2006年11月

11月01日(水) 影響  Status Weather晴れ



 といった,ホンモノでもなく,ニセモノとはいいがたい製品は,こう呼ばれる。

 『ニ・ホン・製のもの』


 これはオリジナルではなくて,『サングラスの少女』という『不思議の国のアリス』真似た小説に登場した一節。




11月02日(木) 影響  Status Weather晴れ



 テレビの画面が瞬きすると,場面は派手なセットへと変わった。カボチャのようなヘアスタイルをした司会の女性が続けた。Am3連のギターにナレーションが被る。
 「浅草の演芸場で一日,お客様の案内を続けながら,それでも歌への夢は捨て切れませんでした。この曲の歌詞は,そのときの体験から生まれたそうです。では,今週の第1位,『もぎりの私』よろしくどうぞ」




11月05日(日) スタジオ  Status Weather晴れ



 はじめてスタジオに入ったのは学生時代のこと。
 学祭を前に,裕一が予約を入れてたのは,大学から一駅離れたところで,楽器店の3階にあった。そのときいた面子で入ったものの,カラオケボックスよろしく誰一人楽器を持っていなかった。備え付けのドラムとキーボード以外は,くず入れやら壁やらがさしあたり楽器代わりだった。店員に,消音ドアに開けられた小窓からそのようすを見られてしまい,くず入れは取り上げられ,『壁は叩かないでください」と念を押された。
 その後,立川のスタジオをはさみ,社会人になってから入ったのはアパート近くにあった。芝居がかかるホールの上,受付に辿り着くにはかなり急な階段を登り切らねばならないにもかかわらず,エレベータの案内はない。シンセを抱えて,幾度登り降りしたことだろう。

 受付を済ませると,スツゥールが雑然と並んだロビーで時間を待つ。メンバー募集とライブ告知のチラシを眺め,溜息をつく。
 前のバンドとの入れ替えのときは,お互い,どうしたわけかやけに腰が低くなる。それは,まるで営業マン同士の挨拶だ。ミキサーのフェーダーがきれいにゼロのところで揃えてあったり,アンプのボリュームがきちんと落としてあったり,そんなことで礼儀のようなものを学んだ。

 今週,久々にスタジオに入る予定なのだけれど,どうなることやら。




11月09日(木) スタジオ 2  Status Weather晴れ



 昨日の日記です。

 昨夜,スタジオから家に戻り,MTRのスウィッチを入れると現れたのは,ロックの神様(通称,怪傑ゾナ)。

 曰く
  石の上にも 苔
  苔のむすまで Cola-L
  一度のスタジオ入りで
  作品をでっちあげられるなどと
  思うなゾナ

  逃した魚は 泳いでいる
  さあ ふたたび 魚を取りに
  大海へ乗り出すゾナ

 静まり返った小体な部屋に,パチンと音が響いた後は,無音が続くなか,STOPを押したのは4分33秒後でした。
 
  腐っても 食う
 
 ロックの神様(通称,怪傑ゾナ)はそういうと,風のように消え去りました。

↑(以上,参加者へのメールより抜粋)

 ただ,作業は大変面白かった。ギタリストとボーカル2人がいると,曲の表情が変わるのが特に。
 面白かったので,ときどきスタジオ入りしようかと思う。




11月10日(金) 近況  Status Weather晴れ



 角川書店から刊行された短編集への寄稿,メンズクラブ付録へのエッセイ再録,高橋源一郎の『虹の彼方に』の解説。どうせ再録するなら,エッセイ集に入っていない「増刊号」のものを収載すればよいと思う。

 「エンジン」はついに一冊にまとまる気配はなく,忙しくて書店に行く時間がないので,その後,「ウリシス911」がどこまで進んでいるのかは判らない。




11月11日(土) 全集  Status Weather晴れ



 創元ライブラリ,中井英夫全集[3]『とらんぷ譚』の刊行は,奥付によると1996年5月31日。このところ,年に1冊出るか出ないかが続いたので,果たして全巻刊行できるのだろうかと気にしていたのだけれど,今月[12]『月蝕領映画館』が出て,全12巻の刊行をし終えた。
 別巻予定であった『薔薇幻視』が[11]に入り,『月蝕領映画館』も刊行当初はラインナップに組み込まれてはいなかった。先に刊行された三一書房版の全集は,CDでいうところのボックスセットのように組み替え,編集が多く,デコラティブな装丁も手にするには今ひとつで,結局買いはしなかった。

