2004年12月

12月01日(水) 来日  Status Weather晴れ

 一人暮らしをはじめてから先,ライブやコンサートの情報を得るために新聞をとっていたも同然だった。
 
 親と同居していたときにいったライブは,1981年12月8日のキング・クリムゾンのライブ(この日が公式のライブデータに記されていないのは,追加の追加公演で,結局,来日初演になってしまったからだと思う)だけかも知れない。発表があった日の新聞は早速切り抜いてしまい,その日の夜,朝刊を読もうとした父親に「読めないじゃないか」と小言をいわれたことを覚えている。もちろん裏面はテレビだ。スポーツ記事とそのあたりしか目を通していなかったのだろう。
 プレイガイドに並んだ経験は一度もない。つまりは新聞で情報を得て,電話で予約番号をとり,郵便でチケットを受け取った。一度,乃木坂近くの呼び屋までチケットを取りに行ったことはあるのだけれど,あれはどのバンドだったろう。

 1984年のクリムゾン再来日まで,英米のロックバンドのライブを観には行かなかった。その頃からだ。やけにいろいろなバンドが来日するようになったのは。いきおい新聞の広告スペースに驚かされた。
 そうしたもろもろが,チケットぴあと雑誌のぴあに取って代わられたのは1986,87年頃のことだ。それでも少なくとも1989年くらいまでは,あの広告スペースに賑わいはあった。
 バンドブームの頃からだ。電話は繋がらず,繋がればソールドアウト。渋谷のどこそこの公衆電話は繋がりやすいとかなんとか,そんな都市伝説が闊歩しても不思議でない空気は一気に満ちた。以後,極端にライブに足を運ぶ回数が減った。

 ときどき,新聞の広告スペースを頼りにチケットと取って,ライブに行った頃のことを思い出す。


12月03日(金) 銀座  Status Weather晴れ

 今日の日記です。

 数年ぶりに新橋から銀座7丁目まで歩く。
 亡くなった上司に連れられて一度だけ入った有名なおでん屋は忘年会流れの客で賑わっていた。GINZA NINE(これについて書くと,「銀座は8丁目まで」という一文が加わるのが常)の新橋側が有楽町のガード下と化していたものの,新橋駅ビルの地下の立ち飲み屋は時間が止まったかのように変わりようがない。福家書店の10数年前,喫茶店だった階段を上がった右手のスペースはDVDコーナーに,2階には漫画売り場まで出来ていた。1階はあまり変わっていなかった。(順序がむちゃくちゃだ)7丁目の,以前,銀巴里があったあたりの向かいにコンビニができていた。8丁目の公安の詰め所までは足を伸ばさなかったけれど,その並びにあった小さな立ち食い蕎麦屋は,私が日々,このあたりを行き来していた頃に店を畳んだのだった。

 資生堂ビルの9階でワードフライデーという対談を聞きにいったのだ。登場したのは矢作俊彦と高橋源一郎。フロアには康芳雄氏の姿。内田裕也じゃなかったよな,たぶん。

 よっぱらいおじさん2人のとりとめのない話を7,80人が聞いているという妙なシチュエーション。高橋源一郎が何とかテーマに沿って話をすすめようというのに,もう一人の勝手きままに取り散らかる話題に,途中から舵取りをあきらめたよう。
 取って付けたようにプロ野球の話になって,矢作氏が「堀内にあと5年は監督になってもらって,清原をいじめ続ければ人気の凋落に拍車がかかるよ。巨人が12球団のひとつになれば,もう少し面白くなく可能性はある。惜しいのはペタジーニが退団したことだよな。あ奴のバッティングフォームって醜悪だろう。堀内が監督でペタジーニが4番。仁志もいないし,高橋はけがして,いいなあ」
 爆笑しました。

 矢作氏の話を聞きにいったのは今回で3回目。80年代に1回,90年代に1回,21世紀になって,これが初めて。開始早々こそ,妙な緊張感があったのだけれど,そのうち,この小説家のもっている雰囲気がほんと変わっていないことに驚いた。目を瞑って声だけ聞いていれば,FM横浜でやっていた「アゲイン」のころと,調子から何からたやすく繋がる。


