2005年2月

02月01日(火) TravelerとTourist  Status Weather晴れ

 ポール・ボウルズの『シェルタリング・スカイ』の冒頭に,TravelerとTouristの違いについて触れた一節があったはず。はじめて海外に出たとき,飛行機のなかで読み,妙に納得した記憶がある。なのに,具体的な内容をすっかり忘れてしまった。本棚の奥から引っぱり出そうにも,あの文庫本,いったいどこに仕舞ったのだろう。

 こんなとき頼りになるのはハードカバーだ。だてに日がなスペースを取っているだけじゃない。

 「彼は自分のことを観光客ではなく旅人だと見なしていた。その違いは,ひとつには,時間の要素にかかわるものだ,と彼は説明していた。観光客が,概して,数週間後か数か月後には家路を急ぐことになるのにたいし,旅人は,いずれの土地にも属さず,ゆっくりと,何年もかけて,地上のある場所から他の場所へと移ってゆくのだ。」(ロベール・ブリアット『ポール・ボウルズ伝』p.166-167,白水社)

 これ,以前にも引用したような気がするけど,かまわないか。


02月03日(木) ムーン・パレス  Status Weather晴れ

 「怖がるんじゃない」と僕の声は言っていた。「誰だって死ぬのは一度きりなんだ。喜劇はもうじき終わる。そうしたらもう二度とやらなくていいんだ」
   ポール・オースター『ムーン・パレス』(p.103,新潮文庫)


 そのプレハブ小屋の壁を巨人が剃刀で一撫でした名残のように据え付けられた階段を上ると学食があった。2階の半分は,徹が「2時のワイドショー」を欠かさずに観たテレビがあるスペースだ。卒業式に出た記憶はないのに,その日,そこで友人と会ったことは覚えている。探し出せば,同じ日同じ場所で伸浩と2人,一万円冊を数える姿を撮られた写真がある筈だ。町田町蔵でもあるまいし,どのような経緯で,私たちは札を数えていたのだろう。

 気まずさなど埒外のこと。それでも,研究生として残る裕一も含め,皆が次の一歩を決めていたのに,誰もそのことに触れなかった。夢に現れる意識の固まりのような妙な圧迫感は,不安へと姿を変える。一人消えては二人が加わり,夕方,助教授の自宅へ出かけたのだと思う。消えた友人はそこにいて,結局,皆で夜まで一緒だった。

 助教授宅のリビングには10数名が集まっていた。皆が十分に膝を崩せるだけの広さがあった。友人たちと他愛ない話をしながら,壁際のステレオラックに納められたLPの背を眺めると,ラジニーシと中島みゆきのアルバムが並んでいた。昌己は卒業式の日だというのに助教授からラジニーシのアルバムを借りた。全体,そんな感じの飲み会だった。徹は床暖房に一頻り関心していた。しばらくして裕一は半ズボン姿で,喬史はいつも纏っているジャンパー姿で現れた。
 シゲさんは当たり前のようにそこにいた。煙草を吸い,酒を飲み,飯を食う。かなり遅くまで残っていたのではないだろうか。いつものことだったので,そんな印象しかないけれど,以来,シゲさんとは会っていないことに最近気づいた。

 4月に入ってからも,昌己や徹,裕一とはインクスティック芝浦や新宿ロフトでたびたび会っていた。
 「この前,泉谷しげるのカラオケつくらされたよ」
 裕一がいう。
 「なんだ,それ」
 「シゲさんがきてさ,カラオケつくってくれって頼まれて。唄を吹き込んでいったんだ」
 「おまえとシゲさんって,およそ接点ないだろう」
 「学校で,よく会うんで,話してたら,いつの間にか,そんなことになっちゃってさ」
 次の年の3月,裕一は就職を決め大学のある町を離れた。
 
 先週のこと。
 上海でメールをチェックしていると,シゲさんが昨年6月,肺がんのため亡くなったとの知らせが入っていた。悲しいというよりも,なんだか現実感がないのだ,いまだに。


02月04日(金) ムーン・パレス2  Status Weather晴れ

 私と徹が病院でアルバイトを始めて間もなく,シゲさんが同じバイトをしていると知った。徹は同じ階で勤務することになった。彼にとってはそれが運のつきだ。学校で,はたまた徹の住むアパートを知ってからは,夜討ち朝駆けじゃあるまいし,シゲさんは頃合いを見計らってやってきて,「今日のバイト代わってくれない?」。お陰で彼は週3回,ひどいときには4回もバイトに行くこともあった。

