2010年5月

05月06日(木) まこと  Status Weather晴れ

 「百愁のキャプテン」の山場は(といっても連載上でだけれど),アマカスがパリの酒場で辻潤と出くわす場面で,アリスという名の娼婦(たぶんアリス・ブラン=キキ)や図体の大きなアメリカ人(ヘミングウェイ),エレンブルグ(これは辻潤のエッセイに実際に会ったとの件があったはず)が一堂に会するシーン。そこに辻潤を迎えに辻一が自転車でやってくる。この件も辻まことのエッセイか山本夏彦の『無想庵物語』あたりに記されていたと思う。

 で,何かと言えば,ここで登場する辻一の様子が,「月下の鈎十字」のヨシオ・コバヤシ少年と二重るのだ。



05月08日(土) シーン  Status Weather晴れ

 「地下トンネルの長いオレンジ色の薄闇を伝ってエトワールを潜り抜けると,夏の太陽が真上からやってきて,それでなくても情けないレノー4の全身をぺしゃんこにした」
   矢作俊彦「犬には普通のこと」第1回,野性時代,1997年?

 「薄闇に閉ざされた海底トンネルの長い長い渋滞から抜け出ると,湿った太陽が降ってきて,ブリキの弁当箱のようなラーダ・ニーヴァをぺたんこに押しつぶした。」
   矢作俊彦「フィルム・ノワール」第5回,新潮,2010年

 香港に入ってからの「フィルム・ノワール」には,ところどころ旧作(主に「犬には普通のこと」)のワンシーンが織り込まれている。つい最近まで,そうした所作を怠惰なように感じもしたのだけれど,この小説家にとって,自らの作品の1シーン1シーンのメモリバンクがどのように構成されているのか気になってから,ちょっと見方が変わった。(つづきます)
 



05月22日(土) 音楽  Status Weather晴れ

 平沢進が映画のサウンドトラックを作る際,既発曲からの流用,再構成など容赦なく行なっていることに違和感を抱くこともなく聞いていた。それが小説だったらどうだろう。
 思ったのはそんなことだ。
 
 一度,書いたシーンを再構成して別の小説に用いることの是非。といいながら,「SO LONG」の後半だけは許せないレベルなのだけど。何せOCRソフトで読み込んだデータの校正を,編集部がほぼすることなく,ただ流し込みましたというのがありありと伝わってきたためだ。



05月25日(火) あとは沈黙の犬  Status Weather晴れ

 予感はした。その新連載は,途絶したままの「仁義」の仕切り直しではないかという。
 「フィルムノワール」が「犬には普通のこと」をトレースしたあたりから,「仁義」の続きはどうなのだろうと思った。

 予感は的中した。「ミステリ・マガジン」での新連載「あとは沈黙の犬」は「仁義」に再び取り組んだ1作だった。とはいえ,締切ギリギリの脱稿だったのだろうか。

 「その上着は,二メートルほどは慣れた椅子の背もたれにかかっている」p.134

 というような単純な誤植が残されたままだ。



05月29日(土) 真夜中へもう一歩  Status Weather晴れ

 「この前,テレビで,生保受けている人を囲い込んでいる病院のことやってたの,みた?」
 「このところ忙しくて」
 「取りっぱぐれがないんですって」
 「そんなの,昔の精神病院がやってたことじゃんか。山谷や釜ヶ崎であった事件,知らないか。ぼくがバイトしてた精神科の元々の経営者はそれでつかまったんだぜ。開放治療派が居抜きで買い上げてスタートしたんだ」

 そんな話をしてると,『真夜中へもう一歩』のことを思い出した。福田某が紹介してから先,この小説は「新人類の」云々,と紹介されることしばしばで,あちこちで似たような文章を見たけれど,「ミステリ・マガジン」に連載されていたときから,精神科治療・経営のルポルタージュとしての性格が強いことはいわずもがな。文庫本では割愛された「記」でも,そのような意味合いが記されている。大熊某のルポが先鞭をつけている例のことだ。

 連載の「真夜半へもう一歩」のほうが,物語がストレートで気に入っていて(ダディ・グースの挿絵で冴子はどう見ても浅丘ルリ子だった),単行本では比喩がどこか所帯じみていて乗れないところもときどきある。米軍の絡みも「キラーに口紅」くらいのボリュームなら納まりよいものの,やや膨らませすぎだ。
 「新人類の」などと紹介するくらいならば,露骨に「不思議の国のアリス」を下敷きにしていることのほうが意味合いは大きいだろう。単行本では"彼"として登場するのは白うさぎで,ごていねいに第1章で「巣穴に飛びこむ兎」のようだと形容されている。
 「精神科」と「不思議の国」の相性のよさはもちろんだけれど,ウェブで知った「犬なら普通のこと」と「ユリシーズ」の関係といい,それは愉しみの一つではあるかもしれない。愉しみなのだから,そっと愉しめばよいだけの話なのかもしれない。

 といったことを考えながら角川文庫版を捲っていると,こんな箇所で目が止まった。
 「ジャンパー姿の男たちは,"大空のルーシィ"を支えた四本の足の調整に,黙々と取り組んでいた。目にも動作にも張りがあり,別におかしなところはなかった。あえて言うなら,彼らがその飛行機を空を飛ぶ道具として扱っていないように見えるのが妙だった。それがおかしいかどうかは,判らないが。」(p.79)

 単行本の最後はこんな具合。
 「……おかしいと言えば,彼らがその飛行機を空を飛ぶ道具として扱っていないように見えることだけだった。私には,それがまともに思えた。」

 ちょっとした文章のリズムのズレで,加筆した箇所かどうか,とりあえず,この時期の文章まではピンとくるのだ。『ブロードウェイの自転車』あたりまでかなと思っていたのだけど。



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