12月06日(月) デニッシュ  Status Weather晴れ

 喬史はコンビニで売っているデニッシュが好物だった。溶かした砂糖を波なみと垂らし蜷局を巻いた,やたらとデカイ奴だ。
 「値段の割にうめぇよなぁ」
 陳列棚のなかで安さと大きさのバランスを考えれば,一番コストパフォーマンスにすぐれているだろうことは否定できない。ただ,喬史の場合,値段の割にというより,値段とボリュームがすべてだったのではないだろうか。嬉々としてレジへ向かう姿を,いまだにコンビニで蜷局を巻いたデニッシュを見るたび思い出す。


12月08日(水) Perspective 2  Status Weather晴れ

 P?MODELの4thアルバム『Perspective』(1982)は,たとえば「うわばみ」という曲や,ジャケットを目にすれば,サン=テグジュペリの『星の王子さま』にインスパイサされてつくられたことが,とてもわかりやすく示されている。ただし,なぜ『星の王子さま』なのかは,誠実さと不親切さを貫き続けるこのバンドに相応しく,情報がほとんどない。

 『新潮』一月号から短期集中と銘打って連載がはじまった矢作俊彦の「悲劇週間 SEMANA TRAGICA」は,主人公“ぼく”のモノローグがいつくかの短編を思い出させるが,描かれる時代は19世紀末?20世紀初頭。“ぼく”が大學と呼ばれているので堀口大學をモデルにした小説ということになるのだろうか。

 『ロング・グッドバイ』にはチャンドラーはいうまでもなく,サン=テグジュペリの姿が(まさに,カバーを剥いだ本表紙に示されるように)見え隠れする。『夜間飛行』と明示されてはいないけど,堀口大學訳するところの新潮文庫が登場する。

 むりやりこじつけてしまうと,ヴォネガットに続いてサン=テグジュペリが,平沢進の作品と矢作俊彦の作品に見え隠れすることを通して,この2人の作品に思いめぐらすのは楽しそうだ。


12月09日(木) 四刷  Status Weather晴れ

 『ロング・グッドバイ』四刷を購入。ざっと眺めると,このHPに記した箇所はすべて手が入れてあった。ページ数は変わらないものの(増刷でページ数が変わっていたら大変だけど),文章は若干増えている。脳と悩の間違いであろう誤植は,まだ見つかっていないので,四刷を一回読み直しながら探してみる。

 『本の雑誌』で池上冬樹氏は『別冊野性時代』に掲載された「グッドバイ」よりも,チャンドラー風の隠喩が減っていると指摘していた。が,どうなのだろう。

 『ミステリマガジン』連載の「ヨコスカ調書」と「グッドバイ」,そして『ロング・グッドバイ』を比べると,未完ながらも文体としては「ヨコスカ調書」が最も魅力的だと思う。「グッドバイ」は「ヨコスカ調書」の主に風景描写に手を入れ,登場人物をほんの少し増やすことで平成の小説に書き換えたもの。「眠れる森のスパイ」連載14回の冒頭,

  「お疲れさん」と,官房長官は言った。
  「ま,そこに。ーー寛いでくれたまえ」
   課長にではなく,私に手を差しのべた。
   座布団の上で,足は胡座をかいていたが,腰から上は少しも正座を崩
   していなかった。喉許のネクタイも,薄い色のついた眼鏡の中のぎょ
   ろりとした両目も同じことだった。

 以下をもってきて,とりあえず結末をつけた一編だったので,それほど心を踊らされなかった。もとより,新たに書き足した文章と「ヨコスカ調書」連載時の文章の乖離がいやでも目についた。『別冊野性時代』p.204と,『ロング・グッドバイ』p.114に上の文章をもとにした場面がいきている。大差ないといわれれば否定はしないが,その差に目を瞑る気はない。

 四刷のp.8うしろから3行目,中ほどは「…ジュークボックスは電源が入っていた。」,初刷では「…ジュークボックスに電気が灯っていた。」となっていた箇所だ。一行前の冒頭は「なぜか,店内には灯がともっていた。」なので,四刷のほうが身なりよく読める。まあ,それを増刷ですることかどうかは,さておき。

