the band of holy joy

05/03/05   


 


 東京都立美術館で,ナムジュンパイク展が開かれた年のこと。映画を観ようと上野にきた筈が,なぜか入ってしまった。
 入り口近く,ピーター・ガブリエルとローリー・アンダーソンのコラボレーションが上映されていたので,山道で猪にでくわすようなときめき(とはいわないだろうか)を胸に先を進むが,あるのはモニタ,モニタ,またモニタ。
 氷川丸の体内巡りのような道順で辿っていくと,まわりはモニタばかり。そして,あの「テレビの森」があった。

 こうやって記憶に残っているのだから,インパクトはあったのだろうが,まあ,美術館で観るものではない。佐賀町あたりであれば,好事家が集まって評しただろうが。内藤礼のインスタレーションと比較しては酷だろうか(さて,どちらにとって?)

 同じ年の秋,学祭で一教室を借り「ディスコ」と称して,踊れない曲ばかりをかけた(まだ,カセットテープの時代のこと。まさに遅れてきた『ハイ・フィデリティ』)。曲の合間には裕一のバンドがYMOのコピーを演奏した。
 当時,オーディオ・マニアの徹は,まったくの娯楽のためにスイッチャーを買いこみ,アパートの一室でスイッチングに勤しんでいた。ビデオカメラをモニタに向けてモアレを作ったり(ビデオ『旬4』にも見られる小手先の技),無声映画とガウディのレーザーディスクを流しながらスイッチングしている様を見せつ けられた。

 さて,自称「ディスコ」では,徹の趣味が存分に発揮された。
 レンタル屋から20インチからのモニタを5台借りて,ビデオデッキ3台,カメラとつなぎ,スイッチング。もちろん,教室は真っ暗に目貼りをした。ラジカルTVにインスパイアされたのか単なる偶然か,ビデオにはゴジラやGIジョーまで登場したのには唖然としたものだ。
 ちなみに,機材のレンタル料金は,学内への搬入時のドタバタで,学祭実行委員が立て替えた模様。未だにわれわれは,その代金を払っていない。

 その翌年。
 「今年は部屋借り切ってライブをやろう」
 裕一が提案した。
 全員ステンカラーコートづくめでスミスのコピーバンドという,気が狂いそうなルックスのバンドにも声をかけた。われわれと3バンドで日に数回のステージをこなそう。話はまとまった。
 何事にも手続きは必要だ。教室を借りるにあたり,公認・非公認は問わないがサークル名と担当教授が必要だという。担当教授は,ゼミの教授に引き受けてもらった。
 「サークル名は何というの?」
 そう問われて,言葉に詰まった。まだ,何も考えていなかったのだ。
 「“ムジーク”になると思います」  裕一が咄嗟にいった。たぶん,坂本龍一の「フォト・ムジーク」からの盗用だろう。
 そんなありきたりの名前になるはずはなかった。ゼミ室をあとにしたわれわれは,たまり場に移った。
 「“音楽の友”に対抗して“音楽の父”というのはどうだ」,昌己が提案する。「音楽の友」は,学内にあったサークル名だ。
 「何だかえらそうだな」
 「せいぜい“音楽の父方の妹”くらいじゃないか」
 喬司の提案に,みんなは頷いた。サークル名は「音楽の父方の妹」に決定した。
 ゼミの教授はあきれ顔で「かっこ悪い! ムジークじゃなかったの?」
 そういったきり,学祭期間中,われわれの教室に足さえ踏み入れなかった。

 同じ頃,ベースの弾き語りを見たことがある。立川駅のコンコース。もちろんエレキベースでアンプラグド。弾いていたのは喬司だ。
 学祭の練習のため,立川南口にスタジオをとったのだ。某宗教団体信者と競馬親爺がきれいに左右分かれていたから,日曜日だと思う。
 東京の東からやってきた喬司は,時間より早く着いてしまったようだ。やることは他にあるだろうに,よりによってベースの弾き語りをすることはない。第一,音が聞こえないじゃないか。
 改札を抜け,左手を見ると,見知った姿があった。 唖然とし,そして爆笑した。

 以後,ベースの弾き語り,アンプラグドという姿を目にしたことはない。一度も。
 その日の練習は,思いのほかひどかった。

 学祭はまだ遠く,夏休みがはじまって友人たちとはしばらく会っていなかった。9月の中野サンプラザ,コクトー・ツインズのライブを集合場所に怠惰な日々を過ごしていた。ライブの日までお互い連絡はしなかった。1か月程度のことだ。だが,魔の手はどこに潜んでいるか判らない。

 その日,中野「RARE」で待ち合わせた喬司と裕一のようすが妙な具合だ。カラ元気というかのか,テンションは高いのだが,そうしていないと沈んでしまいそうな不安定さが見え隠れしている。
 「何だよ。気持悪いな」 昌己が,そう質す。
 「ハハハ,信じるものは救われるってさ」
 「変な商売に手を出したんじゃないだろうな」
 私はイヤな予感がした。
 「ギクッ」
 「何がギクッだよ」
 「鋭いな」
 「いえよ。黙っておくからさ」
 「そのうちな。ほら,開場したぜ」

 その日,サンプラザ前で,このような会話が交わされてことを,よもやコクトー・ツインズの3名は知るよしもなかったろう。ライブは心地よく,芸のない表現だが「天にも登る心地よさ」だったと,ここではしておかねばなるまい。

 ライブ終了後,地下鉄のなかでも,ライブのことはさておき,話は怪しげな商売のことに終始した。

 その日,奴らは最後まで口には出さなかったが,人工ダイヤのネズミ講に絡めとられてしまったのだった。それから半年,喬司がとうとう,そのネズミ講を廃業に追い込むまで,難儀な荷物を背負わされてしまった。一攫千金を狙う目は,もはや正気の沙汰ではなかったのだ。
 その後,コクトー・ツインズは『天国それともラスベガス』というタイトルのアルバムを発表する。それこそ,あの日の2人の心境そのものだった。

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