 ときどき同じ勤務帯になり,私が番をするカウンターに患者さんを伴ってやってくるシゲさんは,監視しようという意識のかけらも感じられない力の抜け具合だった。いきおい患者さんの信望が厚く,フロアの端で相談に乗るさまを何度か目にした。
 「シゲさんに相談して,何か解決することでもあるのだろうか」
 当初,私と徹にはその様子が不思議だった。思えば,解決することなんでありはしないのだ。しばらくして,患者さんから同じように相談を受け,ただただ聞いているだけの時間を経験して,ようやくそんな簡単なことが腑に落ちた。

 1年が過ぎた頃,私と同じフロアでバイトする人の良い先輩が,アパートで亡くなっているのを発見された。死因は心不全だったものの,遠因は不眠のため処方された睡眠薬が身体にかけた負担であったことを,看護婦さんから聞いた。その先輩はシゲさんと同じ学年だった。最期の様子を,なぜかシゲさんは詳しく知っており,あるとき話してくれた。
 「プレーヤーが回りっぱなしだったんだ。それを止めようとしたらしい。ターンテーブルに何が乗っていたと思う?」
 「クリムゾンですか?」
 「ドアーズだって」
 「ほんとですか」
 「しかたないよな。眠れないって聞いてはいたんだけどさ」

 病院に,死はついてまわる。
 シゲさんは,しばらくしてそのバイトを辞め,私たちも4年になると,就職のためと偽り,そこから離れた。

 シゲさんと話した時間はそこそこ長かったのに,プライベートなことは何一つ話題にのぼらなかった。だから,以前書いたように,そうめんの汁に生卵をおとしたり,漫画のコレクションに値札と付けて悦にいったり,卒論は漫画だったり,そんなことしか記憶にない。
 はにかんで笑うときの妙に人懐っこい目だけは,それでも覚えている。


 「陸の上から明け方の汽笛に耳を傾ける気分には,謂れのない厳粛さが含まれている。だからと言って淋しがったり,つまらない感傷に耽ることはない。」
   矢作俊彦「夕焼けのスーパーマン」(『神様のピンチヒッター』p.79,光文社)


02月06日(日) ベランダ  Status Weather晴れ

 家の近くにあるアパートには,ベランダが付いていない。壁面には穿たれた窓とフィンのような日除け以外,凹凸がないことを不思議に思っていたものの,よもやだからといってベランダがないとは予想だにしなかった。物干竿を流すスペースがないので,日除けの下に紐を通し,洗濯物はそれにかけてあった。
 そのアパートは歩道一杯までを敷地として使っている。ベランダを付けてしまうと,その分,引っ込まざるを得ないので,苦肉の策として,そんな設計で通してしまったのかもしれない。

 新しい高層マンションを除き,上海のアパートは押し並べてベランダが付いていない。だから,香港の町並を撮った写真にあるように,窓から物干竿を縦に伸ばした光景を至る所で目にした。滞在中,ビルの窓から物干竿を見下ろす視線を傍目に,物干竿の先に高層ビルが林立する様子ばかりを見ていた。
 夜の11時過ぎ,酔い覚ましに町中を歩いていると,年端のいかない子どもが店番をしながら眠っている姿。

 「夢をみる人だけがそれを想像しえて,他の誰もが想像しえない。夢は,絶対に個性的である」(松田道雄)

 これじゃ,まるで,いい米兵だ。夜の町中を,早朝の市場を,ただ,うろたえながら,うろたえながら,歩いたのだけど。


02月07日(月) 新潮  Status Weather晴れ

 今日の日記です。

 日本版「エスクァイア」がUPUから創刊されたとき,矢作俊彦と村上春樹の名が同じ誌面に載るんじゃないかと期待した。80年代はじめ,アンディ・ウォーホールズ・インタビュー・マガジンと冠した「スタジオ・ボイス」の再来をイメージしていたのだ。別段,この2人の作家の名が同じ誌面を飾ったからとって,それがどうしたと問われれば,答えに窮してしまう程度の思い入れなのだけど。創刊3号くらいに矢作俊彦のエッセイは掲載されたものの,内容は「スタジオ・ボイス」からほど遠く,先のささやかな期待すら忘れてしまった。

