2005年3月
03月02日(水) 音楽と意図 |
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痛みの記憶その3くらいまで思いめぐらせていたのだけれど,同僚の「ターザン山本!の連載,単行本になりましたね」の一言に,書店に駆け込み買ってしまったのが『ヒットチャート考現学! 音楽と意図』(ターザン山本!,インフォバーン)。 村上隆との対談は圧巻でした。糖尿病を語るターザン山本!は,譬えが対象と取って代わってしまうほど説得力がある。比べるのも変だけど,最近読んだ『隔離という病い』(武田徹,中公文庫)に,胸を打つ箇所がほとんどなかっただけに(実のところ,この本はトンデモ本の類いではないかと感じてしまったほど),なおさらインパクトがあった。 タイトルは雑誌「音楽と人」からきたのだろうか。 糖尿病(つまりは過剰かどうか。もちろんカロリーだけではなくて)で物事の本質に迫るあたり,目から鱗が落ちた。確かに,まわりにいる糖尿病のオヤジたちは総じて,過剰なものをもっている。それは時に,いやしばしばはた迷惑なのだけど。 で,悪いものをたとえるとき,ターザン山本!は「しょっぱい」というのだけど,これはもちろん糖尿病が発させるのだろう。 |
03月04日(金) 読書中感想文 |
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物語と小説の違いを,「それから」と「なぜ」にとたえて説明したのは辻邦生の『小説への序章』(だったと思う)。さらに,「なぜ」という問い自体のカメレオン的性格,つまり,しばしば,さまざまな「どういう理由で」に置き換えて説明をつけようと態度と分ち難くあること,も,その本のなかで腑に落ちた。だから,「なぜ」という問いに答えなどありはしないのだ,と。 ノンフィクション作品は,しばしば「どういう理由で」に嵌り込んでしまう。ただ,そこで何事かを説明するために用いられる道具の多くは,生い立ちだ。さらにしばしば,それはインタビュー形式で挿入される。ところが,インタビューを受ける者が語るのは自分を主人公とした物語。私には,それで「どういう理由で」が説明されるとは,どうしても読めない。反対に,辟易してしまう。曰く,安手の物語なんぞに付き合うつもりはない。 手持ちの本を読み終えたので,本屋で買ったのは『こんな夜更けにバナナかよ』(渡辺一史,北海道新聞社)。筋ジストロフィーを抱える鹿野氏と彼のまわりのボランティアのかかわりをルポしたもの。 プロローグから第一章は,ページを捲るのがもどかしいほど,面白い。ところが,第二章に入ると途端,全体が「どういう理由で」に絡めとられる。この章は「介護する学生たち」にインタビューし,一人一人のボランティア像を浮き彫りにしていく箇所だ。(かなり短絡的にいってしまうと) 猪瀬直樹が20年以上前,『ニッポン凡人伝』(?)で,そうした物語を聞き出しはじめた頃は,めずらしさもあって読んだけれど,やはりあの手法は絡め手だと思う。 とはいえ,これからどんなふうに進んでいくのか,半ば期待しているのだ。 |
03月09日(水) ノンフィクション |
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最近の日記続きです。 『こんな夜更けにバナナかよ』(渡辺一史,北海道新聞社)を読み終わった。第三章以降,妙な物語指向や,徒にインタビューで場をもたせるような書き方は消え,淡々とすすんで第六章。著者は,私が先の日記で指摘した点など承知の上だったようだ。親から離れ,それでも在宅で自立した生活のありかたを模索する筋ジストロフィーの患者さんと彼を取り巻くボランティアの関係を描く術を探していたのだという。 ただ,エピローグまで読んでも,物語のほうへと横恋慕してしまいがちな描き方は消えることがなかった。もちろん,そのために460ページを費やしたこと,それだけでも貴重な記録であることに代わりはないのだけれど。 養老孟司の物言いではないけれど,動いている場で,立ち止まる時間もなく次から次へと起るものごとに対峙するダイナミズムを,いったん止めて描くことはできはしない。NHKのドキュメンタリ番組のように,登場人物を据え,彼らに物語らせることで,起きているもの/ことを,一方向から照らすことは出来るかもしれないが。 1980年代,『私戦』『誘拐』『不当逮捕』『警察回り』『疵』あたりまで,本田氏の著作を読み漁った。同じ時期に他のノンフィクション作家の作品も読んでみたけれど,ほとんど関心しなかった。何が違ったのか説明できないのだけど,決定的に違ったのだ。その後,80年代の終わりに吉田司の著作に出会うまで,ノンフィクションというと本田靖春氏の名前しか浮かばなかった。 先日,本田氏の訃報を聞いたばかりだからだろうか。この本を読みながら,なぜか本田靖春氏の著作を思い浮かべた。 |
