焼き鳥は今,どこを飛ぶか

04/07/17    


 

 職場が銀座にあったころ,正確にいえば,銀座の会社に通っていたころ,誘われて,早い日は4時過ぎから有楽町ガード下で飲んでいた。何せ,早ければ3時には仕事が終わってしまう会社だった。数えるほどしかいないものの,他の社員は三々五々,銀座,虎ノ門,赤坂へと散っていった。
 当時,40に手が届こうかという上司は,よく「小松」に連れていってくれた。同郷の出入り業者と3人で,何度,テーブルやカウンターを囲んだことだろう。

 「小松」でカウンターというと,あの角で焼き鳥を焼いている真ん前のことを指す。目の前には,誰のもとへいくとも知れない串が常にある。もちろん扇風機はまわっていたのだと思う。それが,混乱に輪をかけるのだ。
 あたりはただでさえ煙が充満しており,どんな不良スプリンクラーでも,散水の一回や二回はしてしまおうというほど。そこにカウンター前からの煙が加わり,両脇にはヘビースモーカー2名。
 それらすべての煙を全身に浴びるのだから,身体はシャワーを浴びればいいけれど,ジャケットやトラウザーズは頻繁に着替えなければ,どこで何していたかバレバレだ。
 やっかいな犯罪に巻き込まれ,警察に昨夜のアリバイを尋ねられるようなときには,「この臭い嗅いでみてください」。少しは役に立つだろうが,滅多に,いや一回もそんな経験はない。

 「やっぱり,ここのつくねだね」
 上司は酔ってくると,主人に向かって,よくそう言った。女性姉妹(だったと思う)で切り盛りする店だ。あのあたりで長く店をはっていくには,何がしかのコツはあろうものの,やはり味以外,勝負するものはあるまい。確かに,今でもその味は忘れられない。

 「ひととおりね」
 そう注文しておいて,お新香と少しのつまみを追加する。酎ハイやポン酒を飲んだことが多かったように思う。

 年末には染之助染太郎が,恒例行事のようにマイクをもってやってきた。外国通信社からインタビュー(コメント)を取られたことも一度や二度ではない。

 悪い酒ではないのだが,あの世代はやたら飲ませるので,家へたどり着くまでに,何度か胃を引っくり返したこともあった。調子が悪くて点滴打って会社にいっても,帰り際,「消毒,消毒」といいながら連れていかれる。「1杯だけなら,付き合います」のはずが,そんな日に限って終電まで,有楽町界隈をはしごしてしまう。
 (消毒,消毒というものいいは,まったく別の人間から,同じように言われたことがある。あの世代の符牒のようなものなのだろうか)

 会社を辞めることになり,最後の日も3人で飲んだ。社長に対して文句をいい,私の行く末を心配し,酒をすすめた。感傷的な話をする人ではなかったが,その日のことは,なんだか忘れられない。

 Cola-L最初のライブを終え,家に帰ると留守番電話に,その会社の別の上司から伝言が入っていた。
 「お亡くなりになったので,お葬式に来られるようだったら来てほしい」

 まだ,40代なかばだった。私が辞めてしばらく後,ヘッドハンティングされて,ただ,なかなか仕事は厳しかったようだ。調子が優れず,検査の結果,発見された脳腫瘍は手遅れだった。
 葬式に伺い,人前で泣く自分を,そんなこともあるのだと不思議に見ていた。

 その後,つくねや焼き鳥をあまり食べなくなったのは,当時,胃を引っくり返しすぎたためだと,自分では思う。

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