 初回配本の[3]『とらんぷ譚』は714ページで本体価格1,456円+税。[12]『月蝕領映画館』は232ページで本体価格1,800円+税。ここ数年は出るたび,値段に首を傾げながら,それでも買っていないのは[11]『薔薇幻視』のみ。[12]が出たので,これも近々買い求めようと思う。
 第11回配本の[9]『月蝕領崩壊』の奥付をみたら,2003年10月31日だった。この1冊をまとめあげるため,少なくとも3年を費やしたことにな る。そこには製作の時間だけでなく,企画をすすめること自体,難しくするような状況もあったのではないかと思う。1,800円と付けられた価格に,そんなことを想像した。




11月13日(月) the band of holy joy  Status Weather晴れ



 私も90年代のはじめを告げたアルバムを1枚あげると,The Band of Holy Joyの“Positively Spooked”あたりになるかもしれない。なぜなのか,いまだ判らないのだけれど,ときどき引っぱり出して聴くたびに,これは90年代はじめだな,と頷首いてしまう。



11月14日(火) 一気に飛び越え  Status Weather晴れ



 矢作 (石丸元章の『平壌ハイ』について)とくに高橋さんは驚いたでしょう。あなたが,かつてやろうとしていた仕事の先はこれだなというのをぼくは感じたもの。
 高橋 そう。ああいうことはやりたかったなあ。
 矢作 ぼくも二十年近く前,ある種の全体小説を断片の寄せ集めで書こうとしたことがあったけど,結局,放り出した。その先を軽々とやってのけたからね。
   矢作俊彦・高橋源一郎「対談・小説家である運命」(文學界,2003年12月号)


 「『あとがき』の中で,高橋さんは,一九六〇年代のすべてを書きたかった,全世界について書きたかったと言っている。
 そして,それは間違いだった。そんなことが出来るわけがなかったと結論づけている。
 これは正しいが,同時に間違っていると私は思うのだ。全世界を一冊の本の中に閉じ込めることなど出来ないが,そこに向かって梯子をかけることなら出来る。」
   矢作俊彦(高橋源一郎『虹の彼方に』講談社文芸文庫,解説より)

 数年前,時には十数年前に記された言葉の続きが,一気に飛び越えて現れることがある。
 今回も矢作俊彦のほうが,高橋源一郎よりも原稿を書き上げるのに時間がかかったということを示したかったから記されたわけではあるまい。

 ただ,この小説に,自分の書いた小説の一部が引用されていることに触れていないのが少し残念。引用された気持ちを聞いてみたかった。数年前,資生堂パーラーで両者の対談を聞きにいったことがある。帰り際,感想を書くメモに心底汚い字で,「そのことを聞きたかった」と記したのは他ならぬ私だ。




11月15日(水) DM  Status Weather晴れのち雨



 娘が見ていたのは家内宛に届いたダイレクトメールだった。
 「ねえ」
 食事のしたくをする家内の傍らに娘がやってきた。
 「クリスマスのプレゼントって,いつもママが買ってたの?」
 その語尾は,およそ尋ねるというニュアンスから程遠い。家内は慌ててとりつくろおうと「どうして」と切り返した。
 「ここに,書いてあるよ」

  ◎うれしいサンタさんからのプレゼント,
   店名の入っていない包装紙,巾着袋にてお包みいたします。

 こんな身も蓋もないことを,わざわざDMに記すなんて,まったく気が知れない。
 それでも,家内は「違うわよ」と答えた。
 「ふーん。ほしいプレゼントあるんだけれど,どうやって頼もうかな」

 また,やっかいな12月が近づいてくる。 




11月18日(土) 黄金の時間  Status Weather晴れ



 高橋源一郎の『虹の彼方に』を久々に読み終えると,映画「ビリィ・ザ・キッドの新しい夜明け」のことを思い出した。ところが,テーマ曲のタイトルが出てこない。ゼルダが提供した曲だ。1日,2日と過ぎ,ケイト・ブッシュの“Sat in Your Lap”をYoutubeで眺めていると,「黄金の時間(とき)」というフレーズが浮かんだ。Youtubeで検索したところ,まんまPVがあがっている。