 来年,『リンゴォ・キッドの休日』『真夜中へもう一歩』『あ・じゃ・ぱん』が角川書店で文庫化される予定だという。願わくば『真夜中…』を,今一度,連載『真夜半にもう一歩』に戻して,手を入れ直すなんてことしないのだろうか。福田和也をしても「新人類の無軌道な生態を…」程度にしかコメントできない(だって,そんな話じゃないんだもの),焦点が定まらない『真夜中…』のままでは,あまりに惜しいと思うのだ。


12月11日(土) 萬金油  Status Weather晴れ

 身重の野良猫が,転がりこんできたのは20数年前のこと。ある日,学校から帰ってきた妹が押し入れにいるところを発見したのだ。見つかるやいなや脱兎のごとく逃げ出したそうだが,縁側にえさを置いておくと,すぐに戻ってくる。数日そんなやりとりが続くと,猫は警戒心が解けて,部屋に上がり込み,またもや押し入れに潜った。
 生まれた子猫は3匹。

 同じころ,妹はトラ縞の子猫を拾ってきた。栄養失調ギリギリのその猫はお腹がポコリと出て,うまく泣き声が出なかった。以来,家に5匹の猫が飛び回る日が幾月か続いた。昼夜問わず,猫は家の中,外を文字通り闊歩した。

 われわれ兄弟はふって沸いた来客に喜んだが,両親は必ずしも心良くは思っていなかったようだ。生まれた3匹のうち2匹は知人宅に貰われ,残った3匹のうち,トラ縞がある日,家から消えた。それからしばらくして母猫もいなくなった。残った一匹が姿を消すまで,それでも1年はあっただろうか。猫が皆いなくなって,一番ダメージを受けたのは意外なことに弟だった。

 それから数ヶ月後,最後の一匹が戻ってきた。縁側の先の塀に飛び乗ることもできないほど痩せ細っていた。たまたま学校を早退した弟が,かすかな泣き声を聞きつけ塀の向こう側にいるのを見つけたのだという。
 徐々に体重も増え,猫は,以前より出歩くことは少なくなったものの,また賑やかにあちこちを歩き回り始めた。

 家を離れていた私が休みの日,家に戻ると,猫がペロペロと身体のあちこちを舐めていた。痒そうにしていたので,なぜそんなものが家に置いてあったのか覚えていないのだけれど,つい,萬金油を塗った。猫は塗ったそばから舐め始める。と,一瞬で顔が歪み,舌を出したまま,萬金油をあちこち擦り付けて落とそうとてんやわんやになってしまった。まったく悪気はなかったのだけど。

 矢作俊彦の小説に登場する二村永爾の字面を見ると,その猫を思い出す。はじめて読んだとき,何にも増して,彼の生活のなかに萬金油が自然に溶け込んでいる描写が印象的だったからだ。相変わらず『ロング・グッドバイ』でも萬金油を使い続ける二村の物語を読み,あのときの猫の姿が突然甦ったことには正直,驚いた。
 車や,飲む酒や,まして着る服ではなく,萬金油だったことに対しても。


12月12日(日) 認定  Status Weather雨のち曇り

 今日の日記です。

 NHKの番組で水俣病とその裁判が取り上げられていた。

 初手から曖昧を欺瞞で糊塗し続けられてきたこの問題をさらに混乱させた一因が,“認定”という,“診断”以外の何ものかであることは,たぶん原田正純氏の著作に記されてあった。
 で,介護保険(多いに参考にされたドイツの制度は看護保険だけど)で,なんだかこれと同じ図式が見て取れるのだ。水俣病は事件だから,安易に比べられはしないのだけれど。
 介護保険制度の青写真が示されたころから,水俣病をめぐる一連の行政の対応が思い浮かび,いやな感じがしたことを覚えている。

