,事故だと解釈するのだそうだ。

 2年間,こんな調子だったな。就職の世話なんて,まったくしてくれなかったし。そういうことに関心ないことが,こちらにも伝わってくるので,相談もしなかったが。

 喬史は,この助教授の容姿を「シャーデーに似てるよな」,よくそういっていた。でも,全然,似ていないのだ,シャーデーになんて。第一,シャーデーに似たって,どう似ればいいのだろう。歌がうまいとか,百歩譲って歌がうまそうとか。そんなとこじゃないか。

 本人はラビ・シャンカールと中島みゆきが好きだったようで,結局,どんな趣味しているのか判らなかった。昌己はいまだに付き合いがあるので,ときどき噂を聞くが,当時とまったく変わっていないようだ。


06月21日(月) タイトル  Status Weather曇りのち雨

 『馬鹿馬鹿しさの真っ只中で犬死にするための方法序説』(ダディ・グース)。会社で仕事以外の瑣末な諸々に対応を迫られていると,内容はさておき,実際,そんな気分がする。アホらしい。もちろん,上司たちの自家撞着なんで,対抗軸以外の物事をぶつけていけば,奴ら自身が『馬鹿馬鹿しさ』に気づくのだろうが。

 何だか何も書く気がしなくなった。まさか,文章を書くのに会社での出来事が影響するなんて,想像もしなかった。


06月24日(木) イチロー  Status Weather晴れ

 関川夏央の新刊をめくると,村上一郎と中井英夫の名があった。

 短歌をキーワードにすると,この両人をひとつの土俵で語ることが可能なのだと,そこだけ妙に納得した。

 昔,矢作俊彦のラジオ番組で,10万km走行のスカイライン(だったろうか)プレゼントの企画があり,その車のナンバーが宇都宮だったときいたとき,まさか村上一郎の形見じゃないよな,と訝しんだものだ。


06月25日(金) 企画  Status Weather曇りのち雨

 以前,『散歩の達人』で「イタリア人にナポリタンを食べさせる」という企画があった。

 日本人に日本語の歌詞の洋楽(クイーンの「手をとりあって」やポリスの「ドゥドウドゥディダダダ」(?),デヴィッド・ボウイの「イッツ・ノー・ゲームno.1」などなど)や,フランス人にロキシー・ミュージックの“Song for Europe”,ピーター・ガブリエルの“Games Without Frontires”を聞かせるのにも似た企画だ。

 映画の「80日間世界一周」を観て,日本文化について語ったり,ブタペストの人に「ストレンジャー・ザン・パラダイス」を観せたり,そんなことを考えながら一日過ごせば,少しは気も晴れはする。


06月26日(土) ライブ感覚  Status Weather晴れ

 オフィシャル(アンオフィシャル)ブートレッグを見聞きすると,キング・クリムゾンの曲の多くは,レコーディング前にライブで練っていきながら固められたことが確認でき,ファンとしては,それがなぜかうれしい。

 P-MODELも本来は,同様の感覚をもっていたバンドだけれど,80年代半ばから,アルバムで発表→ライブで練る,というパターンが顕著になった。それが凍結前,ライブに通い続けていた頃のこと。アルバムに収録されていない曲が1曲目から演奏される。しばらくするとセットリストで欠かせない曲になる。新曲が増え,そしてバンドの音圧がガラッと変わる。

 幻に終わったP-MODELのアルバム『モンスター』に収録される予定だった曲が固まるプロセスを経験したから,なおさらにアルバムが発表されずバンドが氷河期に入った1988年のことは忘れられない。
 1989年にP-MODELのリーダー平沢進のソロアルバムが出たとき,そこにライブハウスで聞いた曲がやっと日の目をみた。バンドは封印されたままだったけれど。

 いつのころからか,平沢はライブで曲を叩き上げることをしなくなった。というより,ライブ自体,P-MODELとはまったく異なったものとして,われわれの前に示された。その違いはまた別に機会に書き連ねよう。
 それを,“ライブ感覚”と短絡的にいってしまって良いのかは判らない。


06月27日(日) マティニ  Status Weather晴れ

 はじめてマティニを飲んだのは四谷のバァで,そのあとはケアンズのホテルで,やけに強いマティニに胃がひっくり返った。この2軒では,頼むとき「マティニ」と発音しても特に聞き返されることはなかった。

 廃船に手を入れて海辺に停泊させたホテルでのことだ。ラウンジで注文をとるギャルソン(あ奴をそう呼びたくないが)に,「マティニ」というと,「マティーニでございますね」。
 いいじゃないか,どう呼ぼうと好き勝手だろに。客が「マティニ」っていってるのだから,「マティニ」って返せばいいものを。
 「オリーブの変わりにレモンピール入れて」
 思えば,まったくの受け売りだった。

 矢作俊彦の小説では,「マーティニ」「マティニ」と表記される時代が長く続き,私は言葉の選び方が気に入っていた。ところが,『ライオンを夢見る』に収載された「コンクリート謝肉祭」では,連載当時の「マーティニ」が「マティーニ」に変わっていた。作者が手を入れたのか,校閲が入り了解したのか経過は判らない。
 矢作俊彦のエッセイではじめて「マティーニ」と記されているのを見たとき,内田百閒のエッセイを現代語表記で読まされたときのような窮屈さを感じた。

 同じく「マーティニ」「マティニ」と記す作家に安井かずみ(+加藤和彦)がいる。アルバム『あの頃 マリーローランサン』の1曲では確かに「マーティニ」と歌っていたはずだ。

 今野雄二も「マティニ」と記していたことについては,P-MODELファンなので,あえて無視する。



「日記」へもどる