2005年11月
11月04日(金) Long Distance Runaround |
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「故郷がとっても恋しい?(中略)ばかな質問なのはわかってるけど。でも,自分の知っているものからあまりに遠く離れてると,疲れるんじゃない? わたし自身ときどきそんな気持になるの,とにかくどっかの穴に這いずりこんで休みたいって感じ。」 バーバラ・キングソルヴァー『野菜畑のインディアン』(p.206,早川書房) 知り合いの何人かが海外で暮らしているけれど,「日本が恋しい」などという話を聞いた覚えはほとんどない。彼,彼女たちが実際,どのような気持ちで日々過ごしているのかなんて聞こうとも思いはしないが,みずからを「帰国拒否症」と命名した一人の心根が案外,的を得ているのではないだろうかと思う。だから唯一,治が20年ほど前,ノイローゼ一歩手前で帰国する直前,送ってきた手紙にそのようなことが書いてあった記憶がなお,鮮明なのだ。(つづく) |
11月05日(土) Long Distance Runaround 2 |
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治がアメリカに渡ったのは,昭和50年代半ばのことだった。何の拍子か自動車の修理工場を経営する叔父に呼ばれ,2つ返事で行くことを決めてしまった。それはまさに“合宿へ行くスポーツ部員か??それよりはもっと思い詰めていたにしろ??せいぜい,雪男を探しにヒマラヤへ登る探検隊員みたいな顔をして出かけて行った”みたいなものだった。彼の突然の渡米は,少なくない友人たちの間でしばらく知られてさえいなかった。だから,もちろん理由を聞いたものは誰一人いなかったので,いきおいPTAのおばさんよろしく渡米の理由をあれこれ詮索した。 「あ奴,英語できはしないじゃないか」 「習うより倣え,か」 「無茶苦茶だな,それじゃさ」 中学を卒業して以来,そうして話すことさえなくなった共通の友人から数年ぶりで電話がかかってきたり(そ奴とは同じ高校に行ったのに,まったく話すことがなくなったのはどうした訳だったのだろう),やけに落ち着きの悪い一時をやり過ごすと,そのうち,それぞれ目先の関心に向き直っていった。 治から紅茶と一緒に手紙が届いたのは,さらにしばらく経ってからのことだ。文面は覚えていないのだけれど,日本語が聞きたいのでラジオでも何でもいいからカセットテープに録音して送ってほしいというコメントが付いていたことは間違いない。 もはや死語に等しい,ラジオ番組の“エアチェック”をし,ただ,それだけ送るのも芸がないと考え,ウォークマン片手に自転車で町場をうろつき,カセットを回しながらあれこれしゃべった。今にしてみれば,友人からそんなカセットテープ送られた日には,そこまでしてアメリカにいるわが身を呪ったことだろう。何が楽しくて,同性の友人からのヴォイスメール,それも自転車に乗っているので,全体に風の音がゴワゴワと被っているカセットを聞き,何がしかの感興を起こす必要があるというのだ。 すでにビデオカメラは発売されていて,友人の一人は手に入れていたものの,そんなもの使おうとは思わなかったので,結果,中途半端な百歩譲っても気持ちのよくないカセットテープができあがってしまった。もちろん私は聞き直していないので何をしゃべったのか覚えていない。 そんなテープをあと一回くらい作って,その後は私も飽きてしまい(だから,当時は信じられないけれど,面白く感じたのだろう。いやはや),エアチェックのテープを数回送ったのだと思う。 治から帰国の知らせが届いたかどうか,このあたりになるとほぼ完全に記憶が飛んでいる。いつの間にか帰ってきていて,カセットテープを話題にすることはもちろんなかった。 後に,数年ぶりの酒の席で,治からそのカセットを人質のように捨てずに残してあると告げられたとき,私は「とにかくあのカセットを捨てるところから話を始めよう」と説得した。たぶん,私が治の身だったら,同じことをしただろうけれど。 |
11月08日(火) We Don't Write Anything On Paper Or So |
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平成に入ってからこっち,このタイトルがニューウェイヴっぽいといってもピントが外れているように思う。ホルガー・ヒラーの曲名より。 |
11月09日(水) Bring Me Closer |
