2011/08/01/Mon公園には誰もいない
結城昌冶の『公園には誰もいない』(講談社文庫版)を読み終えた。この手の話を読むたびに,矢作俊彦の小説世界の広さというか,風通しのよさを感じる。
ベトナムでも有栖川公園でも,町内会のような人物の関係性が何だか気になるのだ。
2011/08/03/Wedジム
夕方,外注で仕事をお願いしている方と打ち合わせ。そのまま直帰してジムへ。
仕事帰りの1時間,久しぶりにこたえる。
2011/08/04/Thu夕飯
仕事帰り,夕飯用の弁当(みのきち)とケーキを買って家へ帰る。今日くらいは,それなりに奮発しなければならない。
2011/08/05/Fri原宿
原宿へ直行して取材。現地で会った長い付き合いの同業他社の知人に連れられて,昼は路地のタイ料理屋(1階のほう)。
9時過ぎまで,あれこれ仕事が長引き,夕飯食べて帰る。辻原登の『枯葉の中の青い炎』が105円コーナーにあったので買って帰る。
2011/08/07/Sun仙台
仕事でまた,仙台へ出かけることになり,夏休みついでに家族を伴って秋保温泉まで足を伸ばす。先週末,ブックオフで伊坂なんとかの『アヒルと鴨のコインロッカー』(だったか?)を105円コーナーで見つけ鞄に入れていったところ,八木山動物公園とか新幹線南口のコインロッカーとか,動線がシンクロしてしまった。
帰りの電車で読み終えた。こんな感じなのだろうか。
2011/08/08/Mon出典
これを読んで,あたりをつけ,本屋で手に取ったのは週刊プレイボーイ。捲ってみると,やっぱり掲載されていた。それにしても,この写真,昔,同じような角度で撮影された顔写真が「NAVI」にあったけど,さすがに体調が心配になる。
福岡でのゴダール上映会でのようすは元気そうだったのだけど。
にしても,こうやってあたりをつける楽しみって,もはや死語に等しい娯楽なのかもしれない。どんぐり姉妹よろしく,検索しないことの楽しみ。
2011/08/11/Thu東西
午後一番の打ち合わせのため,午前中から千葉大学へ。暑い。そのまま総武線,中央線と乗り継ぎ,武蔵境まで。続けて打ち合わせで,先生と一緒に吉祥寺まで。別れて,中野で降り,ブロードウェイを通り抜け,新井薬師まで歩く。昔からある駅前の古本屋で佐藤佐太郎の歌集を手に入れた。
サワディーで娘と夕飯。
2011/08/12/Fri休み
久々に休みのはずが午前中,会社に出て著者へ校正紙を送り,家内,娘と丸の内の東京会館で待ち合わせ。節電のため,全館休館とのことで,国際ビルの地下で昼食。家内と娘はミュージカルを見るため残り,家に帰ってきた。
少し休んでジムへ行き1時間くらいして帰ってくる。
2011/08/13/Sat寺
初盆のため,寺へ出かける。昨夜,本棚から出てきた『本業』(水道橋博士)を鞄に入れて,行き帰りに読み終えた。
2011/08/15/Montwitter
書くコツが少しつかめてきた。
2011/08/16/Tue転記
10年近く前の言説。http://bit.ly/eGQfgo 大枠の話ではなく,初めて読んで以後,セキュリティの語源が気になっている。連載12回で「何も考えずに安楽に生活できる状態」との一節があるのだけれど,医療現場のセキュリティをみると,逆なのではないだろうかと。
個別の患者への配慮を加えてしまうと,セキュリティが保てなくなるかのようにシステム化された安全性の確保のうえに,はたして安楽性は築き得るのだろうか。一度導入されたシステムは,マンションが建てられた土地のように再構成するのが難しいと思う。いや,それよりはマシかもしれないが。
『看護覚え書』の「変化」の項は,つまり「安楽性」について記されている,と聞いた記憶がある。病む人にとって何らかの変化が安楽につながるのだという。「繰り返しは変化の1つのパターンである」とはブライアン・イーノの言葉だったと思う。繰り返しを意識するバランス感覚は重要に違いない。
キング・クリムゾンの"Frame by frame"。7/8拍子のフレーズをキーボードで繰り返すと,B♭の登場の仕方が不自然なループをつくる。B♭を意識した途端,全体がばらばら,繰り返せなくなってしまう。演奏能力が足らないゆえに,時々に妙なループと自分との距離感が確認できる。
7/8拍子を打ち込み,シーケンサで鳴らしてみる。ここにはないKORG T3の,あるのは一時停止から録音ボタンを続けて押し,ステップ録音にいたるプロセスだ。B♭のループの感触はもちろんない。別の手ごたえ。B♭のループとの距離感は音を出す者に与えられた特権だ。7/8を何度も繰り返す。
手弾きでB♭に集中しすぎた意識は「まるでYMCAのピクニックみたいじゃないか」という按配で,視野狭窄に陥る。シーケンサが鳴らすB♭はループをやり過ごすことができるくらいの距離で響く。やり過ごして,一歩先へ。いずれの手ごたえも,やっかいさを抱え込むところは,どこか似ている。