 今日,雑誌「新潮」3月号を買い求めた。それはp.364,今月の執筆者の欄に実現した。村上春樹と矢作俊彦の名が並んで掲載されている。ビートルズとローリングストーンズという世代じゃないので,平沢進と戸川純,はたまたキング・クリムゾンとスティーブ・ライヒ(くらいしか譬えようがないが)を同じステージ上で観たに近い感慨があった。
 以前記したように(ここ),村上春樹は矢作俊彦の書いたものに言及したことはある。一方,矢作俊彦は,みずからの小説の売り上げ部数を譬えるのに村上春樹の小説と比べたことはあるものの,文章自体について記したのを読んだ記憶はない。
 巻頭が『偶然の旅人 連作 東京奇譚集1』で巻末が『悲劇週間 SEMANA TRAGICA』。ほんとに矢作俊彦が締め切りを守る癖がついてしまったなら,しばらくは,この幸福な雑誌を毎月,手にすることができる。

 で,『悲劇週間』はますます,北杜夫の小説のような雰囲気が強くなってきた。これで,大學が病に臥せり,義母がつくったオートミールに杏ジャムを浮かべ,茜色が滲んでいくのを眺める描写などがあれば,まさに。


02月10日(木) 記憶  Status Weather晴れ

 「焔のかたまりが,根もとから千切れて飛んで行つた。空を見たら,低く垂れ込めた雲が真赤に焼けてゐた。辺りにゐる人の顔を見たら,みんな金時のやうに赤かつた」
   内田百間「見送り」(『百鬼園随筆』p.14,旺文社文庫)

 このところ,内田百間が書いたある一節を探している。一番近いのが上の箇所なのだけれど,どうも違うのだ。
 私の記憶では,場所は夏の暑い日の銀座通り。信号待ちをしている百間先生。青に変わると,皆が一斉に顔を上げる。日に照らされて一面が真っ白になる,という流れだったのだけど。


02月11日(金) アキラ  Status Weather曇り

 その頃,テレビドラマをネタに喫茶店や飲み屋でバカ話をしていると,あっという間に時間が過ぎてしまった。ストーリーについて茶化した覚えはない。登場する俳優,それもバイプレーヤーの強烈な印象について真顔で話せば話すほど,酸欠になるくらい面白かった。大地康男が,まだ“川俣軍平を演じた俳優”(いくらなんでも,あまりにそのままの役名じゃないか)としてのみ刻印されていた頃のことだ。誰もが想像するように私たちも,彼を“和製ジャック・ニコルソン”と形容していた。ただ,その形容だけが先歩きした期間は意外と長かったのではないだろうか。
 萩原流行だとか蟹江敬三なども同様,喫茶店でよく話題にした。

 印象的な一言がピタリ当てはまると笑いは加速する。喬史は,まさに力技で俳優と一言をつなぎ合わせた。それはたとえば,市原悦子ならば「おや,まあ」とか「出てくる出てくる」。番宣のCMしか観ないでも容易く出てくる一言だけど,他の誰それはさておき,市原悦子だけは心底,彼女が演じる役が喬史を魅了して仕方なかったと記しても言い過ぎではあるまい。

 動揺する演技でいつも遡上にのったのは中井貴一と名古屋章だった。特に,名古屋章が声を裏返す様は素面のときはもとより,酒の席ではそれだけで数十分,話題が尽きなかった。喬史はまったく似ていない物まねで,名古屋章演じる様子を繰り返すものだから,いつの間にか,笑いは段取りと化してしまう。名古屋章,動揺する演技,裏返る声,それに対する反応,さらに裏声,似てないぜの反応。まさにキャッチボールだった。
 だから,今でもボールさえ放られれば,それを返す反射神経だけは衰えていないと思う。


02月12日(土) コリドー街  Status Weather曇り

 有楽町から新橋方向に高架下を進み,交差する何筋かを越えると,銀座コリドー街につながる。帝国ホテルと泰明小学校に挟まれたガード下に,トンネルの入り口のように少し下り気味の入り口があった。彼方に見える新聞の集積所では,四六時中,人が行き来していたし,人通りもほとんどなかったので,看板が出ていたけれども,そんなところで店を営んでいるとは思わなかった。

 上司は先代の社長に連れられて,明るいうちからその店で,一日の最初の一杯に付き合わされたという。女将に惚れていたとか,今は広告代理店で専務にまで上りつめた誰それと取り合ったなど,武勇伝の二つや三つあったそうだけれど,目の前にいる女将に昔日の面影を想像できるほど,私は場数を踏んでいなかった。