 12インチは手元にないけれど,この曲はドラムスの小澤亜子作曲だったはず。『空色帽子の日』と『C-ROCK WORK』に挟まれた時期にみたゼルダのライブはとてもよかった。ボーカル,ベースのオリジナルメンバー2人と,ギター,ドラムス2人のコンビネーションのよさに尽きるのだけれど,そういった状況は大概,長く続かない。

 高橋源一郎の初期の小説を読み返して,ゼルダを思い出すというのは,ありがちなことかもしれない。




11月19日(日) WILKINSON  Status Weather曇りのち雨



 最近の日記です。

 床屋に出かけた帰り,あたりは暗かったものの,山手通り沿いに置かれた自動販売機の明かりは緑色に灯っていた。新しい緑茶か何かと,物見遊山で(というのかな)近づくと,ウィルキンスン(ウィルキンソン)のジンジャエールがボトル缶で売られているではないか! 私は躊躇うことなく120円を投げ込み,蓋を開けて一口。それは微妙な味だった。

 1,2年前,ウィルキンスンのジンジャエールを置いてある店に入ったときのこと。“ドライ”と“ふつう”の2種類があったので,怖いものみたさ半分,“ドライ”を頼んだことがある。口に含んだ途端,咳き込んでしまうこと必死だろうと考えていた。ところが,出てきたのは長く親しんだウィルキンスンのジンジャエールの味,いったいどこが“ドライ”だというのだろう。試しに,続けて“ふつう”のジンジャエールを頼むと,それは,カナダドライに横恋慕したかのように甘ったるいものだった。

 ボトル缶に入ったジンジャエールの味は,“ドライ”からほど遠く,しばらく“ふつう”のジンジャエールを飲んでいなかった舌にはやや辛く感じる程度の代物だ。地下鉄の駅に辿り着くまでに飲み終えたけれど,こうやって販売することに何らかの益があるのか甚だ疑問に感じた。

 売れないだろうな。 




11月20日(月) 狂風記  Status Weather



 少し前に手に入れた星野智幸の『目覚めよと人魚は歌う』を,通勤途中に読んでいる。出だしから数ページより先に読み進められず,3回ほど頓挫した。今回は半ばまで辿り着いたので,何とか読み終えられそうな感触でページを捲っている。

 石川淳の『狂風記』がどのような小説であったかはすっかり忘れてしまった。ところが,ボリュームの違いはさておき,『目覚めよ』を読んでいると,忘れてしまったはずの『狂風記』の感触がどこからかよみがえってくるのはなぜだろう。




11月23日(木) バブル  Status Weather曇りのち雨



 風邪をひいたので,都築響一の『バブルの肖像』(アスベクト)を読んでいた。バブルの時期(1986?89年)は,私の20代前半と重なるのだけれど,ここにとりあげられた風景のほとんどは馴染みないものだ。

 FMを聞きながら読んでいたせいもあるのだろうか,バブルといって思い出すのは開局当初のJ-WAVE。キース・ヘリングが描いた金と黒,赤のポスターは実家を探せば出てくるだろうし,開局セレモニーの一環として東京ディズニーランドを貸し切って関係者を招待した際,当時,業界のかなり末端で働いていた私あたりまで招待された。その頃,地方FM局の東京支社のほとんどは銀座や麹町にあって,そこで働く女の子たちと何とかというジェットコースターに乗った記憶がある。
 日本語のCMはNG,もちろん商品宣伝などもってのほか,イメージ広告オンリーでそれでもCM枠が埋まっていたのだから,時はやはりバブルまっただなかだったのだろう。




11月25日(土) 姪  Status Weather晴れ



 今日の日記です。

 弟一家が1年振りに日本へ来た。ニューヨークで子どもが産まれ,家を買い求めたのだから(Queensだけど),当分,日本で仕事をする気はないのだろう。実家から出かけのついでに待ち合わせたので,お互いの中間をとったところ上野駅になってしまった。昼飯をとりながら,話すのはMADNESSやら浅草キッドのこと。ミラノにいようが笹塚にいようが,こ奴と話すことはいつまでたっても変わらない。
 「正月にお笑いウルトラクイズやるんだって」
 と,弟に言われても私は知らない。こうしたやりとりも同じだ。かなり前,昌己に「お前の弟の話聞いていると,およそミラノにいるとは思えんな。どう考えても高円寺あたりに住んでいる感じだ」

 昨年の夏にニューヨークで会って以来の姪は,よく動きまわる。一緒に連れていった娘がやけに大人にみえた。姪は2歳になるものの,言葉はあまり早くない。“Non”と“とーちゃん”を併用するのが,不思議で面白かった。