2011/08/17/Wed日本アパッチ族
読みかけだった開高健の『日本アパッチ族』を読んでいる。
以下,転記。
「1億円あったら何に使いますか」との問いに,「知りたかったら1億円渡してみませんか」と答えたのは倉多江美。『ミトの窓』の文庫版を読み返していたところ思い出した。「上を見れば雲 下を見れば霧」が収載されているのが,この文庫版の編集のよいところ。ハードカバーを捲るのはさすがに難儀だ。
P-MODELと合田佐和子に中井英夫を加えると,HPで書き散らかし始めた頃と同じ固有名詞ばかり。進歩のないDECADE。何だか似た感じがするなと思いながらキーボードを打っていたのだ。ウイリー沖山と平沢進が「シェルルーム」と「シェルガーデン」でヨーデル合戦するアイディアは悪くない。
矢作俊彦の「百愁のキャプテン」に登場する辻潤。パリの酒場で甘粕と対峙する場面は「僕のようなダダイストにでも,相応のヴァニティはある。それは,しかし僕自身に対してのみのそれである。世間を審判官にして争う程,未だ僕は自分自身を軽蔑したことは一度もない」(ふもれすく)に相応しい描写だ。
吉行淳之介の文に登場する辻潤は「『ですべら』の著者にふさわしい感じの詩人だとおもったわけだが,意外だったのは,ときどき氏は他人の顔色をうかがうような厭な限つきをすることだ。プライドを失った卑しいともいえる眼つきである」。他はさておき,辻潤に関してはこちらのほうが気に入っている。
ピアソラの「SUR」を聞きながら,棚ざしにしたままの『百鬼園寫眞帖』(旺文社)を眺める。芥川龍之介描くところの百間先生の図は,鬚を剃ったエリック・サティのようだ。どの写真も目つきが尋常じゃない。墓が早稲田通り沿いの金剛寺にあったなんて。家から自転車で10分程度の距離じゃないか。
2011/08/21/Sun歌舞伎
新橋演舞場で新作歌舞伎を見た。はじめての体験だったが,普通の演劇に近く,内容は,「乱歩の押絵と旅する男」っぽい。
六本木の美術館へ出かけている家内と娘と,ミッドタウンで待ち合わせ。夕飯を食べて少しブラブラして帰ってきた。
2011/08/22/Mon手品師
Twitterに書いた通り。
2011/08/24/Wed転記
平沢進の原稿目当てに「imago」を購入。懐かしいつくりで読み応えある。デブリーフィングの効果が否定されたものの,本当に無効なのかと問う冒頭からトップギアへ。平沢の原稿はインタビュー並みに読みやすい。「フローズン・ビーチ」以後変わらぬ論旨が,このような状況で説得力をもつのは感動。
2011/08/25/Thu転記
平沢進の「音楽と放射能」。宮澤賢治の「南ニ死ニサウナ人アレバ 行ツテコハガラナクテモイヽトイヒ」を思い出す。ぼくにとっての“科学と祈りのはざま”とは,そういうことだ。
宮崎で開業医をされているI医師に10数年前にいただいた原稿が忘れられない。同級生の死を看取ったI医師は「私は怖がらなくてもいい」と言えただろうかと振り返られる。
平沢の文章の一節を改変してみる。「なぜ手品で人は癒えたのか」。つまり,主体を私のほうに引き付ける。この「imago」のなかにcareやcureはあっても,自動詞としてのhealが欠けているのではないだろうか。
中井久夫先生のcureの語源と,東浩紀が記すsecurityの語源を繋げてみる。セキュリティに絡めとられた医療現場とSelfcareとHealの差異をあれこれと考える。
「徹底的に除染せよ。しかし除染しきれない放射能は心配するな」という医師の言説は,「怖がらなくてもいい,といい」という態度に通じる。それを他に誰が言えるのだろう。やはり科学と祈りのはざまだと思う。
「imago」の平沢の原稿は自動詞としてのhealの話なので,前言撤回。竹内敏晴先生に執筆いただいた一節にこんな件がある。「操体法を創めた橋本敬三氏は農村での診療所をたたんで仙台市の旧宅に戻るについて嘆かれたことがある。
――人々はどうしてナオシてもらいたがるのだろう。自分でからだをととのえ,自然の法理に従うようにすればこれはすぐナオルと言っても,ただクスリをくれの一点張りで,しまいにほかの医者へ行ってしまう。なぜこれほど依存的なのか,と。
『癒し』ということばが流行するのはひょっとするとこの語に『ナオシてやる』『治療してやる』という権威的な五感をかぶせて,人々が安心するのかも知れない。」十数年前のこと。
2011/08/26/Friゲリラ
午後から,京王プラザホテルへ取材へ。15にラウンジで打ち合わせしていたところ,ガラス越しの景色がすごいことになっている。
世に言う「ゲリラ豪雨」直撃という按配だ。
その後,赤羽へさらに打ち合わせに出かけたところ,こちらでは浸水のため,スーパーマーケットが閉まっている。
夕飯を簡単に食べて,家に戻る。