2005年5月
05月04日(水) 道 |
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そのうち車窓に田畑が見えてきた。 「ほら,田んぼと畑ばっかりだ」 娘はしばらく眺めた後,ポツリという。 「なんでいろいろな形があるの?」 「耕している人が違うんだろう」 「でもすごく凸凹しているよ」 確かに極端に急な角度で曲がってた畦道で隔たれた田は,持ち主が違うとは思われない。 「あれも,ひとつひとつ耕している人が違うの?」 「んー,一緒の人かな?」 「道をとっちゃえば広くなるのにね」 さて,田畑の畦道は,どうして曲がりくねっているのだろう。 |
05月06日(金) 仕事 |
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平成のはじまり頃のこと,私が会社帰り高円寺の本屋に行くと,そこで徹と会った。 「どうしたんだよ。帰り道じゃないだろう」 徹が尋ねる。 「古着屋で買い物しようと思ってさ」 「デザイナーズブランドを扱ってる古着屋も出来てきたしな」 「そんなの買いにきたんじゃないけどね」 先週見つけた綿のジャケットを手に入れるため,再び早稲田通りを下ってきたのだ。 「国分寺の古着屋,この前潰れたぜ。高円寺じゃ考えられないけど」 「増えこそすれ,確かに減りはしないよな。で?」 「今日は会社,休みだったから午後から来てたんで,もう帰りだ」 「平日に休みかよ。裕福なものだ」 「仕事の夢見ちゃってさ」 「夢だろ」 「夢だからさ。起きて仕事やって,寝て仕事の夢見てたら,一日中仕事してることになるだろう」 「ならないよ,夢なんだから」 「決めてるんだ。夢で仕事が出てきた朝は会社休むことにさ」 |
05月07日(土) 年 |
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洋楽の感触が毎年,違って捉えられたのは,せいぜい1985年くらいまでのこと。その後は,洋楽を熱心に聞かなくなったし,面白くなったのはもっぱらライブハウスで聞くバンドだったので,感覚も何もあったものではない。だから意固地になってしまうのかもしれないのだけれど,1982年と1983年では,まったく洋楽の感触は違った。 たとえばXTCの“English Settlement”は1982年と分かち難く記憶されていて,それが仮に何かの媒体で「1983年発表」とクレジットされていたとしたら,間違いだと気づくのは当然のこと,その媒体の信用性をまず疑うだろう。ある時期までは,そうやって媒体の信用性をはかっていたように思う。 ところが最近,そんなこと気にしていたら,どこからも信用を手にできない状況になっている。特に略歴表記の傍若無人さは,いったいどこで間違うのか困惑してしまうほどだ。たとえば,矢作俊彦の『あ・じゃ・ぱん』(新潮社)が刊行されたのは1997年11月のことで,発売日当日に買ったのだから,それは間違いない。なのに,いくつもの記事で1998年になっているのを見た。としてしまうと,「文学界」で「ららら科學の子」の連載がスタートした1997年と交差して,この小説家が単行本校了間際に連載を落とさないなんて,現実にはありえない姿が現れてしまい,どうにも落ち着きが悪い。 何事も鵜呑みにしなければいいことなのだけど。 |
05月09日(月) 自転車輪と見る夢 |
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最近の話です。 娘が自転車に乗るとき用のヘルメットを買いに,2人して近所の安売り量販店へ出かけた。当然,売り場には自転車が置いてある。小学2年になった娘に16インチの片方補助輪付きの自転車は最近,傍目にも小さい。まだ補助輪をはずしては乗れないので,とにかく16インチで練習しようと言ってきたものの,店頭で22インチや24インチを見ると,乗りやすそうな感じは歴然としている。 ここで選んで買ってしまうことに唯一あったためらいは,何でも安売り量販店で揃えてしまう心根への抵抗のようなものだった。 「ここじゃ,乗って大きさを確かめられないから,自転車屋へ行ってから考えよう」 ヘルメットだけ買って,そこから10分ほどの距離にある店へ向かった。 「どうぞ,見ていってください」 店のおばさんは奥で組み立てに追われているようだった。種類は安売り量販店と代わり映えしない。値段は大差ないというのが正直なところ。ただ一台一台が輝いていた。そこに娘が 「さっきのお店の自転車に付いていたバッグがないね」 小さく言う。 