2006年3月
03月04日(土) Futari |
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「日本のアングラには『反体制』と『反近代』というふたつの柱があります。江戸川乱歩や夢野久作みたいな『新青年』的なものや,泉鏡花をイメージすると,いまの人にはわかりやすい。一括して大正と昭和のモダニズムというふうに呼ばれています(後略)」 宮台真司・北田暁大『限界の思考』p.49,双風舎,2005. 江戸川乱歩と夢野久作を同じカテゴリーとして括る言説に,時に違和感を覚えるのは,それが私がそれぞれの小説を読み始めた昭和50年代にはありえなかった括りだからだと思う。乱歩に並ぶのは横溝正史であり,久作は小栗虫太郎,久生十蘭(ことえりで一括変換できた!)と並んで登場することが多かった。すでに石井輝男は江戸川乱歩原作の映画化に際し,夢野久作風な設定を盛り込んでいたけれども。 美輪明宏は,乱歩と久作を同列に語りはしないだろうし,中井英夫ならば,久生十蘭と並べたかもしれない。 |
03月05日(日) 歴史 |
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サブカルチャーを俎上に語られる言葉が,私には面白く感じられなくなってかなりの時間を経たように思う。 何だか,それは文化人類学者が指し示すティピカルな人物(藤子不二雄のまんがに,もっとも平均的な嗜好をもった男を主人公に据えたものがあった)の目を通して見ているような違和感だ。固有名詞に勘は働かないから,知っている固有名詞と関連づけられてもピントが外れているようで,読み進められないのだ。 |
03月06日(月) 岩波 |
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はじめて読んだ岩波書店の本は文庫や新書ではなく,大航海時代叢書第II期の『インカ帝国史』,これが第一回配本だったと思う。誕生日プレゼント代わりに第II期の予約購読を得た経緯は,まったく記憶していないが,唯一,親と連れ立って書店に行ったときのやりとりだけは忘れられない。全巻揃えるとなると,かなりの金額になるため,ひとりで申し込みにいける状況ではなかったのだ。 親が「中学生でも読めますか」と尋ねたところ,店員はたやすくいってのけた。 「ルビがふってあるので大丈夫ですよ」 しばらく後,第一回配本を取りに行き,ページを捲ったところ確かに読めない漢字は少なかった。ただ,タイトルはインカ帝国史となっているものの,「古事記」にも似て有象無象の王やら神様やらが登場し,内容を読み解くにはおよそ中学生では知識が足りなさすぎる。それでも手頃な値段とはいえない一冊一冊を,すくなくとも1回は開き,読み進める努力はした。全25巻の折り返し,たぶん『イエズス会と日本』あたりまで買いはしたものの,その後の予約はキャンセルした。 子どもの頃,1巻ずつ買いそろえてもらった百科事典は,全巻読破まで難儀に感じることはなかった。同じような感覚で予約をしてしまった私が甘かったのだ。 何でも,この『インカ帝国史』が最近,文庫に入ったのだそうだ。手にもった感覚や開いたページの匂いまで記憶に残っている大部な1冊が文庫になるとは。 |
03月08日(水) ホームステイ |
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娘のクラスにバングラデシュからの帰国子女がいる。何でも,兄弟のうち一人はまだ,バングラデシュに残っているのだという。 「ドイツ人のところにホームステイしているらしいのよ。中学生なんだそうよ」 家内がその子の母親から,そう聞いたのだ。 バングラデシュでドイツ人の家にホームステイする中学生??? |
03月11日(土) 操作 |
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「『諧謔から韜晦へ』というオタク的オブセッションや,『シャレからオシャレへ」という新人類的オブセッションを,醜悪な頽落だとして『サブカル』で批判しています。その理由も,若者たちを非対称に『操作される側』に立たせるからです。(中略)絶えず『操作する側』に立とうとするのが,七〇年代的なかばにシラケ世代と呼ばれる中高生だった,僕たち原新人類=原オタク的な『世代性』です。(後略)」 宮台真司・北田暁大『限界の思考』p.359,双風舎,2005. 私がP-MODELのいわゆる“てんびんから降りる=Another”に惹かれたのは,それが操作する=操作される関係を解消する術だろうと感じたためだ。どちらにつくかこだわるのでなく,そこではないパースペクティブ。自他ともに,それが敗北宣言と称される所以だろう。 |
03月12日(日) ツボ |
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一字違いで失笑したのは泉昌之の『天国や地獄』。最近,雑誌「QuickJapan」にこんな歌詞を見た。 「ふたりが ゆうやみが つつむが このまどべが あしたが すばらしいが しあわせが くるだろうが(後略)」 タイトルは「君といつまでが」。作詞は板尾創路。曲はまだない。これは私のツボです。フルコーラス(?)はVol.64に掲載されている。 |
03月14日(火) やはりツボ |