11月27日(月) サンダーバーズ  Status Weather雨のち曇り



 伸浩のレヴィンに乗って,週末にあちこち出回っていた頃のこと。

 車内でCDがかかるようになってはいたので,BGMは大概持ち寄った。昌己がポケットに忍ばせてきたシンフォニーロックバンド“ENID”のアルバムをかけながら,追浜からベイブリッジを駆け上がったときは,妙に気分がよかったのを覚えている。
 めずらしく房総半島のド真ん中を,つまりは大滝村から茂原に抜けたときは,伸浩がもってきたフェビュラス・サンダーバーズがBGMだった。春先の昼間,対向車のない田畑の間を抜けていく殺伐さと合致して,思わず徹が「千葉は,アメリカの田舎みたいなんだな」と呟いたのは,多分にBGMのためだ。

 東北自動車道を日帰り往復したときや富山まで行ったときにも,フェビュラス・サンダーバーズのCDをかけた筈なのに,どうしたわけかこちらの記憶はない。




11月30日(木) Hair dryer  Status Weather曇り



 ウィスコンシンの知人から届いたヘア・ドライヤーについての蘊蓄です。画像のリンクは改めて。


Hair care also involves technology to reshape hair into specific styles. A number of nineteenth-and twentieth-century inventions were designed to make hair styling easier, more effective, longer lasting, and more natural looking. For instance, in 1866, Hiram Maxim invented the first curling iron. Four years later, two Frenchmen, Maurice Lentheric and Marcel Grateau, used hot-air drying and heated curling tongs to make deep, long-lasting Marcel waves. Twenty years later, Alexandre F. Godefroy, a French hairdresser, invented the hair dryer, composed of a bonnet attached to a flexible chimney that extended to a gas stove.
In 1905, Sarah Breedlove Walker created a cosmetic industry in Indianapolis, Indiana, and became the first African-American female millionaire in America by inventing a method for straightening hair, using an emollient cream and hot combs. In 1906, Charles L. Nessler, a German hairdresser working in London, applied a borax paste and curled hair with an iron to produce the first permanent waves. This costly process took twelve hours. Eight years later, Eugene Sutter adapted the method by creating a dryer containing twenty heaters to do the job of waving more efficiently. Sutter was followed by Gaston Boudou, who modified Sutter's dryer and invented an automatic roller. By 1920, Rambaud, a Paris beautician, had perfected a system of curling and drying permed hair for softer, looser curls by using an electric hot-air dryer, an innovation of the period made by the Racine Universal Motor Company of Racine, Wisconsin. Products have been made to style hair and improve grooming as well.



Another website even has a picture of the hair dryer made in Racine!!!!

Hair Dryers from Wisconsin!
Hamilton-Beach hair Dryer from the 1920s
Early version


Racine Electric Hair Dryer
Looks like a Microphone

Posted January 10, 2002

These two photos span the era when Racine Wisconsin was the "Electric Motor Capital of the World" Handheld hair dryers were first sold by the Racine Universal Motor Company of the US in 1920. Most of the electric motor business left Racine by the 1960s.

The first photo is a very early Hamilton-Beach hair dryer. Believe me, this is built like a tank. It still works just fine. Here is the data from the manufacturer's plate:

Hamilton Beach
No. 5 Hair Dryer
Patent No. 1821525
No. 5H126299B volts 115 amps 3
Hamilton Beach Division of Scovill Mfg Co Racine, Wis,Made in USA

Here is the patent drawing for this hair dryer, as invented by Mr. Emmanuel Nielson of the Hamilton-Beach Company. There is virtually NO technical difference between this hair dryer and the one you can buy today in the drug store. (The major differences are (1) that this one will last forever and (2) this one was made in the USA)

This is simplicity itself -- there is a handle, a fan and a heating coil. Voilla! The Hair Dryer.


Mr. Neilson's Patent
The second photo is the Race 50 hair dryer made by the Racine Universal Motors Corporation of Racine, Wisconsin in the 1950s. It is so named because it supposedly has 50 uses. Here are some of these suggested uses from the label...



The following information is on the manufacturer's nameplate:

Race 50
Made in USA, CSA approved, no 8678
Underwriter's Laboratory stamp
110-120 v AC or DC
No. D-23586 Type 9 Max amps 3
Racine Universal Motor Co., Racine, Wisconsin




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