「わたし,バッグの付いた自転車がいいな」 私には,ただディスプレイされただけのものもピカピカに磨かれているようすが強烈で,そんななこと気づきもしなかった。「同じだよ」私はかごのなかを探したけれど,バッグは付いていなかった。 「さっき見たのと種類は同じだよ。どれくらいの大きさがいいか聞いてみようか」 「うん」 「でも,バッグのことは言っちゃだめだよ」 「なんで」 情けないことに後が続かない。 「あのバッグは自転車の大きさと関係ないから」 初手から,それで娘が納得するとは思わなかった。それでも私が言いよどんだそのことに,秘密のようなものを感じ取ってはくれたようだ。 おばさんは大きさや機能を判りやすく説明してくれた。たとえば,最近,女の子用の自転車で人気がある色はスカイブルー,グリーン,オレンジ,ピンクの順なのだそうだ。そう言われると,町中で見かける自転車の色にスカイブルーが多いことに今更ながら気づく。 「パパもママも安いほうがいいんでしょう。どっちが安かったの」 「ヘルメットを買った店。でも,それは同じものを買うんだったら安いほうがいいという意味なんだけどな」 「同じ自転車だったんでしょ」 「まあね。でもさ,同じじゃなところだってたくさんあると思うよ」 そう言いながらも,相変わらず説得力がないことは明らかだ。 「バッグが付いてないこと?」 「そんなことじゃないんだけど」 それから紆余曲折あったものの,娘が気に入った種類と色の自転車を,その店で取り寄せてもらうことにした。(つづく) |
05月11日(水) 自転車輪と見る夢 その2 |
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1週間後の午前中,自転車を受け取りに行った。 店の奥に組み立てられた自転車を見て,娘は乗れないことを忘れたかのように近づいていく。 「すぐに慣れますよ」 店のおばさんは娘が自転車に乗れないことを知らないのだ。 「練習しないとな」 私が言うと,大きく頷いた。 「実は片方の補助輪が,まだとれないんです」 「あら」 おばさんは少し戸惑ったようだったがすぐに持ち直し, 「じゃあ,こっちへ来てみて」 店の奥に大きくコの字型に広がったスペースに自転車の押していく。私たちはその後ろに続いた。そこで,スタンドを立て,起こす方法の教授からはじまり,ライト,ブレーキなど,一つひとつの機能と使い方を,娘自身に行わせながら教えてくれた。 「こっちから跨がってみようか」 手で右のペダルを上に持ってきて,ハンドルの左側から乗るように促す。 「覚えておいてね。乗るときも降りるときもこっち側からね。忘れないように乗る側のハンドルにテープを貼っておくから,慣れたら取ってね」 私は16インチの自転車を買ったときのことを思い出した。店員がペダルを組み立てて,盗難保険のシールを貼り,私がお金を払った瞬間,その自転車は娘のものになった。そこから先,店員はまったく関知しないとでもいわんばかりにビジネスライクな態度だった。それはそれでさっぱりしていたのだけど,このおばさんと比べてしまうと,自転車を売ることに伴う諸々を伝えるそのことにこそプロフェッショナルの所以があるのではないかと感じた。(つづく) |
05月12日(木) 自転車輪と見る夢 その3 |
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「このあたりで自転車の練習するのだったら,駅の手前を右に曲がって,今時,派出所って感じの交番があるのご存知ですか」 「ええ」 「あの角を右に曲がった通りが,ゆるい下り坂になっていて自動車が通らないんです。ペダルを漕がないで,バランスをとる感覚つけるのにいいですよ」 それから数日。自転車に跨がった娘の肩に手を添えてバランスを調整し,家の近くで練習を続けた。すぐに,ほとんど指先の力加減で支えられるほど自転車に乗れるようになったものの,一人で走るにはどうにも恐怖感が先走るようだった。乗り始めるときは,自転車店で教わった通り,右のペダルを上げて左側から乗る。私とは違い,いたって原則には忠実なのだ。 駅から踏切を渡り,家の前を過ぎて川沿いに道を下ると線路に平行して走る道路に出た。もう娘の肩はほとんど私の指先から離れている。運動不足の私にはそろそろ伴走するのは草臥れてきた。走るスピードを落とすと,娘の肩はすっと私の手から離れ,そのまま距離を広げていく。 「乗れるようになった」 ブレーキと足を使ってふらつきながら止まると,娘はそう言う。自転車に乗れるという自信が,まるで花井カオルのように一気に膨れ上がる。 |
05月14日(土) 読点 |
