老いたる新人類の年への哀歌

04/06/19    


 


  昌己と2人ではじめた社会人バンドに和之が加わり3人になった。ベースはいなかったものの,ウインド・シンセでメロディを吹きながら,ベースラインをフォローする彼の能力に助けられ,曲ができあがってきた。 (here)
 3回目のスタジオ入りのときだったろうか。和之は浮かない顔だった。
 「結婚するんだ」
 しばらくの沈黙。
 「聞かなかったことにしてやろう」
 昌己ががいった。

 振り出しに戻ってから長い道のりだった。

 2人では,TGの「ヒーザンアース」みたいな曲になってしまう。オールインワンシン(KorgT3)の導入は当然のなりゆきだった。シーケンサに合わせての演奏。カチっと決まるはずが,今度はホルガー・ヒラーか,はたまたスキニーパピーのような音になってしまう。

 数年間,都内のスタジオをわたり歩いた。そのスタジオがどこにあったのか覚えていない。結婚後の和之を巧みに誘ってスタジオ入りしたときのことだ。ホールで缶ジュース片手に乱雑に張り散らかされたチラシを眺めていた。
 「死ね死ね団のライブ告知だぞ。まだ,やってたんだ」
 「そういえば,“中卒”ってメンバーいたよな」
 「いた,いた」

 スタジオを出て清算をしていたときのこと。友人が「死ね死ね団って,やってるんですね」
 何気なくスタッフに声をかけた。
 「メンバーに中卒っていませんでしたか?」
 「僕が中卒です」
 まさか…。
 そのスタジオを営んでいたのが“中卒”さんの親戚だったと思う。

 
 振り出しに戻った私たちだったが,「バンド名が決まってないことを不自由に思わないのは,何よりも不味いのではないか」という合意のもと討議が続いた。練習を終えて,駅近くの居酒屋で終電を過ぎ,結局,看板まで白熱してしまう。傍からみると,場違いにもほどがあったろう。
 「エンベロープス・アンド・ディナーズ」=便せん(封筒だな)と晩ご飯=ビンセント・ヴァン・ゴッホやら,「ヘジテイツ」「対バンド」など,“せめてバンド名くらいは笑いをとろう”という姿勢から逃れられない。

 イギリスに70年代なかばデフ・スクールというバンドがあった。バンド名の由来は,〈まさにそこ=デフ・スクール〉を借りて練習をしていたからだという。当時はキンクス+ロキシー・ミュージックと称されたそうだが,私はリアルタイムで体験していない。90年代早々,突如,再結成され,ライブアルバム1枚を残した。同じ頃,オリジナルアルバム2枚(?)もCDとして再発されてしまった。オリジナルメンバーには,あのクライブ・ランガーがいる。だから,ライブアルバムで聞かれる音は,マッドネスやモリッシーの2ndに通じる空気が漲っていた。その頃はマッドネスの停滞期(“ザ”が付いた後の)でもあり,早速,ヘビー・ローテーションで聞きまくった。

 居酒屋での討議の際,何度か「デフ・スクール」のことが話題にのぼった。
 「センスあるよな」
 納豆の天ぷらをつまみながら,何度ため息をついたことだろう。

 結局,バンド名は仮のまま(Cola L(それは飲みきれない))。夜毎,場違いなニュー・ウエーブバンド話に熱くなる私たちは,その居酒屋を出入り禁止になった。

 
 Cola L(今のところ)唯一のライブには,正月に飛行機で会場まで行くことになった。田舎に帰った面倒見のいい裕一がプロデュースしたライブに飛び入り参加させてもらったのだ。

 空かすかの機内に,昌己はベースを抱えて搭乗した。
 私は担当パートの都合上,トランペット,キーボード,ギターが必要だった。ギターは調律が狂っていても,たとえ弦が3本しかなくとも特に問題ないので,裕一が持っているものを借りることにし,トランペットとキーボードを先に発送しておいた。

 裕一の家に行くと,置いてあったギターには,まさに弦が3本しかない。いくら問題ないからといって,本当にそういう状態のものとは。とりあえずそのギターを借りてリハーサルした。私たちは問題なかったのだが,さすがにプロデューサーである裕一は「いくらなんでも…」絶句した。
 とはいえ,正月三が日に開いてる楽器店なんてあるだろうか。訝しがる私たちを横目に,裕一のバンドメンバーが輪をかけて面倒見のよい人で,近場で弦を調達し,その上,かけかえてくれた。

 さて,本番。

 P-modelの「フロア」をカバーした以外はオリジナルを演奏した。オーラスは,友人の打ち込みテープにベースとギターのノイズが鳴り続けるというものだった。何を思ったのだろう。記憶にないのだが,当日,「最後の曲のとき,片づけはじめるから」そう告げた。
 当然,本番でも片づけはじめた。音が鳴るなか,やおらシールドを引っこ抜いて丸めた。不思議なことに,それほどの音はしなかった。途中,「何でもいいから音出せよ!」昌己はいう。その声を聞きながら,エフェクターのスイッチを切った。
 「どうも」挨拶の声がして,ライトが点いた。舞台が妙に白々としていたことだけは覚えている。

 
 ポール・ボウルズがにわかに脚光を浴び出したころ,ボウルウズ夫妻を写した写真がそこかしこに見られた。いきおいあまってジェイン・ボウルズが書いた小説まで翻訳されてしまった。表紙には彼女のポートレイトが使用されていたと記憶している。