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「しばらく譜を見てひきます。古い教会旋法の一つで,厳格で簡素な典則曲です。それから,調子を変えます。中世期の教会旋法からハ短調へ。ハ短調から変ホ長調へ。ゆっくりと,まったくゆっくりと,パラフレーズの中から新しいメロディーが,からを破って出てきます。単純で,心をうばうメロディーです。ふたりの小さい少女が,澄んだ清い声でうたってでもいるように。夏の草はらの上で。青い空をうつしている涼しい山間の湖のほとりで。??それはどんな分別よりも高い空です。その太陽は,善人だろうと悪人だろうと,煮えきらない人だろうと区別せずに,万物をあたためて照らすのです。」 ケストナー『ふたりのロッテ』(高橋健二訳,岩波書店) シーンの終わりをこのように締めくくることができたら,とても心地よいだろうに。 |
11月11日(金) 通信 |
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今日の日記です。 ネットの接続を光ファイバに変更。こちらは快適なのだけど,事あるごとに変更を躊躇ってしまうプロバイダの対応の悪さに辟易する。このプロバイダのある無料サービスはMacをネグレクトしている。そのことが判った数年前時点で,見切りをつけておけばよかった。 |
11月12日(土) 自慢 |
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朝,台所にいると娘がやってきた。そして一言。 「私,パパの自慢したことないよ」 判った。ただ,それは面と向かって本人にいうことではないと思うのだが,いかがなものだろう。友だちには伝わらないと思うが,たとえば,休日の朝,パパがいかに寝坊しても洗濯機が止まるブザーの音で起き,ごはんを食べる前に干したりすることや,1週間のほとんど,こうやって食事の後の食器を洗っている姿は,友だちの両親に言ってみると,意外と自慢になると思うのだ。 まあ,自慢されなくたって別にいいけどね。 |
11月13日(日) 通行人 |
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最近の日記です。 日帰りの仕事で,北関東の町に行った。 以前に訪れたのは数年前,やけに寂れているなという記憶があるだけだ。JRの駅が町中から外れた場所なのは常なので,駅前の閑散どころか,駅があること自体信じられないような光景は,それでもやり過ごした。ところが,バスに乗り,町中を横断しながら見た,百歩譲っても尋常とは呼びようのない様子はいまだ目に焼き付いている。 確かに私が訪れたのは平日の昼過ぎだ。事務所に戻り,デスクワークに勤しむサラリーマンは,町中にほとんどいなかったのだろう。子どもたちは午後も授業がある日で下校時間までには,しばらく時間が要ったに違いない。でなければ,メインストリートの遥か先まで人の姿が見えないなんて信じられない。 それは何に似ているといって,テレビのリポート番組に映る北朝鮮のメインストリートに最も似ていた。違うのは,行き違う自動車の密度くらいのものだろう。 用事を済ませ,誰一人すれ違う人がいないまま,道に迷いたぶん30分ほど,競艇場近くにバス停を見つけたのは夕方だった。次のバスまで何分あるのだろう。仕事中でも時計を持ち歩かない私にとって,スリリングな数分が過ぎた。 木製のベンチに腰掛けていると,どこからか老人が一人やってきて反対側に座る。数分すると,さらに二人の老人が別々に現れる。皆,今,家から出てきたばかりというような姿で,揃って男性だ。 文庫本のページに目を落としながら,気分はだんだん鬱屈としてくる。もしかしたら言葉が通じないのではないか,そんなふうに思ったのはどうしてだったのだろう。 そして,そうした思いを生まれて初めてとても不安に感じた。 |
11月15日(火) ネオテニー |
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固有名詞を散りばめながら,相槌をおかずに話していると,外観はそれなりに取り繕うことができる。そこそこ気に入られもし,悪くはない評判を得る。ところが,だ。気に入られたそこそこの外観は実のところ,蝉の抜け殻を補強したようなもので,中身を突かれると何もない。 知り合いの戦後すぐに生まれた世代の人は,ほとんど自分のことしか話さないことにときどき辟易するけれど,唖然とするくらいに話にブレがない。そのうち,蝉の抜け殻を気に入ってくれたことが申し訳なくなり,酒が残った翌日の気分は最低だ。 |
