世界の真下で
04/06/19
風呂なし2階建てアパートに住む徹の引っ越しを手伝った。
殺風景な6畳部屋には,古びた神棚が据えられている。珍しい光景を眺めていると,その上に何やら筒状に丸められたポスターがあるのが見えた。
「あれ,忘れ物かな」
「ヌードポスターじゃないのか。前の住人から心ばかりの餞別だぜ,たぶん」
「シャルロット・ランブリングかなぁ。それともナスターシャ・キンスキーかぁ?」
しばらくの間,ポスターの被写体で盛り上がった。話はどんどん膨らむ。 やおら少しずつ手を伸ばし広げてみると,それは確かにポスターだった。
「さてさて」
女性の髪のようだ。やはり……。 と,徹の手がピタっと止まった。
「ふざけんなよ」と一声。
私たちは覗き込み,絶句。そして爆笑した。
そこに写っていたのは原由子だった。ナスターシャ・キンスキーと原由子。違うにもほどがある。
授業を終えると,徹の部屋に向かう。学校からそれほど遠くなかったので,というよりは,することがなかったので,よくいったものだ。だらだらと時間は過ぎ,結局は近くで夕食を共にする。
引っ越して早々,隣人から焼き鳥の差し入れがあった。40代の冴えないサラリーマンだ。銭湯の帰りらしく,こざっぱりとはしていたが。
あるとき,彼はあることに気づいた。夜,遠くで聞こえる鼻歌が,だんだんと大きくなる。どうやら隣人らしい。銭湯帰りに,近くの飲み屋や一杯やってきたところなのか,やたら気分よさそうだ。彼の部屋の前を通るときは絶好調。そして鍵が開く音がする。
--まあ,これくらい仕方ないか。徹は気にも,とめなかった。
ところが,よく聞くと,部屋に入ると同時に声がピタリ止むのだ。あれだけ盛り上がっていた歌声がまったくしなくなる。
「聞きにきてみろよ」
そう誘われると,いかざるをえない。確かにいう通りだった。私たちは隣人を肴にまた,くだらない話だ。
そのうち,10時,11時まで,その部屋で時間を潰すことになってきた。
ドンドン!
隣人が壁を叩く。
意外と音が漏れるのか,というより,私たちの声が大きすぎるのだ。静かにしろという合図なのだろう。そう理解した。
ドンドン! が数回続くと,最後は「早く寝ろ!」。
「そのうち,歯磨けよ,宿題やったかっていわれそうだな」
相変わらず,減らず口ばかりの私たちだった。
昼飯だけを食べに行く喫茶店の定食は300円だった。選択肢は焼き肉定食と若鶏の生姜焼きのみ。肉は未だに苦手だが,値段の安さに釣られて,友人たちと週3日は通った。若鶏のササミだけを食べていた。若鶏の正体は,どうにも怪しいのだが。
さて,決して旨くはない定食を待つ間,長椅子に座る私たちの身体は,だんだん平たくなっていく。時に,終電のヨッパライそのままに,床に滑り落ちそうなくらいに。
「この定食,350円になったら絶対来ないな」
脂身だらけの焼き肉定食を目の前に昌己は断言する。
「330円でも微妙だぜ」
逆オークションのように,値段が下がる。
「脂身がこれ以上多くなったら,どこ食えばいいんだよ。限界じゃないか。どこで,こんな肉調達してくるんだろう」
中年の不良ウエイトレスは,私たちの会話を後目に,箸を置くやいなやどんどん片付けに入る。
「まったく,不良ウエイトレスってのは,不良バーテンよりタチが悪いな」
「ランチっていや,リディア・ランチのビデオがレンタル屋に置いてあったぞ。クレーン車と火炎放射器が活躍しまくるやつだ」
「SPKじゃないのか」
「ノイズバンドのプロモーションビデオだとは思ったけど…」
結局,350円になってまで,私たちは,この喫茶店に通った。思い返すと,昼以外に入った記憶はない。
