2008年11月
11月02日(日) リアル |
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『リアルのゆくえ』(講談社現代新書)を読んでいると,この2人の著者がほとんど音楽に触れないことをもどかしく感じる。俎上にあげられているテーマは少なからず,音楽が経てきた道筋を参照すれば,見晴らしはすっきりとするだろうに。 |
11月04日(火) えっ |
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「えっ,ニラレバいくんですか? ほんとに? いくんですか? おれどうしようかなあ。どうしようかなあ,いっちゃおうかなあ。えっ,ニラレバ定食2つ」 21時すぎに入った定食屋はサラリーマンで溢れていた。そこに新たに2人が。でも,何が凄いというのだろう,ニラレバ。 |
11月09日(日) ポプリ |
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相変わらずのグズグズではあるが,とりあえず。 日野啓三の小説でフィル・コリンズの名前をみたとき,かわりにPILと置き換えて続きを読んだ記憶がある。まだ,日野啓三の新刊を書店で立ち読みしていた頃のことだ。その後,古本屋でときどき買うことはあっても,新刊を眺めることもしなくなった理由は覚えていない。 ひと月遅れの情報と承知のうえ,文芸雑誌の「新人月評」を斜め読みしていて,「常夏の豚」だけを切り抜いた「文學界」を引っぱり出してきたのは最近のこと。玄関近くでゴミへと出す準備をしたまま放っておいたものだ。鹿島田真希の「二人の庭園」を読んで,なんだか日野啓三の小説を思い出してしまった。 でも,何よりタイトルは「ポプリ」以外,ありえないと思うのだが。 |
11月13日(木) PIL |
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以前にもあったことだけれど,行きつけの床屋のBGMはだいたいが80年代の洋楽のヒットメドレー。だからなのだろうか,ときどき妙な曲が飛び出してくる。 先日,でかけた際には"Let's Dance"に続いて"Flowers of Romance"がかかって,それはたとえ床屋であっても違和感がすさまじかった。しばらく前,Kate Bushの"Dreaming"がかかったときも,蛍光灯の色が変わったかのように感じたことを思い出す。 |
11月16日(日) 語尾 |
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「歌が聞こえるわね,と誰かが言う。」 鹿島田真希「二人の庭園」(文學界,2008年11月号,p.20) 現在形で突き進む小説に出会うと,過去形を出さずにどこまで行けるか気になって,それだけでつい読んでしまう。この小説の場合,途中,過去形が出てくるものの,p.33の「やがて彼女は雨,と呟いた」あたりまで持続する。 (出だしを除くと)矢作俊彦の「大きなミニと小さな夜」は,そうした企てをもって書かれたのではないかと思ったことがある。しばらく後,「犬には普通のこと」のなかの一回で同じような試みで書き進められたように記憶している。 現在形で突き進む文章を私はしばらく,「フランスの小説みたいに」と形容していた。ボリス・ヴィアンの翻訳小説で延々と現在形のものがあったと記憶していたのだ。ところが,『心臓抜き』と『日々の泡』を捲ってみたものの,そんな文章ではなかった。ル・クレジオだったろうかと思い,『調書』『洪水』『巨人たち』をひっぱりだしてきたけれど,こちらはそれ以前の問題。 いやはや,そう思い込んだのはどうしたことだろう。 |
11月22日(土) 49 |
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身内や知人が他界した秋であったことは記録しておかねばなるまい。 |
11月25日(火) MySpace |
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曲をつくったりスタジオへ入ったりしていないにもかかわらず,MySpaceでは活発なアクションを起こしている。 おかげで久米君のハートに火がついたらしく,曲のアイディアを持ってきてくれる。来年は少しは活動できるかもしれない。 |
11月28日(金) 子午線を求めて |
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少し前に手に入れたにもかかわらず,いったいどこで買ったのかすっかり忘れてしまったのは,堀江敏幸の『子午線を求めて』(講談社文庫)。 「挫折を語るに最もふさわしい手法は,「回顧」ではなく「現在形」の語りにあるのだ。かつてこれほどまでに「人恋しい」小説はなかったと言いたくなるほどの切なさと,希望のない生活のなかでの適度な自己の突き放し。レヴィの本には,表面的な諧謔はあっても「人恋しさ」がない。人恋しさのない孤独は,深いようでいて浅いのだ」(p.83) |
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