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昨日の日記です。 用事があったので,会社帰りに昌己と飲んだ。そこそこで用件は済み,話題は結局,「君といつまでが」に。小一時間はあれやこれやでばか笑いの繰り返し。 「なんで加山雄三なんだよ」 「“も”を“が”変えると,意外といいかもな」 「助詞って大切なんだな」 「火の宮のあの曲思い出したよ。“おれが代”」 「君が代のカバーだろ」 「それにしても『君といつまでが』はないよ」 「意味もなくこれだけ可笑しいってのはダダだよ」 「助詞が続くと機械的にチェックかけるMicrosoft Wordをコケにしてるのかもしれないぜ」 酸欠になるくらい笑ったのは何年ぶりだろう。 ただ,『QuickJapan』を一通り捲り,先の対談以外,ひっかかってきたのはこのページだけ。どうしたものだか。 |
03月15日(水) 3ピース |
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昨日の続きです。 4月にあぶらだこが非常階段やRuins,はじめて聞くにせんねんもんだい(信頼できる音を出しそうなバンド名だ)などとライブをやるのだという。 「20年前にも,ほぼ同じ顔ぶれでライブあった確率はかなり高いな」 「少し前,吉田が朝日の夕刊でコラムを連載してたの読んだか?」 私がそういうと,昌己は 「ほんと? しらねぇよ。世界の磨崖仏からみたいなんだろう?」 「ああ」 「あのサイト,かなり凝ってるからな。朝日っていえば,デヴィッド・シルビアンが新しいバンド結成したって記事あったろう」 「見た覚えない」 今度は私がそう答える。 「3ピースのバンドなんだけど,編成が凄いんだ。ドラムがスティーブ・ジャンセンで,あと一人が詩人だぜ。ライブでいったい何するんだろう,詩人ってさ。下手すりゃ,っていうかたぶんステージに出てこないだろう,詩人じゃ」 「まるでクリチャーズみたいだ。でもさ,詩人入れて3人だからって,3ピースっていっていいのかよ。聞いたことないぜ」 「確かに」 |
03月17日(金) 声 |
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こんなところで,安珠が番組をもっていたことも,そこに最近,矢作俊彦がゲスト出演したことも知らなかった。 Macであってもとりあえず接続,バッファできた。ときどき画面と音声にタイムラグがあって,静止画をみながら音だけ聞いていると,開局したてのFM横浜での番組「アゲイン」の頃と,声はまったく変わっていない。20年は経ったろうに。 |
03月19日(日) 月刊誌 |
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通っていた床屋は,親よりも年配の姉妹がやっていた。洗った髪を流すために椅子から流しに移動するのがあたりまえだった頃のことだ。 事前に予約を入れるなんて考えもしなかったので,休みの日にいくと,3,4人は待つことになる。床屋の長椅子に腰掛けて読むのは月刊の漫画雑誌だ。その床屋には週刊の漫画雑誌は置いていなかった。そのことに何かしらの意味があったのではないかと想像したのは最近だから,30年近く経っている。 床屋に行くのはせいぜい月1回。月刊の漫画雑誌はだから,ちょうどいい刊行ペースとボリュームなのだ。行くたびに最新の漫画雑誌を捲り順番を待つ時間。ラジオから聞こえてくるのはもちろんAMで,歌謡曲のヒットチャート番組。 事前に電話で予約を入れ,床屋で雑誌を眺めるほど待たされることもなく,BGMは80年代のベストヒット。一度腰を下ろすと,終わるまで自ら移動する必要はない。変われば変わるものだ。 |
03月22日(水) in the wake of |
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エスカレータに近いドアあたりに集まった奴ばかりだから,皆,ホームに着いてもせわしないったらありゃしない。押されて,あちこちぶつかり,いきおい自分の歩幅は広くなる。左に寄って足をかけたにもかかわらず,前のおやじは階段と勘違いしているのではあるまい,一歩進めてやがる。 くやしいのは,つられて自分がエレベータを一歩踏み上がってしまったことだけではない。唐突に止まったおやじに合わせて,自然に歩むのを止めてしまったからなのだ。体がぶつかりもしない。ペースあわせるんじゃない,まったく。 |
03月23日(木) 優勝 |
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今日の日記です。 昼食を食べに入った中華料理店には産経新聞がおいてあった。担々麺が出てくるまでのしばらくの間,何年ぶりかで捲りながら見出しを追っていると,西部邁の寄稿が載っている。内容はどうでもいいのだけれど,中に“優勝劣敗”という四文字熟語があった。 優勝だけとると見逃してしまっていたものの,劣敗が続くと,何だかとても嫌な響きだ。語源は知らない。まさか,善勝悪敗なんて熟語はないだろうが,そんなものなのだろうか,と。 |
03月27日(月) 転 |