 医師が独占する“診断”の権利を擁護するわけではまったくないが,はるか以前に“認定”という言葉は“介護”と同じくらい曖昧だと思う。(“介護”という言葉は実のところ,40年少し前に登場し,内実を伴うようになったのは最近20年くらい。安全第一なんて四文字熟語より新しい)

 百歩譲って,“認定”が“診断”における医師の独占権を凌駕するために設けられたとしても,治癒にかかわずらうイメージの諸々が変わらないかぎり,“治せない病気”を前にした保障程度の意味合いしかもたないのではないだろうか。(以下,少しずつ加筆予定)


12月15日(水) ありがとう  Status Weather曇り

 裕一がめずらしく怒りをあらわにしている。その様子以外は,場所も,相手も,いやそのきっかけが何であったのかさえも思い出せないのだが。

 「もー,まったく許せんな。コラコラコラ,殴ってやる!」
 喬史や徹,昌己,伸浩,相変わらずのメンバーと一緒だった。皆,裕一の話を,半分は面白そうに,もう一方ではやけに親身になって聞いていた。他人に向かって誇ること,その少なさにかけては,今時仁丹をかむ中年男の姿に等しいが,こうしたときの雰囲気だけは捨てたものではないと思う。
 「ガツンと,いってこいよ。ガツンとさ」
 徹がいう。親身になりながらも,鼓舞することだけは,どうしたわけは忘れないのだ。
 「そうだな。ガツンといってきたほうがいいよ。そういう奴には」
 「一回言って,判らせてやれよ」
 「よっしゃあ」
 田中角栄じゃないけど,裕一はよくそう言って声を張り上げた。

 「俺,みてくるよ」
 徹が後からこっそりついていった。

 数分後。

 「あーあ。まったくなさけないな」
 徹が私たちのところへ戻ってきた。
 「で?」
 「何が殴ってやるだよ。教室へ行ったらさ,隣の席とっていたらしく,手招きされてんだぜ。ほいほいついていって,“ありがとう”だって。おいおい,さっきの威勢はどこいったんだよ」
 裕一の殴ってやる原因は忘れてしまったのに,そこから“ありがとう”の一言へと続いた様子は今も覚えている。 


12月17日(金) 飴と鞭  Status Weather晴れ

 このところアパートにやってくる野良猫に芸をしこもうと,徹はペットショップでキャットフードを買ってきた。
 「教え込むには,なんといっても飴と鞭が大切だからな」
 どんな猫なのかを見る,ただそれだけのために,学校から一駅を自転車と50ccのバイクで連れ立って走っていたときのことだ。
 「何を教えるんだよ,野良猫にさ」
 「芸の基本は“お手”に決まってるじゃないか」

 ドアの前にキャットフードを置き,入り口でしばらく待っていると,外廊下をこちらに向かってくる猫の姿が見えた。
 「頭悪そうな顔だな」
 「猫は,だいたいああいう顔つきなんだよ。『JUDOして!』のタマみたいにさ。言ってることとやってることが全然そぐわないところが,猫の猫たる所以じゃないか」
 「しゃべりはしない」
 徹は,すでに手なずけているようすだった。キャットフードを食べながら,喉元をさすられているというのに猫は逃げる素振りを見せない。というよりは,なんだか偉そうな態度だ。
 「お手」
 猫はピクリともせず,まったく無視だ。間の抜けた徹の声がむなしく廊下に谺する。何度も繰り返すうち,チラリと彼のほうを窺いはしたものの,食事を終えると毛づくろいをし,やってきた方向へ帰っていってしまった。
 「毎日,こんなことしているのか,おまえさ」
 「おう。先週まではもっと殺伐としていたんだぜ。餌だけかっさらっていって,おれの姿見つけようものなら,一目散に逃げ出してさ。“飴”のたまものだな」
 「それで“鞭”が“お手”かよ。バランスが悪いんじゃないか。試験前の伸浩のこと思うとさ」
 「あ奴は“鞭”ばっかりだからな。ノート借りるのに何であんなに段取りが必要なんだろう。それも毎回,同じことの繰り返しでさ,いいかげん嫌になっちゃうよな」
 「こっちが代返ばかりだから,しかたねぇけど,なんだか“鞭”“ムチムチ”って,スーツ着た財津一郎じゃないんだからさ」
 「まあ伸浩は,おれらを手なずけようとしてるわけじゃないし」
 「そりゃそうだ」
 結局,野良猫にお手をしこむという徹の試みはそこから先へは一歩も進まなかった。


