2010年2月
02月07日(日) フィルムノワール/黒色影片 |
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「夜は始まったばかりだったが,舗道にひと気はなかった。灯りもまばらだった。数日分の空気が背の高い街の底に溜まっていた。私はそれをかき分け,ひとり歩いた。 商店も料理店も残らずビルの中に店を開き,道路には背を向けている。ビルはどれも空中や地下の回廊で繋がれ,歩行者が外へ出ることはない。」 矢作俊彦「フィルムノワール/黒色影片」第3回,新潮. 「この街の本当の夜が始まろうとしていた。行く手で空気の匂いが変わり,ネオンの色が変わった。ゆるくくねった狭い道を通る人々の,歩調も姿勢も違っていた。」 矢作俊彦『ロング・グッドバイ』p.34,角川文庫 矢作俊彦の文章が凄いと思うのはさまざまあるけれど,街場の情景を建築物とともに描き出す文章力は比類ない。 ということを石丸元章も以前,言っていたな,たぶん。 |
02月11日(木) rumor |
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その頃,留学ビルマ人の間に,「この町の家賃は安い」といううわさが伝わっていたという。狭い町の川沿いに,だから数件のミャンマー料理店が連なっていたのはそれなりの理由があってのことなのだ。 10年前,およそ入るのが憚られるような店に一歩踏み込んだとき,そこには5月の空気にさえ,蒸した東南アジアを偲ばせる匂いに満ちていた。平衡感覚の歪んだ油絵に描かれるのは,何処にでもある土手に雑草がたなびく様子。壁に押し付けられたテーブルの上,メニューと箸,フォークとスプーンが入れられた函の隅に小さな虫の姿が見える。ゴールデンウィークの真っ只中に,昌己と昼からビールを飲みながら,店の中をしげしげと眺めた。 「あのラーメン屋のおばさんなら,必ず"どこへも行かないんですか"って声かけられるな」 「てっきり中国の人だとばかり思っていたら,東北出身らしいよ」 「ほんとかよ。ふざけんなよ」 思わず笑い出す。もう一駅行ったところにある旨い中華料理店のおばさんは,相槌代わりの返事がやけに不躾だった。 「豆腐麺っての旨そうだな」 「俺は炒物にするよ」 その前に入った別のミャンマー料理店の店主は岸田秀そっくりだったけれど,注文をとりにきたのは若いビルマ人だった。 |
02月13日(土) rumor2 |
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ビールをやりながら料理が出来上がるのを待っていると,別の若いビルマ人がやってくる。店員でもないのに,私たちがいるのに気づくと会釈をする。入ってすぐ左手のテーブルは,向かいのマンションとの狭い通りに面して明けた窓から丸見えだ。誰かを待っているのかもしれない。 「シン族ってどのあたりにいるんだろう」 「山岳民族だって話だよ。お茶の葉と木の実の和え物を肴に酒飲むなんて,海の近くじゃしないんじゃないか」 「あ奴,旨そうなもの食ってるな。どこにでも海老は入ってるんだ,不思議なことにさ」 後から入ってきたビルマ人に先に出されたのはカオパット・クンに似ていた。 「海老はさておき,国境接しているんだから,料理が似ていてもおかしくないよ」 |
02月16日(火) rumor3 |
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「不動産屋のおやじの親切心のおかげで,ゴールデンウィークの真っ只中,昼間からビール飲みながらシン族のミャンマー料理にありつけるわけか」 「上海の新天地あたりでさ,夜半に商売女を連れて飲んだくれている白人に比べれば真っ当さ」 「真っ当かどうかなんて意味ない」 「少なくとも新天地に貴腐は似合わないよ」 「お前,まるで煙管が出てくるのを待ってるみたいな物言いじゃないか」 昌己はL字型に曲がった店の奥から灰皿を見つけると,それを片手に籐の椅子へ腰を落とした。そのまま煙草に火を点す。BGMはなく,人の声どころか気配さえしない。遅めの昼飯をとりにきたビルマ人はとっくに食べ終えて出て行ってしまった。かすかに聞こえる空調の音が,壁の向こうを流れる小さな川の流れの邪魔をする。 |
02月19日(金) rumor4 |
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「この前,通りかかったとき,岸田秀みたいな店主がいるほうの店で,ミャンマー料理っていえばいいのかビルマ料理にするか戸惑っただろ」 「挙げ句,タイ料理みたいに旨いですね,って言ったんだ」 「そんなの,大学あたりで集会開いている活動家にでも任せときゃいい。結局,シン族の料理なんだ」 「この黄色い豆腐みたいなのを,やけにすすめられたね」 「そう,シン族の料理だからさ」 「このお茶の佃煮みたいのは,さ」 「旨いから何だっていいよ」 |
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