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コラム目当てに,徹が「クレア」を立ち読みしはじめたのは平成がはじまったばかりの頃。私や昌己は「クレア」といわれてもピンとこなかった。だから「コラムの連載陣」を豪華と形容する徹に,せいぜい「『NEW パンチザウルス』みたいなものかよ」と返すしかない。 「ああ,そうだな」 ところが,徹はこともなげにそういう。 「おい,『クレア』って女性誌だろう? それで『NEW パンチザウルス』か?」 「最近は『TVブロス』より『クレア』だな」 徹のコラムに関するネタは,私が聞いたところでは『受験ホイホイ』のカーツ佐藤からはじまり,その当時はナンシー関のコラムに嵌っていた。後にも先にもナンシー関を“ナンシー先生”と呼ぶ奴を,私は徹以外知らない。 昌己の「『君といつまでが』って長嶋の“さあ,おはよう”(長嶋はキャンプスタートの朝,そう挨拶したのだそうだ)に似ているな」という一言に,数年ぶりで『小耳にはさもう』(朝日文庫)を読み返した。と,ここにも長嶋が登場するのだ。ナンシー関のコラムをさらに纏めるなんて暴挙だけれど,タイトルは「やっぱりキャンプ中でした」というもの。水の江滝子の生前葬に長嶋はこの一言のみの弔電を打った。ナンシー関はこのシュールな弔電を試行錯誤の末,こう解読する。 「『生前葬の招待状(っていうのかなあ)が来た』→『キャンプ日程中だから行けないかもしれないけれど行けるかもしれない』→『やっぱりキャンプ中でした』→『出席できませんでした』という,起承転結を想像できる。ということは,長嶋は『起・承・結』をとっぱらって『転』のみで弔電を打ったという,恐るべき結論が導き出されたわけである」 同書,p.43 結局,引用だ。 |
03月28日(火) 筋 |
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『砂糖の世界史』とか『バナナと日本人』とか,ジュニアを含む岩波新書が得意とする切り口の本を,ときどき読み返すことがある。ただ,こうした企画が一体,どこにつながっているのかなど,これまで考えもしなかった。 昨年から刊行されている雑誌「at」(太田出版)は,鶴見良行とそのグループの足跡の先を取材し伝えていこうという姿勢だけは伝わってきて,また,いくつか興味深い連載があるので,結局,出るたびに買ってしまう。前後関係が無茶苦茶だけれど,鶴見良行の『アジアの歩きかた』(ちくま文庫)に収載された論文の初出をみたところ,意外だったのは「思想の科学」に掲載されたものが多いことだった。 「思想の科学」とその一派といえば,宮台真司と北田暁大の対談本でも辛辣に語られていたな,と思いながら,そういえば「at」を読んだ後の,よくも悪くもどこか消化不良のような感じは「思想の科学」の読後に似ている。 「思想の科学」の筋は,いまだ途絶えていないのだろう。 |
03月31日(金) ビンテージ |
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最近の日記です。 カシオトーンを除くと,はじめて本式のキーボードを買ったのはKORG T3。15年くらい前に秋葉原のセコハン店でのこと。新品に比べると10万円くらいは安かったけれど,いい値段だった。ハードなケースに入れて抱え,駅の階段やバスを乗り降りし,家に着いたときは手が腫れていた。やたらと重かった。 しばらく後,ライブのため,T3を裕一の家に送ってしまい,それでも練習はしておかねばと,再び秋葉原へ行ってCASIO CZ3000を手に入れた。こちらはかなり手頃な値段だ。ただ,ケースは付いていなかったので,前回の経験をもとに柔らかなケースを買ってみたものの,T3より古い分だけ重く,結局,見るまでもなく痛みから手の様子は想像がついた。 CZ3000はメモリが壊れていてたので,せっかくつくった音色が気に入っても,回路図を描いておかねば,次回はその音色を再現できる可能性はほとんどなかった。当然,MIDI対応だったから,T3のシーケンサの1トラックと同期して音を厚くすることもできたのだけれど,私の想像力はMIDIの彼方の音色にまで届かなかった。中途半端な曲のパーカッションパートとCZ3000のシンセドラム音で同期をとったくらいしか使わなかった。 今後,キーボードを買うことはあっても売ることはないだろうと思いながらも,興味があったので経済産業省のHPで“PSEマークなしで中古販売できる”と謳い文句の「ビンテージ機器」リストを見たところ,T3は“EX”のほうだけれどリストに入っており,古いはずのCZ3000は掲載されていなかった。どういう基準なのだろう。T3を弾いている娘は,いつの間にかビンテージ楽器でエレクトーンの練習をしていたようだ。 徹が手に入れ,和之の結婚式で“歌詞付き”ポール・モーリア・メドレーを披露した際に大活躍したYAMAHA QY10は載っていた。 KORGのMS20や,少し新しい,木目調が美しいPOLY6(先のリストには,ていねいなことに“POLY”と“6”の間が半角アキとベタウチを別なものとして扱われていた)あたりならば「ビンテージ」といわれても頷くけれど,M1がビンテージというのは,どうなのだろう。 実は,KORG(とCASIOを少々)以外のキーボードについてはよく判らないので,判断できないのだ。 |
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