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『鉄人』(小学館)を始めから読み直していて気づいたのは,この漫画,吹き出し中はじめ。台詞の最後がすべて読点で止めてある。同じ時期に連載されていた『気分はもう戦争2,1』は,そんなことしていなかった。編集者の趣味か何かは判らないけれど。 日本にある建物を模した旧満州国の建物(国会議事堂などなど)が,鉄人の登場で崩壊する場面があったことに気づいた。 |
05月15日(日) 生い立ち |
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アジアを彷徨するバックパッカーが何人も登場するエッセイ集。床屋の帰りに喫茶店へ入ろうと思ったものの手持ち無沙汰だったので,途中の古本屋で手に入れた。次々に現れるのは,私についての物語。「なぜ」旅をしているのか。著者の視点が常にそこに立ち戻ってしまうため,旅先の話よりも日本で感じたあれこれに関する言説がかなり多い。 「なぜ」を問うときに「物語」を連ねられると,たとえそこに「僕には何もわからない」といったフレーズが挟み込まれていたとしても,カフェカーテンにもたれかかる程度の手応えさえ感じられはしない。旅先で知り合った人と話すことは,昔話ばかりではあるまいし。 今,ここにいる「私」を描いて,それが「なぜ」につながるように伝えることは,容易くはないだろうけれど,そうしてまとめられた本は決して多くはないもののあるとは思う。 穿った見方をするならば,語りたい人と,語られることを期待して聞き出す人の出来レースのような印象だ。これは安易なインタビュー集に多い構図で,80年代はじめの雑誌「ロッキン・オン」あたりまで出自は遡ることが出来ると思う。 |
05月16日(月) 1991-1993 |
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1991年9月23日。私と昌己,徹は日比谷野外音楽堂にいた。1988年12月に凍結したP-MODELが3年ぶりに活動を再開する。 さて,野音で開場を待っていて何が興ざめかといって,リハーサルの音がここぞとばかりに聞こえてくることだ。日陰で蚊を避けながらビールを飲んで待っていると,聞こえてきたのは「いまわし電話」だ。 「おお」 「メンバーは誰なんだろう」 「平沢いなかったりしてな」 開演が待ち遠しくて会話に覇気も何もない。陽光を避けてベンチに坐ろうとしたときのこと。 「ベースの音がしないな」 昌己が気づいた。 「シンセの打ち込みじゃねえか。これさ」 確かに,聞こえてくるのはシンセベースだ。 「本番じゃ生ベース入るんだろうさ」 徹がいう。 「それに野音のキャパじゃ広すぎはしないか」 私たちがみたP-MODELのライブでもっともキャパシティが多かった場所は田島が原のフリーコンサートだけど,屋内だとせいぜい読売ホールクラス。埋まるのだろうかと妙なところが心配になってきた。 そして開演。どこから集まってきたのか席は満杯だ。ヤプーズやらロングバケーション,ヒカシューらの演奏が終わり,ついに3年ぶりにP-MODELのライブがスタートする。その間際,「1曲目は“ゼブラ”じゃないかなって感じがするんだ」ポツリと昌己が言った。 アミーガボイスに誘導されてメンバーが登場する。そして声。昌己の予想が2つとも的中した。1曲目は“ゼブラ”で,ベースなしのキーボード2人にギター・ボーカルとドラムという編成だ。初めこそ身体を揺らしていたが,シーケンサをバックにした演奏は何だかぎこちない。 「んー今イチじゃないか」 「そのうち慣れてくるよ」 「次は“オランダエレメント”かな」 2曲目のイントロに続いて”オランダエレメント”が聞こえてきた。アレンジは全然違う。これじゃ飛び跳ねられない。客席は静まり返っている。 「すごいな昌己,2曲とも当ててさ」 そこに,こう囁いたのは徹だ。「やばいぞ,これでおまえ,運を使い果たしたかもしれない」 「ふざけるなよ。こんなので運,使い果たすなんて」 ベースのいないP-MODELの演奏を聞きながら,私たちはそんな話をしていた。しばらく後,私は昌己に聞いた。 「で,次の曲は何だと思う?」 |
05月19日(木) 賛美歌 |