借りていた部屋に戻ると,玄関先で隣人が待ち構えている。何やら妙なようすだ。
「お友だちがきてたみたいなんだけど,帰ってしまったかな」
低く呟く。
「すみません。間違えて呼び出されましたか?」
「いやぁね。そうじゃなくて。部屋にいたら,ばかデカイ音でミカバンドが聞こえてきてさ。何だか……聞き苦しい声がかぶってるんだ。『タイムマシンにお願い』だったんだけど」
部屋に入ると,『黒船』のジャケットが出しっぱなしで,LPがターンテーブルに載っている。
学校を中点にして,駅とその部屋は等しい距離にある。駅まで歩いて20分くらいかかっただろうか。おまけに電話を引く気はない。私の部屋を訪れるには,そこそこの勇気が必要なのだ。
農家に続く畦道際に立つ一戸建てを3人でシェアするつくりだ。あたりの「野を焼く煙」さえ見渡せる。だから,ほとんど部屋のカギはかけない。
それまでも留守のとき,部屋を訪れた友人が,一息ついて駅へ向かうことはあったのだが。
LPをかけ,それに合わせて唄うのはあ奴しかいない。喬司だ。
ふと,流し台をみると,バナナの皮とケーキのカップが放置されている。バナナの皮……。思わず笑ってしまった。唄って,食って,帰ったわけだ。
しばらく後,学校を休んだ徹のアパートへいく3名。鍵はかかっているものの,どうにも,なかに人のいる気配がする。
「いるんだろ,あけろよ」
「別に,恥ずかしくなからさ」
何か,不躾なことをしているとでも思い込んでいるようすだ。
「雀荘いくぞー」
相変わらず返事はない。
「コラ」
裕一が調子にのってマッチを点け,ドアの隙間から投げ込もうとする。さすがに私たちは,その手を止める。
「だいじょうぶや,だいじょうぶ,鍵あけるって」
「お前ら,何してんだよ」
振り返ると,後ろに,手に烏龍茶のペットボトルをさげて徹がいる。
弛緩したリアクションに,一同,マッチもつ手を隠す。
放火するところだった。
喬司は,みそラーメンが好きだと公言して憚らなかったが,学生生活が終わるまで,学食以外で彼がみそラーメンを食する姿を見たことはなかった。「旨いラーメン屋じゃなければ食べない」のだそうだ。
「どうやって,旨いかどうか判断するんだ?」
事ある毎に私たちは尋ねた。
「花板が……」
だから,ラーメン屋に花板はいないと思うのだが(最近は,なんだか勘違いしているのもいるようだけど)。
一生,みそラーメンを食べられないのではと危惧,することはない。学食のみそラーメンが旨いとなぜ判ったのか? 卵が先か鶏が先か……。
吉野家で「白(ごはん),ぎょく(玉子)」なんて平気でいうわ,カネのないときは「夕飯,タバコ3本」。マージャンで勝った朝は,徹夜明けにステーキ弁当。こ奴の胃腸にだけはなりたくなかった。
食事のときも,ばか話ばかりだ。意外と旨いラーメン屋で,(喬司はここでも,みそラーメンは頼まないが)注文するのはラーメンと餃子。
「こりゃ,ラーギョウだな」
「おれは,チャーギョウ」
「こ奴,いいところ突くな」
どこがいいところか判らないが。
「おれ,チャーラー」
「そりゃ,食い過ぎだ」
不毛な会話を何度繰り返したことだろう。
学校があった町に,急にわれわれの顔見知りが増えた。しかし男ばかり。おまけに平均年齢が異様に高く,自営業者とくる。
「よお,昨日,あの後どうだったい?」
「振り込んじゃいましたよ」
雀荘での知り合いは,みな,そんな調子だ。週3日は学校まで辿り着くことなく,空の上から呼び止められる。
「こらこら,待ってたぞ!」
見上げると,2Fの喫茶店の窓には裕一の姿。この時期のツケは卒業間近,忘れたころにやってきたのだが。
