磨かれる時間

04/08/07    


 

 彼女の本職は放射線技師。ベッドサイドに行って患者さんと話し込んでしまう放射線技師として,その病院では名を馳せていた。
 彼女はジャズボーカリストをめざしていた。

 つらつら思い出すに,初めて会ったボーカリストだった。 回りにはドラマーやベーシストは腐るほどいたのに,ボーカリストとギタリストとはまったく出会わなかったのだ。(これはアマチュアバンドの常からすると特異なことだ)

 ライブハウスに誘われて,何回か彼女の唄を聴いた。
 「バスルームシンガーだろうか」と邪推していたわが身を呪うほどに,彼女の声は魅力的だった。豊かな中音域は説得力をもって迫ってきた。ステージに立つ姿を見ながら,「たったひとりでいい。ボーカリストに出会っていれば,バンドの展開も変わったろうに」,そんなふうに思った。

 好きで唄ってはいたものの,彼女はプロをめざしていた。われわれのまわりでは,音楽を“癒し”だとかなんだとか,ほざく奴らがいたので,何かの企画があるたび,彼女は「癒しの音楽やってくれない」と頼まれることがあった。それも酒が入った席で,酔いにまかせてのひとことだ。
 彼女は,癒しの音楽など唄おうとは思っていない。プロをめざすのだから,対価を払って聴いてもらう場でしかスポットライトには当たらない,それだけは譲らなかった。 そうした姿勢を貫くには,秋の空のように高い志が必要だったろうと,思い返す。

 そして,その年の夏。

 季節はずれの台風が近づいている。通り一本へだてて,海へ開けた公園は横殴りの風雨で,何もかもが引き千切れんばかりに震える。ガラス越しに眺めながら「今日,果たして帰れるのだろうか」と,不安が首をもたげる。

 明日午前9時から,2000人規模の会が始まろうというのに,セッティングのスタートは前日の午後8時。おまけに,この天気だ。隣で女性ジャズボーカリストは,不安げに窓の外を眺めている。 
 自分たちの持ち場の準備を終えた頃,みなの仕事もケリがついたようだ。午後11時をまわっていた。用意のいいメンバーは近場のホテルに部屋をとっていた。
 「泊まっていく?」
 冗談じゃない。何がうれしくて(そんなこと,ひとこともいってないが)2まわりの上の異性の寝起きの顔を見なけりゃならないんだ。
 「雨,弱くなったみたいだから,今のうち,帰ります」嘘八百で,その場から逃げるように駆け出した。ドアをあけると台風の目と睨みあいだ。質の悪い台風は,開場待ちでもするかのように,そこから動かなかった。

 広い通りに出るまで,女性ジャズボーカリストと言葉を交わす余裕などありはしない。最終バスはすでに停留所を通り過ぎ,タクシーの空車はしばらく来そうになかった。

 雨風を避けながら,場違いの茶飲み話から,いつの間にかバンドの話になった。
 「お金とって唄うことに,ジレンマはない? 僕らは,それで活動休止したんだから」
 深夜の居酒屋での討論を思い出す。あげく,その店は出入り禁止になった。夜中の1時過ぎ,ニューウェーブバンドとしてのありかたに口泡を飛ばしていたのだから,しかたない。
 「夢だからね。そんなこと,いってたらダメよね」
 彼女は,こともなげにいう。

 通り過ぎるタクシーのフロントは赤い明りしか映らない。私はそっと聞いてみた。「なんで,始めたの?」
 「放射線かける患者さんは,ほとんど,がんなのよ。治療がうまくいかないと,患者さんとは永遠の別れ。でもね,かなしいけど,何か教えられることがあるの。
 そのじいさんは,ガンコで時間に厳しい。なぜか気が合ったんだけど…」
 「どんな人でも,巻き込んじゃうんだ」
 「まあね。じいさんには夢があった。もう一回釣りにいきたい。でね。私,友だちに釣り雑誌,あるのよね,そういうのが。譲ってもらったり,コンビニの地図を勝手に使って,拡大コピーして」
 「……」
 「目の悪いじいさん見えるように,スペシャルビッグな地図つくったりよ」 
 「力はいってるね」
 「状況は厳しいから,それくらいはしなくちゃ。でも現状維持がやっと。だんだん落ちていってしまうの。なのに,じいさん,もう一回,釣りにいくんだってウキウキして。
 あきらめてほしくないよね。つい,それで,いっちゃったの。“私も自分の夢,かなえますから,がんばって”って。そんなこといっても,つらいのよ。そのとき口に出た夢が,ジャズボーカリスト」
 「前から,なりたかったの?」
 「ううん。そう思ってたって中途半端に決まってるじゃない。でも,それからは必死。英会話ならったり,こっちだって真剣にしなくちゃ」
 この会の打ち合わせのとき,人待ち時間に見せてもらった楽譜を思い出す。すきまなく書き込まれたコメントは,まるで指揮者のようだった。
 私は,いたずら描きのような,わがバンドの図面を重ねた。少なくとも,そこには音符はなかった。バンド内“治外法権”を謳っていたので,楽譜など必要ではなかったのだ。

 「結局,じいさんは亡くなって,夢だけが残されたわけ」

 話が終わったからといって,タクシーがやってくるわけではない。ずぶ濡れになりながら,それからしばらく,タクシーを待ち続けた。

 ここ数年,彼女のステージを目にしていない。人伝に,ご主人の都合か何かで,遠方に引っ越したと聞いた。今も,次にステージに立つ日をイメージしているにちがいない。 

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