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何年かに一度,教会の日曜礼拝にいくことがある。宗教的背景はまったくない。ただ,知り合いがオルガン伴奏を引き受けているので,気が向いたとき(そんなことは滅多にないのだけれど)広尾まで足を運ぶ。 教会の入り口では聖書と,賛美歌を歌うことになるので賛美歌集が渡される。歌あり,説教あり,お布施(とはいわないだろうけど)ありの1時間半は少なくとも私にとっては日常の延長上ではない。ただ,彼女の伴奏を聞きながら歌集の楽譜を眺めているのは嫌いじゃない。 先日のこと。毎回のように説教を聞き流しながら賛美歌集を眺めていた。と,賛美歌には19世紀はもちろん,20世紀に入ってから作られた曲もあることとに気づいた。加えて,日本人が作曲した賛美歌もある。確かにこれまでも,演歌も吹っ飛ぶマイナーコード攻撃の連続には,「これはピーター・ハミルみたいだ」「こっちはセックス・ピストルズ」といった具合に,英国のロックとの類似点を感じてはいたものの,当の賛美歌自体,必ずしも古い曲ばかりではなかったのだ。 というようなことを知人に言ったところ, 「教会によっては“賛美歌21”を使っているところも増えてきてるんですよ」 「“賛美歌21”???」 何だかセルフカバー曲みたいなタイトルだ。 「若い人が歌いやすいような歌詞や曲でつくられた賛美歌」 「そんなのがあるんですか?」 「だって,うちの教会で歌っているような賛美歌って,メロディも歌詞も古くさいでしょ」 「確かに」 「若い人には,何言っているのか判らないと思いますよ。昔の賛美歌の歌詞って」 なんとも素っ気ない。 「それより,あの教会はオルガンの響きがいいので有名なんですって。ときどきオルガンの音を聞きに礼拝にみえる方がいるんですよ。音の調整は微妙ですけどね」 その日,1階は満席だったので,2階で彼女の伴奏を聞いた。はじめて上がった狭いその階の片隅にエレクトーンと椅子が置かれていた。それは私が子どもの頃,家にあったエレクトーンと,椅子までまったく同じ型のものだった。メンテナンスもしなかったからだけれど,10年少ししか持たなかったように思う。それに比べれば,わが家のKORG T3は何と丈夫で使い勝手がいいのだろう。 私は,エレクトーンを眺めながら,実のところ伴奏も聞かずに,そんなことを考えていた。 |
05月21日(土) 生まれ |
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大枠で「人の生活」について語るとき,14歳とか,71歳とか経年で切り取られることに違和感を覚えたのはかなり前のこと。たとえば「年寄りに演歌」なんて構図は大正生まれに通じるわけないのだし,私が70歳になってぼけたとしたら,演歌聞かされるより,P-MODELが流れたほうが刺激になるのは間違いないだろう。 要は,何年に生まれたかであって,そこから個人史を手繰り寄せて行く作業こそが大切なのだ。生まれて何年経ったかくらいで同類項でまとめることはないと思う。 |
05月22日(日) 紅茶 |
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「お湯は,一度沸騰させて,自分の体温の二倍になるまでさますんだ。それから,はじめて紅茶に注ぐ。何回か教えたはずだったな」 「何分くらい待つんですか?」 「日によって違う」 「じゃあ,どうやってお湯が手頃な温度になったか知りゃいいんです」 「だから,自分の体温の二倍だよ」 「それを,どうして調べるのか判らないんですよ」 「君は,自分の体温がどのくらいか感じとらんのかね」 矢作俊彦『マイク・ハマーへ伝言』(p.121,光文社,1978) 10代の終わり,このフレーズに出会ってからしばらく,体温の二倍とまではいかないものの,紅茶を入れる際には一度沸騰させたお湯をしばらく置いてから注いでいた。 ところが,数年後。興味半分で紅茶に関する文献を手に取ったところ,“沸騰したて”“ポンピング”という単語がしつこいくらいに登場する。同じような記述は紅茶に関する他の本にも掲載っていた。間違っても,“体温の二倍になるまでさます”なんてフレーズはどこにも見当たらない。小説のなかでそう語るのは元英国海軍士官の“提督”と呼ばれる老人だったので,本当は,同じ小説家による「敗れた心に乾杯」(『死ぬには手頃な日』光文社,1982)に登場する,にせ英国人で実際はオーストラリア人“提督”と同じような出自をもっているのかも,などと穿ったみかたをしてしまったこともある。 以来,沸騰したてのお湯をティーポットに注ぎ,ポンピングさせた後,飲むことさらに数年。そうやっていれた紅茶は必ずしも不味くなかったので,小説に倣わず,マニュアル本に従ったことを反省することはなかった。 場所は記憶にないのだけれど,はじめて入った喫茶店で,やたらと口当たりのよい紅茶を飲んだ。よほど値の張る紅茶を使っているのだろう。それにしては一杯500円もしないのはどうしたことだろう。 「いい紅茶の葉を使ってるんですね」 「普通に売っているヴィンテージ・ダージリンですよ」 「どうやったら,こんなやさしい味になるんですか」 「簡単なこと。お湯を少し冷ますんです。お茶と一緒」 なるほど。日本茶と同じか。 再び,少しさましたお湯をそそいで紅茶を入れるようになったことはいうまでもない。 |