12月19日(日) CDDB  Status Weather曇り

 今日の日記です。

 OS X10.3.7にバージョンアップした途端,思いっきり立ち上がりが悪くなり,Mailのもたつきも最悪の状態になった。ネットで紹介されていたDNSサーバを手動で打ち込むという方法で急場を凌いだけど,インストールする前,何だか嫌な予感したのだよな。

 久しぶりに実家へ行った。ミステリマガジンの70~80年代のBNから,矢作俊彦に関するものを引っこ抜いてきた。(これについては後日)引っ越しの際,CDはすべて持ってきたと思い込んでいたのに,引き出しの奥に残る数十枚を発見した。筋肉少女帯の『シスター・ストロベリー』,XTC『GO2』あたりは,なぜ持ってこなかったのか判らないけれど,あとはマグマやらスキニーパピー,ペル・ウブ,グルグル,イボイボ(YBO2)などなど,今更どうでもいいものばかり。

 なかに1枚アルケミーレコードから出たアルバム『愛欲人民十二球団』があって,これだけは持って帰ってきた。コピーは「関西の謎,ここに極まる! アルケミー・アーチストによるスーパー・セッション・アルバム登場!」。裏ジャケットにはSTARRINGとして以下のクレジットがある。

 1.広島カーブド・エア
 2.ヤクルトスワンズ
 3.中日トロイメリッシュ
 4.阪神タイガース・オブ・パンタン
 5.横浜大洋闇夜にホエールズ
 6.読売ジェントル・ジャイアンツ
 7.阪神ブレイン・チケット
 8.日本ハムファウスト
 9.近鉄バッファロー・スプリングフィールド
 10.ロッテオリビア・ニュートンジョン
 11.西武ライオネル・リッチー
 12.南海ホークウインド
 13.アストロ球団
 
 10~12のタイトルは絶品。内容はプログレとノイズ,お笑いが入り混ざったものだ。で,何が驚いたといってCDDBにこのアルバムのデータが登録されていること。1?13が曲名になっていて,アーティストがすべてVarious Artistsとなっており,またジャンルがすべてPopなのも,洒落なんだろうか。


12月23日(木) Yesterday's Man  Status Weather晴れ

 北原さんは,その頃勤めていた会社のOBだ。先代社長のもと,羽振りのいい時代を経験しているだけに,長男が後を継ぐとすぐさま見切りをつけ,姿を消したという。私とは入れ違いだったので,そういった経緯を聞いたのはしばらくたってのことだ。
 ときどきフラリとやってきて,社長と世間話をしたり,私たち相手に山っけたっぷりの胡散臭い“いい話”を振って回った。
 ポンセチアの鉢植えを持ってきて「海外から輸入してるんだけど,これがいい金になるんだ。ここにも置かせてよ」とか,「バンドブームで,また広告がバンバンが入ってきてさ,今,バンド雑誌に手を出さない考えはないよ」。いつも北原さんのまわりには“いい話”が転がっているような具合だ。社会に出て程ないころだったけれど,彼の“いい話”が話半分であることは想像がついた。

 「会社にいた頃,どこで何をしているか判らない,まったく信用の置けない男だった」と,同じ話を何度か社長から聞いたが,決まってその後,「営業はきっちりやったからな」と,煮え切らない態度だった。社長が後を継いでから業績は下がる一方。北原さんがいた頃を,社長も覚えているだけに,条件さえ合えば戻ってきてほしかったのだろう。それとなく何回か誘ったようだけれど,体よく断られたであろうことは,こちらもたやすく想像できた。