 そのころ,私たちはボーカリストをリクルートしようと東奔西走を繰り返していた。バンド名の次は華のあるボーカリスト探しだ。それなりに次の発展を模索しながら,かといって戦略をもって動きはしなかったのだが。
 あるとき,ひとまわりも年下の女性に声をかけたことがある。
 「唄ってみないかね」
 スタジオに入ると,カバー曲(思いっきりピコピコさせたセンチメンタルジャーニーやブレイクアウェイなど)は唄うが,オリジナル曲になるとスタジオの外で煙草を吹かしはじめる。唄はいまいちだった。
 とはいえ,ステージ映えするので何度かスタジオに入った。毎度,どうにも,いや何よりも音楽の接点がつかめなかった。

 ある時,スタジオへの道すがら,買い求めたポール・ボウルズの特集号に掲載されたジェイン・ボウルズの写真を見て,ひとこと「宮本信子って,この人の真似してたのね」。

 なるほど,当時の宮本信子の髪型やファッションはジェイン・ボウルズそっくりだった。となると伊丹十三はポール・ボウルズか。

 それはさておき,あとあと考えると,彼女とのセッションのなかで,意見の一致をみたのは唯一,そのひとことだけだったことに気付いた。

 数年後,雑誌「コスモポリタン」でマルチまがいの化粧品店のチーフ・スタッフとして,その名前と写真を見た。人は相応に年をとるのだと感じた。付けられたコメントは,まったく当時を偲ばせるものではあったが。

 
 次にスカウトしたのは中学生時代の友人だ。

 煩わしさと徒労に辟易し,昔の友人たちとは音信不通のままでいようとしたものの,どういう方法を取ったのか,数年ぶりに実家に連絡が入ってしまった。それも同窓会だという。4-6-3のダブルプレーのようなタイミングで,出席したのは10年以上前のこと。数年ぶりに会った友人たちは,やけに所帯じみて,おおよそバンドメンバーにスカウトできそうにない。
 それでも,中学生時代から自分の部屋にドラムセットを持ち込んでいた明彦と,クリムゾンのリザードをダビングしてくれ俊介は,何とか巻き込めそうだった。俊介はベースとボーカルをやっているという。
 いつまでたっても,ドラムとベースばかりだ。

 一度,3人で飲もうという話に落ちついた。

 さて,新宿で待ち合わせていると,明彦の話があやしい。「早いもの勝ち」「感性が鋭い奴にしかわからないバイトをしている」などと言いはじめる。その姿に学生時代の喬司が二重った。俊介は,某宗教団体に入っていたのち,わけあって脱退したそうだ。

 恐ろしい2人に挟まれてしまった。 マルチ商法の非を問うときは俊介とタッグを組み,新興宗教の悪口をいうときは明彦に寄り添う。ヌエのような数時間,生きた心地がしなかった。

 マルチよりは宗教脱退者の方が,まだ気がおける。それにしても,こんな選択肢しかないものだろうか。

 唄えるということで,俊介をスタジオに招待した。
 「フレディ・マーキュリーなら唄えるんだけど」
 ホントかよ???
 どう聞いても,音域はワンオクターブないぞ。それも,いきなりテッペンからスタートするから,下がっていくしかない。聞いてるほうの喉が苦しくなってくる。

 即断,ボーカルものはあきらめて,スリー・ピース・バンドの線でいくことにせざるを得なかった。

 それにしても,「フレディ・マーキュリーなら唄える」と言い放ったのボーカリストは奴だけだ。それだけは,ボーカリストらしい物言いだ。

 
 ポンピドーセンターで「アンドレ・ブルトン展」が開かれたことがある。(後に日本にもやってきたはずだが)矢作俊彦のレポートによると,「ブルトン展って何を展示するのだろう」と訝しがって観に行ったところ,展示品のほとんどが貰い物,贈られ物だったそうだ。贈り主がピカソやマン・レイ,ダリだから展覧会になるものの,貰い物で展覧会開いた芸術家(といっていいのかどうか)は他にいないだろう。

 同じころ,私はブルトン=円楽説とともに,ツァラ=スティーブ・セブリン説を唱えた。セブリンといっても,毛皮のヴィーナスではない。スージー・アンド・ザ・バンシーズのベーシストのこと。やたらとネックの長いベースで,実に単調かつカッコいい(テクニックに走らないにもほどがある?)フレーズを奏でていた。

 もうひとりのベーシストの記憶がある。解凍前P-modelのベーシスト中野照夫は,タルボのフレットを取っ払い,それをピックで弾いていた。本人のフェイバリット・ベーシストがミック・カーンとクリス・スクワイア。おっしゃる通りの音だった。

 さて,われわれのバンドに参加した俊介は,ジャコ・パストリアス仕様のフレットレス・ベースを持参してきた。
 「おっと!」
 私たちは,どよめく。
 軽く音あわせだ。6/8拍子のオリジナルにはじめてベースラインがつく瞬間。
 治外法権バンドでは,拍子以外は(時に拍子さえも)本人まかせ。出てきた音に文句はいわない。

 だが,終わって,違った意味で驚いた。
 私たちの曲は,私がキーボードやギターを弾いても,基本的にメロディーラインがなかった。出てこないのだ。その曲もキーボードのリフとドラムのみ。そこにフレットレス・ベースだから,「もしかしたら,メロディをつけてくれるのでは」一縷の望みをかけていなかったというと,うそになる。
 そこにSが弾いたベースラインは,1音のみ。
 フレットレス・ベースだろ? 他にすることあるだろうに。

 その後,数回,スタジオに入ったものの,バスドラが重くなった感触しかしなかった。
 そして,バンドは休息に入った。

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