11月18日(金) よいん |
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娘と風呂に入っていると,娘が「よいん,って知ってる?」と一言。 「何の余韻? 音とか,いろいろあるだろ」 「音,かな」 「どういう意味だと思う?」 と,私は切り返す。 「妖精なんだって」 「?」 「ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ・ド,ド・レ・ミ…って,繰り返して,止めるでしょ」 「うん」 「ンって止めて,1,2,3って数えてると,妖精のプレゼントが聞こえるの。音をよく聞いてくれてありがとう,って」 「そのプレゼントが余韻なんだ。へぇ。先生が教えてくれたの?」 「そう」 |
11月19日(土) 張り |
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「人間の持っている『アクティヴ・メモリー』((身体がもつ意識しない記憶のようなもの)とか『経験値』が目的,つまり精神的な部分も含めた機能の価値を決め,それが外から加わる力の強さとなってバランスを取るために内側の力が決まってくる。そのときに『張り』ができる。」 深澤直人「環境/行為/デザイン・〈アフォーダンス〉からみるデザインの様態」(武蔵野美術,No.116,p.23,2000.) 神谷美恵子の『生きがいについて』(みすず書房)には,“生きがい”に“張り合い”が併記されているものの,この本について語られるとき,多くの言説が“生きがい”のみに焦点を当てるのはなぜだろう。張りについてあちこちに石をぶつけては,あまりの反応のなさにそれから先へ進めなかったとき,上の発言に出会った。アフォーダンスよりはるか刺激的だった。 深澤直人の新刊が,そろそろ出るようなので,とても楽しみにしている。 |
11月22日(火) 輪郭 |
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今日の日記です。 で,深澤直人の『デザインの輪郭』(TOTO出版)を買った。 選択圧,張り,考えない(without thought)など,以前,思わず頷いてしまった捉え方が,書き下ろしのエッセイを通してまとまった言葉で語られる。必ずしも判りやすくはないものの,視点のもっていきかたがとても面白い。 読み始めたばかりだけれど,字面でチェックできるような単純な誤植を見つけた。藤澤氏は物書きではないし,とても言葉にしづらいことを何とか言葉で表現しているのだから,校正はしっかりとしてもらわなければ。 |
11月24日(木) 輪郭2 |
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最近の日記です。 “星座という言葉には『コンステレーション』という心理学的な用語と見方がある。 臨床心理学者ユングによれば,「コンステレーション(星座をつくる)」とは, 「満天の星から特徴のある星をいくつか選び,糸でつないで星座を作りストーリイを組み立て自分をそこに投影して役割を演じようとするもの」と説明される。” という引用は,深澤氏の新刊の一節ではなく,浅草キッド『お笑い 男の星座2 私情最強編』からのもの(p.303,文春文庫)。実は『デザインの輪郭』に似たような一節があって,思わず笑ってしまった。 先週末の出張に,この文庫本と,残り数十ページを読みかけのままだった『SPEEDスピード』(石丸元章,文春文庫)を携えていったのだ。行きの電車で『お笑い 男の星座2』は一気に読み終えてしまった。中でも「自称最強! 寺門ジモン」の文章がもつリアリティに絶句し,「江頭グラン・ブルー」のラストでは思わず感動してしまった。 翌日は出張先の書店で『男の花道』(杉作J太郎,ちくま文庫)を買い求め,帰りの電車で読んでいた。見覚えがあるのだけれど,このなかで描かれる“東京のイメージ”の脱力感はJ太郎の真骨頂だろう。 さて,『さまよう薔薇のように』の「船長のお気に入り」に手が入っていることはないのだろうな。“カート・キャノンに捧ぐ”とでも献辞があるかもしれないけれど。 |
11月25日(金) さまよう薔薇のように |