 夕方,いつものようにやってきて,「飲みに行かないか」と誘われ,ついていったことだけは覚えている。場所は新宿ゴールデン街だった。
 「ゴールデン街って知ってるだろう。有名だよな」
 「ええ」
 私にとってそこは,矢作俊彦いうところの,才能のない奴らが愚痴をいうたまり場,という認識しかなかったので,あまり乗り気がしなかった。お元気な頃の田中小実昌氏を見かけたのと,狭いその店の店主が,とにかく納豆をかき混ぜていたことしか記憶にない。もちろん,北原さんと二人だけで何を話したのかなんてまったく思い出せはしない。
 そこからタクシーを拾って早稲田通りを下って,落合あたりの小料理屋に流れた。実はこっちのほうが馴染みだったようだ。
 「おれらが若い頃はさ,毎日仕事が面白くてさ,そりゃ寝るのさえ惜しいくらだったんだぜ」
 「はあ」
 「今,あの会社,面白くなさそうじゃない」
 「そうですか」
 「やれることあるのに,あの息子が社長じゃなあ。仕方ねえんだけどさ」
 やはり,何を話したかは覚えていない。

 それからしばらく,今度こそ本当に北原さんはいなくなった。連絡はつかず,上司は「何か事件にでも巻き込まれたんじゃなければいいけどな」。

 あの日,終電を乗り過ごしたのだから,夕方から日付が変わるまでだ。私たちは何を話したのだったろう。


12月25日(土) ライヒ  Status Weather晴れ

 今日の日記です。

 どうしたわけか,この時期になるとCDを買いたくなる。フィリップ・ヘレヴェッヘ指揮のフォーレ『レクイエム』(1883年譜)をはじめて聴いたのは10年以上前の年末だったはずだし,プリファブ・スプラウトのベスト盤を手に入れたのはそれから1年を経てのことだと思う。
 巷の雰囲気に感化され,CDをあたるのに手頃なのだ。

 久々に新譜で買ったのはスティーブ・ライヒ『ニューヨーク・カウンター・ポイント/エイト・ラインズ/4台のオルガン』(2000年)。「エイト・ラインズ」ははじめて聴いた。改変前,「八重奏」のころの演奏は20年くらい前にNHK FMで放送され,その録音テープはどこかを探せば出てくると思う。弦とピアノの絡みが,まるでチェンバー・ロックみたいだと感じた感覚が甦る。カウンター・ポイント・シリーズは,よく聴く回数からすると,バーモント,ニューヨーク,エレクトリックの順。この演奏でも,それは変わらないだろう。
 CDが納められているケースの台裏に,カウンター・ポイント=駅の写真が使われていた。作り手の思い入れなのだろう。


12月26日(日) ハヤカワ  Status Weather晴れ

 矢作俊彦の小説家としてのデビュー作が早川書房の『ミステリ・マガジン』に掲載されたこともあって,かなり多くの原稿を同雑誌に書いていただろうと,古本屋で漁ったことがある。ところが,初期の短編,二村永爾シリーズ三作,ダディ・グース画による『長いお別れ』以外には数えるほどしかなかった。

 一編は,後に『ブロードウェイの自転車』収載の短編「レノックスヒル・ホスピタル」としてまとめられる連載エッセイ(前後編)。もう一編はダディ・グース名義による宍戸錠を讃える短い原稿。あとの残りはジョン・ル・カレに関する原稿とインタビューだ。
 1981年7月号に掲載されたインタビュー(稲葉明雄氏がインタビュアーだったのだろうか)は痛快なフレーズが飛び交っている。

 「リュウ・アーチャーって本当に横浜でシープ乗り回してチューインガム配っていたアメ公と同じなんだよね。GIなんだよ,あいつ。リュウ・アーチャーって男を見てみな。あの俗物性,あれみんなGIだよ。そのくせ深刻に世の中のこと考えるんだ,馬鹿だから。それでおせっかいにも養老院とか孤児院にキャンディーもってやってくるんだよ。そのタイプの人間だろう。あいつらの慈善というのはいつも傲りたかぶったものがあってさ。あいつが不良少年を見る目を絶対に許しておけないのは,キャンディーをもって,感化院にやってくるいい進駐軍の目だからだよ。」