03月12日(土) QY10 |
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まだ,徹が彼女と知り合う前,つまりは週末に私たちとスタジオに入る妨げがなかった頃のことだ。 最初の何回か,徹はウクレレを弾いていた。もちろんピックアップは付いていない。だからマイクのシールドを直接ぶち込んだミキサー上で,他の楽器とのバランスをとっていた。ところがドラム以外,つまり私と和之は,スタジオ内に据えられたモニターからのバックよりも,頼りにしているのはアンプの音だ。 お互いに今ひとつ納得がいかなかった。曲をしっかり固めるという大前提はさておき。 徹にしてみれば,練習中,あまりにモニターの音が聞こえづらい。私と和之は練習中はでかい音なのに,記録用に録音したテープでは演奏中の感覚とかなりに違う音のバランス。毎回,音のバランスの悪さには慣れていた昌己は多くを語りはしなかった。 ドラムは別として,この問題,ウクレレをアンプを通さないことには解決しようがないことはおおよそ見当がついた。スタジオに入るごとに音だけは大きくなっていったし,徹なりに悩みもしたのかもしれないが。 そのうちに,ウクレレを持ってこなくなった。 発売されたばかのヤマハQY10を携えてきたのは,そうした経緯があって後のことだ。単行本ほどの大きさに,シーケンサと音源が一緒になったこの楽器に,私たちは一気に嵌った。連句のように,各人つくったパターンを繋げていったり,プリセットされたフレーズを加工したり,スタジオへ入ることなく,徹の部屋でそうした作業ができたので,週末は徹が住む都下へ集まった。 各トラックのバランスもコントロールできるので,スタジオでそのままミキサーに通せば,他の楽器ともそれほど違和感なく合わせられた。 徹がつくってくるデモ(トラック)は,それまで私たちがスタジオで出たとこ勝負で音を出していたものよりも,(曲のはじめから終わりまであるので)整っていた。 その後,KORG T3と延々と同期をとっていったCola-Lのスタイルは,実のところQY10からスタートしたのだ。 |
03月13日(日) QY10 その2 |
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徹がヤマハQY10を操作し,昌己がベース,和之がウインドシンセ,私がギターという編成でスタジオに入った。曲名は相変わらず付いていなかったが,徹のスケッチをもとに,皆が手を加えた一曲を固めてみようということになったのだ。 小節のはじめにテンションがあり変拍子(はじめから,この2つは基本だったのだ)のオケに各人のパートをアレンジし加えていった。何度か練習したものの,実のところ私にはピンとこなかった。全体,妙な爽快感がついてまわるのだ。いまだに,それが何に由来したものか判らないが,どうにも居心地が悪かった。そう口にしたものの,「ニューウエーブバンドのアルバムに,こんな曲が一つは入ってるだろう」と,そんな風に説得されながら,とにかく録音するまでに至った。 やたら入りかたが難しい曲だった。私のギターはアレンジがまとまらず(そんなことできるほどのテクニックを持っていないのだけれど),おざなりに弾いてしまった。 意外とまとまった感触をもって,私の部屋でテープを聞き直すことにした。ところが,曲が進むや,私たちの顔は苦笑いに代わった。 「んー,フュージョンっぽいな」 「いや,これフュージョンだね」 聞き返すこともなく,この曲のことは以後,一度も触れられることがなかった。 その後,QY10が活躍したのは和之の結婚式でポール・モーリアの曲に適当な歌詞を付けて歌ったときのカラオケとして。確かにこのときは重宝した。伸浩を加えて,4人でQY10をそろえ,クラフトワークに似せようかという案もあったのだけれど。 QY10のデータを準備するため,楽譜を買って徹の部屋に集まり,各人が歌う曲を決めた。半日以上かけて,それぞれが担当箇所の打ち込みをして,歌詞をつくった。内容はともかく,想像以上に手がかかっていたのだ。 なのに,結婚式であまり評判は芳しくなかった。席で聞いていた喬史は「ボーカルがなあ。あんまり聞こえなかったぞ。おれが歌ってやればよかったな」 まあね。代わり映えしないと思うのだけど。 努力が報われない行為とは,まさにこういうことをいうのだ。 |
03月14日(月) あ・じゃ・ぱん |