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さらに今日の日記です。 角川文庫で『さまよう薔薇のように』が刊行された。で,この表紙の絵,単行本と微妙に違うのだが??? 書き直したのか,はたまたトレースだろうか。 試験前になると単行本を買っては読んでいた。単行本『さまよう薔薇のように』(光文社)は,学校から一駅離れた町のメインストリートにあった,そこそこの品揃えの書店で手に入れた。矢作俊彦の本を買って読んだのははじめてだった。 放っておいても試験勉強など,今さらするはずもなかったのだけれど,それから9月下旬の夏休み明けまで,ひたすらに本や雑誌を買っては読んだ。なにせ『マイク・ハマーへ伝言』から『ブロードウェイの自転車』まで読んでいないのだ。そうするうちに共作の『ブロードウェイの戦車』は刊行されるは,年末には「週刊漫画アクション」に短編「THE PARTY IS OVER」が載った。そんな幸せな年は,もちろん以後やってくることはなかった。 休み中に日一冊を読み終えることを科し,ヴォネガットの『ローズウォーターさん』と内田百閒の文庫に出会い,数多のハードボイルド・ディテクティブ・ノヴェルズや漫画を欠伸をこらえながら読み,「矢作俊彦はハードボイルド小説作家じゃないのだ」と思い至ったのもの同じ夏のこと。 それらすべてのきっかけが,この単行本だったのだ。 |
11月27日(日) さまよう薔薇のように2 |
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「空港でチェックインした客がボーディングパスを持ったままいなくなった。??これは何を意味しているのかな」 「何をって,――航空会社はまず最初にハイジャックを気にするわ。国によっていろいろだけれど」 矢作俊彦「キラーに口紅」(『さまよう薔薇のように』角川文庫,p.191) 小説の些細な一節が,後々までやけに記憶に残ることがある。この本を単行本で読んで後,飛行機を利用するたびしばしば,ストーリイはさておき,この箇所を思い出してしまう。 同じように,物事を決断しなければならなくなると,『マイク・ハマー…』における英二の「何が本気なものか」以下,滅多に徹夜をすることはないものの,それでも朝まだきには「さめる熱 」(『舵をとり』)の猫の泣き声。多くは作者の意図から遠く離れた箇所であろうに,記憶なんて何が影響しているのかさっぱり判らない。 音のほうが,記憶と分ち難く結びついているように思っていたのだけれど,小説の一節に比べると,それが繋がる場面が実は限定されている。 |
11月28日(月) キヤノン |
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『酔いどれ探偵街を行く』(カート・キャノン,都筑道夫訳,ハヤカワ文庫)に「フレディはそこにいた(Now Die in It)」という短編が収載されている。『さまよう薔薇のように』の一編「船長のお気に入り」が,この短編にインスパイアされたものであろうとの指摘は,刊行当時の書評に触れられていた(と思う)ので,それをして多く語ることもあるまい。 ただ,骨格を借りて,そこに別の物語を盛り込む卓越な技にふれるには,この2編を比較するのが手っ取り早い。 補記 単行本には各編の初出が記されている。以前,アップした通り,「キラーに口紅」は「小説推理」1982年1月号に掲載されたもの。ところが,その初出には「小説アクション」1981年8月20日号となっている。 誤記だったのだ。 この号を確認していないけれど,たぶん「さまよう薔薇のように」が掲載されたものではないだろうか。 |
11月30日(水) ヨン |
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娘が意外と熱心に,九九を覚えようとしている。ところが, 「ゴ シチ サンジュウゴ,ゴ ハ シジュウ」 シジュウ??? その後,40が出てくるたびに,「シジュウニ ジジュウハチ」ひたすらと“シジュウ”が飛び交う。 「ヨンジュウっていわないか?」 「いわないよ,ねえママ」 家内も「おかしいよね,ヨンジュウなんて」 いや,そういわれても,ヨンジュウ,ヨンジュウニ,ヨンジュウゴ,ヨンジュウハチ…,今日の今日まで,私はそうして覚えているのだけれど。 「じゃあ,ヨン ヨン ジュウロク っていうの?」 「それはおかしいだろう,ヨン ヨンって。だって,ヒトケタじゃないか」 「ヒトケタは“シ”なの?」 「そうだよ。決まってんだろ。2ケタになったら“ヨン”ていうんだ」 と,いったものの,たぶん,これは私の覚え方が変わっていたのだろう。 でも,ゴ ハ ヨンジュウ と,本当に言わないなんて信じられないな。 |
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