 もう一方は出だしは,こうだ。
 「『何ごとにも手続きが必要だ』というのが,ワシントンで日毎『くそったれの』日本国通産官僚とやりあっている私の友人,ジミー・オコーナァJr.の口癖だった」(1987年7月号,p.127)
 
 判断がつかないまま,こうしたものいいを丸暗記してしまったためだろう。今でも,文章のリズムをなぞってしまう。

 ジョン・ル・カレについては,多くを語らない。今年,雑誌『BRUTUS』に掲載された矢作氏のコメントを読んで快哉を叫んだ。決して眉間にシワを寄せていたのではなかったのだと。

 雑誌との関係を遡ると,「週刊漫画アクション」以外は,70年代後半の「月刊プレイボーイ」,80年代前半の「スタジオ・ボイス」,それ以後は「NAVI』(本当は,大川悠氏が編集長の頃に特化したいのだけれど)しか,この小説家を?まえることができなかった。


12月29日(水) 王様の気分 2  Status Weather

 日がなキーボードで曲の断片をつくっていたころ,ときどきの感覚がつくったフレーズに露骨なほど反映されていた。以前にアップした曲「王様の気分」は,デイブ・スチュワート(が書いた『楽典』)とともに, テリー・ギリアムの映画『フィッシャーキング』に影響を受けて出来たものだ。

 二日酔いでもないのに最悪の気分が数日続いたのは,『シラノ・ド・ベルジュラック』上映最終日にル・シネマまでいったのに満員で入れなかったことがきっかけだった筈。何だか,うまくいかないことが続いていた。煮詰まったわけではない。ただ,晴れやかとは決していえない気分。帰りにレンタルビデオ店に寄り,『サボテンブラザーズ』『バロン』『フィッシャーキング』を借りた。いまだに,この3本をひとくくりにして語ってしまうのは,たぶんそのせいだ。

 テリー・ギリアムの映画で俯瞰のショットが印象に残ることなど滅多にないのだけれど,この映画では俯瞰で描かれた,いくつかの“カウンター・ポイント”がやけに強烈だった。曲のリフは,たぶん『楽典』よりもカウンター・ポイントのイメージに影響されたのだと思う。
 ついてに歌詞までつくり,会社のバスルームシンガーに「歌ってみないかね」と誘ったものの,歌詞の出来がひどかったのと,リフだけでメロディラインを考えていなかったので,あっさりと断られた。後に,歌詞の内容が,当時,彼女が抱えていた色恋沙汰に近い内容だったので気持ち悪かったと聞かされた。いずれにしても歌詞は大したものではなかった。

 昌己がドラムを叩き,俊介がベース,私がメインのリフを弾いた録音がとってある筈だが,これも見当たらない。

 曲がまとまりはじめたおかげで,私はたやすく楽になった。『シラノ・ド・ベルジュラック』が終わって,ほんの数日のできごとだった。


12月30日(木) ふもれすく  Status Weather晴れ

 「僕のようなダダイストにでも,相応のヴァニティはある。それは,しかし世間に対するそれだけではなく,僕自身に対してのみのそれである。自分はいつでも自分を凝視めて自分を愛している,自分に恥ずかしいようなことは出来ないだけの虚栄心を自分に対して持っている。ただそれのみ。もし僕にモラルがあるならばまたただそれのみ。世間を審判官にして争う程,未だ僕は自分自身を軽蔑したことは一度もないのである。」

 辻潤「ふもれすく」(辻潤全集第一巻,p.395,五月書房,1982.)のなかの一節。

 卒論に必要な文献を探しに神保町へ出たものの,全巻揃いで,かなり安くなっていた全集を買ってしまった。時間だけはあったので,部屋で手持ち無沙汰にページを眺めていると,このフレーズが目に留まった。他には,安全第一の由来だとか,どうでもいいことしか覚えていない。
 ひとたび,こんなふうに生きていこうという思いを抱え込んだならば,たとえ末路がいかにあろうと,その人生は素敵なものなのだろうと感じた。

 それから,かなりの時間が経った。
 同じこのフレーズを眺めていると,自分がどこに向かっているのか,考え込んでしまうのもしかたあるまい。



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