05月24日(火) ルーティン |
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角川文庫版の『リンゴォ・キッドの休日』(矢作俊彦)が出た。会社帰り手に入れたので,電車のなかで捲っていると, そいつ という3文字が飛び込んできた。もちろん,これまでの版では“そ奴”と表記されていたことは確かめずとも判る。“また,手を入れたのだろうか”。そのまま読み進めると,新潮文庫版で名が変わった登場人物は,もとに戻っていた。そういえば,目次裏に,早川書房単行本版と同じく Fu-Mei と入っていたし(決して『ららら科學の子』の主人公の妻の名前ではあるまい)。新潮文庫版とは,手を入れて変わった箇所と,単行本にもどして変わった箇所が混在しているようなのだ。 ただ,全体とても読みやすい組版だ。活字は大きくなっているのだけれど,講談社文庫のように間抜けじゃないし,新潮文庫の『嵐が丘』や『陽はまた昇る』のようにバラけていもいない。 半信半疑のまま家に帰って,新潮文庫版と照らし合わせた。 はじめの十数ページを眺めただけで,少し手が入れてある。ただ,これまで“三十年”だったところが“二十年”になっているのは誤植ではないのだろうか。 こんな指摘したくて読んでいるんじゃないのだけど。 7月には同文庫で『真夜中へもう一歩』刊行のアナアウンスも。こちらは,手が入っていてほしい,もしくは思い切って連載くらいもボリュームに縮めるくらいのことしないと,単行本のままだとやや難があるのではないだろうか。 |
05月26日(木) re-mastering |
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音源がレコードからCD主流になって以来,再発されるたびに“ボーナストラック”“リマスタリング”“紙ジャケット”,手かえ品かえ差異化がはかられる。パッケージ信仰など初手からないし,音質の向上に恩恵を受けるような耳をもってもいない。そうした流れに興味を失ってから久しい。 『リンゴォ・キッドの休日』は,連載時をのぞき,これまで4回刊行されている。これをレコードからCDに無理矢理置き換えれば,最初の単行本はレコード,早川文庫版は初CD化(ボーナストラック付き),新潮文庫版はDefinitive Edition,今回の角川文庫版は紙ジャケット+リマスタリング,というと言い過ぎだろうか。 その後,角川文庫版を読み進めると,細かなところで,「あれ? こんな単語使っていたかな」と引っかかる箇所がいくつもあった。単行本に戻ったり,新潮文庫版を捲ると,やはり変えられている。ひとつ2つの名詞や,改行,日本語に相当するカタカナでつけられた英語,どれも些細なのだけれど。 文庫本化に際し,単行本に手を入れ始めると,リマスタリングどころじゃくて,“○○○○2005”式のセルフカバー作品になってしまうことがある。リミックス,12インチ程度に冗長さなら許せもするが,「だったら新しく書けよ」といいたくなるくらいの作品もいくつかあるようだ。 『リンゴォ・キッドの休日』のような手の入れ方は,他に中井英夫の場合しか知らないのだけれど,世の小説家の多くは文庫本化に際し,20数年前に書かれた作品であっても(なおさらに?)丹念に手を入れていくものなのだろうか。もちろん,初手から文章能力に難がありすぎる島田荘司の場合は,だからといって大して意味はあるまい。 まあ,ツヴァイクをロラン・バルトに変えたら,気が付く。 |
05月31日(火) 天使のおそれ |
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「ある話が真実であるためには,それがほんとうに起ったことでないといかんのかね? いや,いい方がまずかかった。関係についての真実をコミュニケートするため,あるいはひとつの観念(アイデア)を例示するためには,だな。ほんとうに重要な物語の大部分は,実際に起こったことについてのものじゃない。そういう話は,過去においてじゃなくて現在において真実なんだ」 グレゴリー・ベイトソン+メアリー・キャサリン・ベイトソン『天使のおそれ』p.66-67,青土社,1992) |
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