雀荘だけでは飽き足らず,マージャンパイを仕入れる奴も現れた。当然,そ奴のアパートは占拠されっぱなし。いなか暮らしが長いからかどうかは知らないが,鍵が掛けられた状態のドアを見た記憶がないほど,戸締まりに無頓着な男だった。
そ奴は,空いた時間を近所の中華料理屋でバイトに費やしていた。だから,私たちが揃ったときに都合よくいるのは,5回に1回というところだ。
ある日のこと。めんつは揃った。雀荘には今週の負けを取り立てようと手ぐすねひいて待つこの町の知人。それでもマージャンがやりたい。
「あ奴のアパートでやるか?」
「どうせ,鍵はかかってないさ」
午後の日差しが,私たちに「日陰は涼しいぞ」と手招きしていた。
もちろん鍵はかかっていない。そ奴は午後の授業に出て,そのままバイトのはずだ。 私たちは,早速上がり込んで,卓を囲んだ。
それから,どれくらい経っただろう。
「ハラ減ったな」
「出前とるか?」
「そうだ。あ奴がバイトしてる中華料理屋に電話してみるか」
驚いたことに,出前を持ってやってきたのは奴だった。
どう考えても,出前先が自分の部屋だということに気付きそうなものなのにドアを開けるまで気付かなかったのだ。
「おいおい,シャレにならないよ」
ダチョウ倶楽部じゃあるまいし。確信犯なのか。
渋谷で飲もうという話になった。
ところが,その日,夜11時まで,何をしていたのか記憶がない。だから,思い返せるのは,マイアミに行ったところからなのだが,何で飲みにいくのに,マイアミに入るのか? それも夜11時集合ということはあるまい。
5人のうち3人は,すでに酔っていた。伸浩はハナ肇のブロンズ像のような色つやをして,やたら機嫌がいい。ポン酒とワインをチャンポンしたということを覚えているのだから,やはり,どこかで一次会を終えたのだろう。
「安いから,ここにするか」
店を決めたのは喬司だった。マイアミは開店記念のため,割安で注文できたのだ。店先にそう記された幟が翻っていた。
毎度のばか話を終え,多摩っ子を自称する徹は終電を見送ってしまった。あとは,いかに他の友人を帰宅させないかの心理戦に突入していた。
チェックのため先頭に立った喬司の様子がどうにもおかしい。
「だって,割引だって幟が出てんじゃねえか」
「あれは夜11時までです」
「ふざけるなよ。そんなら,とっとと片付けとけよ」
「……」
「払えねえな」
喬司も喬司なら,店員も店員だ。どう喝して怯むような奴ではなかった。場数を踏んでいるのは明らかだ。もしかしたら,日ごと,このようなサギまがいをしているのかもしれない。
一発触発の様子に,私たちは,近くにあった灰皿を手にした。
そこに口元を押さえながら割入った男がいた。ブロンズ像の伸浩だ。夢見心地を過ぎ,さっきからトイレに籠りっきりだったのだ。くぐもった声で「やめとけよ。ここははらっとくからさ」。
その様子を見た喬司は爆笑だ。諍いになりはしない。
とはいえ,憤懣やるかたない,われわれは,そのまま徹の誘いのままラーメン屋に入った。ここでも,伸浩は注文するやいなやトイレに駆け込みなかなか出て来ない。私たちが食べ終わった頃,店員も気になって「見に行ってきましょうか」
「かまいませんよ。そのうち出てきます」
からっぽになった胃にラーメンを流し込ん伸浩が,のれんをくぐって出てくるまでには,それからしばらくの時間が必要だった。
徹の策略は奏功し,私たちは朝まで,ミスタードーナッツで不味いコーヒーを押し込んだ。
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