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1997年の年の瀬も近くなったころ,突然に矢作俊彦の『あ・じゃ・ぱん』(新潮社,上下刊)が刊行された。以前記したけれど,本書の体裁は必ずしも読みやすいものとは思われず,出だしからしばらくすると,連載時のインパクトは薄れていたので(構成がとても練られていたので,かえって勢いが感じられなかったのかもしれないが),読み終えたのはかなり後になってからだったと思う。ところが,紙媒体での評判はやたらと高かった。 書評の一部は,同氏の(放置気味)HPで紹介されているが,それら以外にも「週刊読書人」1998年1月23日号第1面(評/野谷文昭)や,「SPA!」で福田和也との対談も組まれた(これは探せばどこかにあるはずだ)。 で,月号は不明だけど,「鳩よ!」にもロング・インタビューが掲載された。実はこの野崎正幸氏によるインタビューは,クレジットはないけれど同HPに“インタビュー”として掲載されている内容の元。 久々に読み直したら,「2刷で修正が入った」など,やっていることは変わっていないのだ。いやはや。 基本版面やフォントなどは,現在,角川書店で1冊にまとまったもののほうが遥かに読みやすいと,私は思う。実際,角川版で読み直したとき,「こんなに面白かっただろうか」と感じたことを覚えている。 |
03月15日(火) 昨日の今日 その1 |
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結婚式のあとの食事会は,喬史に仕切ってもらうよう頼み込んだ。私の少ない友人のなかだけれど,面倒見のいいことにかけては一,二を争う奴なので,もちろん二つ返事で受けてくれた。 家内と会社帰りに待ち合わせ,そう告げた。 「会って段取りはしておいたほうがいいんじゃない?」 時,式まで1週間。まあ,概ねそんなものだろうと私は高をくくっていたのだけど。結局,「翌日に,今日と同じ時間,場所で」ということになった。 その日の夜,喬史に電話をし,待ち合わせ場所を伝えると, 「適当にやるから,気にしなくてもいいのにさ」 「いやいや,そうもいかないだろう」 ばばあ同士の別れ際の譲り合いのような社交辞令でもあるまいし。 さて,翌日。私と喬史は待ち合わせ場所に揃っていた。ところが家内がやってこない。待たされることには慣れていたので,30分くらいそのまま2人でバカな話をしていたのだけれど,まったく来はしなかった。 「どうせ昨日,飯食ったところで打ち合わせるつもりだったから,先に入ってようぜ」 「待ってなくて大丈夫か」 「昨日の今日だから覚えているだろう」 ところが,事態はとんでもないことになっていたのだ。 |
03月17日(木) 昨日の今日 その2 |
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思えば,こ奴と2人だけで飲むなんて久しくなかったことだ。ついつい飲み過ぎてしまいそうになるほどに,話は弾んだ。もちろん食事会の打ち合わせなど,まったくしなかった。ところが,いつになっても家内は現れない。さすがに心配になってきたので,酔いがまわらないうちに電話をかけるため席を外した。 電話口に出たのは義母だった。開口一番, 「あなた! どうしたの」 それは,かつて耳にしたことがないほど険しい声だった。 「今,どこにいるの!」 「昨日,彼女と待ち合わせたところにいたんですけど」 「向こうからも何度も電話があったのよ。来ないって。時間も時間だからとにかく帰ってきなさいと言ったところなの」 「しばらく待ち合わせ場所にいたんですけど,おかしいですね」 「“これまで,こんなことなかった。なにかあったのか”って,心配してたわよ。電車に乗ったばかりだと思うから,とにかく帰ったころに連絡してください」 まずいことになった。 でも,どうして待ち合わせ場所ですれ違ったのだろう。そのときまで,狐につままれた気分だったのだから,救いはない。 喬史にそんなこんなを説明し,近々打ち合わせをすることして別れた。 1時間ほどして,もう一度電話をすると家内が出た。確かに出はしたものの,おおよそ会話をすることが躊躇われるほど怒りに満ちた声だった。 このまま電話を切ったら怒るだろうな 「どこにいたの」 地の底を這うような声だ。 「昨日の待ち合わせ場所だけど」 「改札のところだったでしょう,昨日」 しまった!!! 習慣とはなんと恐ろしいものだろう。昨日の待ち合わせ場所はいつもと違ったのをまったく忘れていた。 この後,起きたことについて多くは語るまい。 |
03月19日(土) 書評 |
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『THE WRONG GOODBYE』に関して ↓ http://www.so-net.ne.jp/e-novels/hyoron/syohyo/231.html なかなか間口が広い書評だと思う。単に同世代だからかもしれないけれど。 |
