【1】仲間と映画をつくろうとシナリオを書いた。「抱きしめたい」と「言い出しかねて」と「王様の気分」。どれもあとで小説(単行本『神様のピンチヒッター』に収録)にしたんだけれど,「言い出しかねて」というのは,どのみち映画にできるわけなかった。なにしろヘリコプターは落ちるし,車は燃える。当時のオレたちでは手に負えなかった。「抱きしめたい」は,いちおうフィルムにして1時間くらいはまわした。でもその時点でヒロインの女の子と喧嘩になっちゃって,結局,嫌になって,やめちゃったんだ。
矢作俊彦インタビュー年譜「小説家になんてなりたくなかった」,p.73-74,別冊・野性時代,1995.

【2】20代の頃書いた短篇小説を読めばわかるけど,全部狭い場所であんまりあちこち動かないでしょ。全部知っている場所で,撮影させてくれそうな場所なんだよ。小説だからそんな舞台を選ぶ必要はないのに,元のシナリオが撮影させてくれそうな場所ばっかり書いているから,現実の場所になっちゃうわけ。
矢作俊彦インタヴュー,p.20,nobody,No.19,2005.

小説第1作「抱きしめたい」に比べると,「夕焼けのスーパーマン」は読みづらい,「王様の気分」は今一つだと思っていた。『マイク・ハマーへ伝言』『リンゴォ・キッドの休日』をすでに読んでいたので,あの唯一無比の文体[ref]一人称に加え,三人称にもかかわらず一人称のような語り口で進めていく文体の格好よさのこと。「リンゴォ・キッドの休日」以前の小説は三人称で書かれているものの,登場人物に対する感情移入が遠慮がちな分,レトリック上,損をしているように感じる。[/ref]比べるとガチガチで風通しが悪く感じたのかもしれない。しかし今回,読み返してみたところ,かなり面白かった。こんなに格好よかったっけ? というのが正直なところだ。

【1】に「夕焼けのスーパーマン」があげられていないので,これは書き積み重なった映画のシナリオではなく,オリジナルではと思ったのもつかの間,【2】をみると,「夕焼けのスーパーマン」はピタリ当てはまるので,やはりシナリオ経由の小説なのだろうと納得した。10年後,「週刊漫画アクション」に掲載された「THE PARTY IS OVER」とつなげても違和感のない感じがした。