03月20日(日) ユン |
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帰宅途中,近くのタイ料理屋で遅めの夕食をとった。シンハービールを飲みながら雑誌を捲る。およそ文芸誌を巻頭から読むことなんてないのだけれど,今年買い始めた「新潮」は3月号が意外と面白かったので,1月号を鞄に放り込んでいたのだ。買ったときは挫折した「特集 文学アジア」が,妙に読みやすいのはなぜだろう。 茄子と生姜のカレーを食べ終えると,コーヒーを注いでくれた店主であるおばさんに尋ねてみた。 「プラープター・ユンって知ってますか」 短編「バーラミー」に記されたクレジットを見せたものの,反応は芳しくない。首を横にふるだけだ。 「面白いですか?」 「こういう小説,私は好きだな」 「面白いのだったら読んでみたい」 といわれて,原著を手に入れても,読めるはずもないんだから。 『地球で最後のふたり』(ソニー・マガジンズ,2004)を手に入れたのだけど,まだ読み始めていない。 ところで,ソニー・マガジンズの翻訳小説のリストを眺めていると,ある時期までの早川書房と共通する匂いがする。玉石混淆はこの場合,褒め言葉だろう。 |
03月21日(月) マネジャー |
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今,指田さんは日枝神社の麓で,小体なレストランを経営しているが,私が会ったころはまだ,鉢山町で雇われマネジャーをしていた。ワンフロア貸し切っても着席で50名は入らない程度の広さの店だった。 教会から決して近いとはいえないし,交通の便もよくない。指田さんと話をしなかったら,その店で結婚式の後の食事会を開こうなどと決めはしなかっただろうと思う。 見た目は,痩せぎすの営業マンのようだった。誰かに似ているのだけれど,誰だか思い出せない,初手からそうした印象を与える押し出しの強さ。話しはじめると,オプティミストと運命論者を足して二で割ったような,実のところ,私が大の苦手とするタイプなのだ。近くにいたらならば,自ずと縁遠くなっていたに違いない。 ところが,初めての段取りを進めるに際しては,こうした人が一人いてくれると,やたらと心強いのだ。もちろん,二人以上いると,収集がまったくつかなくなると思うが。 打ち合わせにいくと,「私たちがすべてやりますから,何もしなくてかまいません」「皆さんの祝福を受けるのがあなたたちの役割です」から,挙げ句に子孫繁栄の一助になるべく云々まで尽きることがない。私は自分で仕切ろうなんて気を,これっぽっちも持っていなかったので,ただただ頷いて,その場は取り繕った。 弟がロンドンから戻ってきて,その翌日。最後の打ち合わせに行ったときのことだ。それまでに私と家内は,概ね打ち合わせは終えていた。裏方で動いてもらう喬史と弟の予定はなかなか調整がつかなかった。この日も喬史は仕事の都合がつかない。指田さんは心配そうに切り出した。 「他の方のときは,1か月くらい前から,ご家族・ご友人と打ち合わせをさせていただくのですが,今回はどうしても都合がつかないということですので,段取りをご説明しますから,覚えてください」 弟の顔は険しかった。眉間に皺を寄せ,目に力が入っていた。負けずに指田さんも一言発するたびに弟を見る。弟は睨み返して返事する。 こ奴も,こういうタイプ苦手だったろうか。と,しばらくは不安をポケットに忍ばせていたものの,話を聞きながら二人の睨み合いを見ていると,思わず吹き出しそうになった。力が入りすぎなのだ。 指田さんも,いつも以上に畳み掛けてくる。それにいちいち目で答える弟。不良の喧嘩直前みたいだ。 家内を見やると同じく笑いをこらえている。 打ち合わせを終え,店を出るやいなや,私は弟に尋ねた。 「おまえさ,なんであんなケンカ腰で話聞いてたんだよ」 「はぁ?」 「睨んでたじゃないか,指田さんをさ」 段取りよりも何よりも,その理由がまず聞きたかった。ところが,睨んでていた理由はまったく違ったのだ。 「眠かったんだよ。時差ぼけでさ。目に力入れてないと眠っちゃいそうだったんだ」 |
03月23日(水) 退屈 |
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ケアンズで1週間ほど過ごしたことがある。2日目の午後で,見てまわれる市内のスポットは尽きた。昼食代わりにしようと買ったテイクアウトのラザニアは思い切り冷えていて,なおかつ巨大。不味さ1.5倍という代物で,半分近くは残してしまった。一事が万事,グルマン相手の阿漕な商いばかり。加えてコーヒーは,小説の登場人物でなくても「ドブ泥だ」と,口をつけることが躊躇われるほどひどい味。「旨い豆はみんな輸出しちゃうんだ」という噂がまったく正しく思われた。初手から食事を楽しみにケアンズまで繰り出すわけはないのだけれど。 南半球の秋の始まりは,マリンスポーツどころか観光さえも億劫にさせる。3日目に電車で山腹にある動物園に行くと,あとは目の前の海しか居場所がなくなった。海岸線に沿って走る道の側,日除けとベンチが空いていたので,『シェルタリング・スカイ』の続きを読んでいた。 日中の記憶にあるのはそこまでだ。もしかするとホテルから出なかったのかもしれない。残りの日々,ひたすら退屈だった。夜は「日本語を勉強したい」というバーテンダー相手に,適当なフレーズを教授して過ごした。無茶苦茶に酔いがまわったのは,箍をはずしたからではないと思う。 だから,未だにケアンズというと,退屈という印象がついてまわるのだ。 |
03月26日(土) 偽装 |
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私鉄駅の券売機の硬貨投入口に,こんなシールが貼られていた。 「偽装硬貨は使えません」 親切心からとは思えないし,いったい誰が何を思って,こんなものを造ったのだろう。券売機の上,「新札使えます」と記されたパネルと同じレベルの意味内容じゃないか,これじゃさ。 電車内のアナウンスはもとより,町中にはこれと似たように,烏合の衆から押しつけられたハタ迷惑な,つまりは一方的な不安感だけを反映した馬鹿馬鹿しい様が闊歩するのは人口に膾炙する通り。今更,語ることじゃないとは思うけど,いやはや,これはVOWネタだよな。 |
03月27日(日) 本 |
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父親や母親が本を読んでいる姿を見た記憶はない。思えば二人とも,中国人のように新聞ばかりを読んでいた。その頃,わが家の本棚にあったのは日本文学全集と百科事典くらい。親からキンダーブックは買い与えられたものの,子どもの頃,読みたい本は自分で探す他なかった。 小学校に上がって後,しばらくは昆虫図鑑だとか,こども百科事典を買ってもらい,飽きることなく眺めていたけれど,小説はほとんど読まずに過ごした。読みたいとも思わなかった。ケストナー,リンドグレーンはもとより,国内の作家の作品でさえも,こと児童文学と呼ばれる小説に関して私が疎いのは,図鑑ばかり眺めていたためだと思う。ホント,読んでこなかったのだ。 娘の本探しを通して,ここ数年,児童文学に触れざるを得なくなった。小学校に上がるまでは,それでも名作といわれているものからあたりをつけ,また,自分では読めないけれど,たとえば内田百間の『王様の背中』などは読んで聞かせたりした。何冊かの絵本はとても面白かったけれど,名作といわれても,面白いものもあるし,つまらないものもある,というのが実感だった。 昨年,小学校に入ったあたりから,自分の経験が頭をもたげはじめ,ついつい図鑑を買ってしまう。フレーベル館から出ている「ふしぎがわかるしぜん図鑑」「ふしぎをためすかがく図鑑」シリーズは,子どものためとかこつけて買ったものの,私にも十分面白い。たぶん,私より若い親にしてみると古くさい造りだと思われてしまうかもしれないけれど,イラストやら写真と文章のバランスが,こども百科事典を彷彿とさせ,とても読みやすいのだ。 先日は石井桃子の作品を読み始めた。これからは,ポリアンナの“よかった探し”など,社会人になってから知ることになった諸々の物語を,読むことができるかもしれない。 |
03月29日(火) オーストラリア |
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くだらない話をしていると,一つや二つVOWネタが混ざることがあった。あまりのくだらなさに忘れられないのは,大槻ケンヂにならえば,ある“おもこ”シリーズだ。(私はただの一度も雑誌「ビックリハウス」を読んだことがなかったので,カーツ佐藤だとか“おもこ”だとかは徹を経由して知った) ある日のこと。徹が買ったばかりの『VOW』をもってきた。話すそばから口元に笑みが浮かんで,私たちは妙にしらけてしまった。 「これこれこれ」 差し出されたページには(たぶん)こんな一文が記されていた。 「僕の弟は,ずっと,若林豪を“わかばやしオーストラリア”と読むものだと思っていました」 「なんだよ,わかばやしオーストラリアって! アッハ」 ズバリ喬史の笑いのつぼに嵌ったらしい。いや,喬史だけではない。しばらく私たちは,わかばやしオーストラリアのバリエーションで大いに盛り上がった。平和なものだ。 |
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