 カウンターだけの店だったと思う。出るのは日本酒と簡単なつまみ。いちげんさんお断りで,客の平均年齢はひたすら高かった。昭和とともに年輪を重ねてきた店で,はじめは若い客に安くで酒を出す店としてスタートしたという。彼らが通いつめた。いきおい,常連に出世した輩が続々排出する。場所柄,マスコミ関係者がやたらと多かった。いつの間にか彼らを相手にした,半ばクローズドの店となっていった。

 20代を折り返してもいなかった私は,だからその店で場違いな若造だった。話題だって,誰それが若いころは,といった話ばかり。その誰それが,社長だとか専務だとかいうのだから話題に入れはしない。いつもカウンターの隅で,上司と女将がする先代の社長の話を聞いているしかなかった。

 店の壁に,古びたポスターが貼ってあった。はじめて来たときから,その中の一枚が気になってしかたなかった。1979年に西武美術館で開かれた「辻まことの世界」展のものだ。ところが聞き出すタイミングがない。「辻まこと展のポスターですよね」と切り出すのがやっとのこと。「誰だったかが置いてったのよね」で,話はあっけなく途切れてしまう。馬鹿げた一言だったと今でも思うけれど,他にどんなふうに尋ねれば,何か別のことが聞き出せたのか,その一言は思いつかない。

 数年前,セゾン美術館が閉館する際,それまで開催された各展示会のカタログが販売された。そこで,あのときのポスターが告知していた「辻まこと展」のカタログを見つけ,買い求めた。水彩画のようなタッチで描かれた油絵が好きで,ときどき眺めている。


02月14日(月) 不機嫌の時代  Status Weather晴れ

 『スローターハウス5』(カート・ヴォネガット Jr)の日だったのか。

 山崎正和の『不機嫌の時代』(講談社学術文庫)は,買ったまま会社の引き出しに仕舞って何年も過ぎた。数年前,知り合いが,評論家とは別の肩書きの山崎正和氏と連絡をとる必要に迫られたとき,参考までにと貸したままだ。
 いまさら読もうとは思いはしないけれど,どこかにこのタイトルが引っかかっていた。

 P-MODELのアルバムを聞き始めたのは,もちろん楽曲に惹かれてであることはいうまでもない。ただ,加えてメンバーのヴィジュアルイメージ,表情やらポーズやらが印象的だった。端的にいってしまうと,実に不機嫌そうだったのだ。
 ライブでの平沢進の態度なんで,不機嫌そのものだったし(MCが「こんばんは,P-MODELです」「それじゃ最後の曲です」だけなんてライブ,何度も経験した),そのころは脱退していたけれど,田中靖美の表情は皆,実に不機嫌そうに映っていた。
 不機嫌な態度というのが,ロックと分ち難く結びついていた一時があったといっても,説得力はないだろう。少なくとも私にとってのロック体験というのは,その不機嫌さ加減だったのだ。
 1980年代,それでも不機嫌さを醸し出すロックバンドはそれほど多くなかった。まあ,ニューウェイヴバンドには不機嫌そうな表情をしたミュージシャンがそこそこいたけれど。
 今でも,不機嫌そうな表情を見ると,80年代のロックが鳴り出してしまうのだ。


02月16日(水) hi5  Status Weather

 最近の日記です。

 知り合い経由で, “Welcome to hi5”というメールが届いたのは週末のことだった。沈思黙考の末,いや,そんな大層なことはなかったけれど,招待されたのだからと,とりあえずそこにサイトをつくった。ぜんぶ英語なのだ,これが。
 で,Seknさんのソフトと手持ちのペーパーバックの引用でどうにか更新をしのいでいる。

 登録は本名が前提のようだけど,どうせ判らないだろうからと,“AjaPan 51”としたところ,ファミリーネームはアルファベットでなければならない(当たり前だな)というので,“Aja Pan”,つまりはAjaに成り代わってしまった。“エイジャ”と読ませると,AORっぽくて実にカッコ悪い。

 YMOのアルバム“BGM”は自虐的だけど,あれが『AOR』だったとしたら,もっと笑いがとれたのではないかと思う。


02月17日(木) まだ  Status Weather曇り

〔1941年6月23日カンヌ〕

 18歳の学生は年寄りだが,男としてはまだ少年だ。
 25歳のボクサーは年寄りだが,弁護士ならまだ若い。
 32歳のスキーヤーは年寄りだが,音楽家ならまだ若い。
 40歳のテニスチャンピオンは年寄りだが,教授ならまだ若い。
 46歳の婚約者は年寄りだが,学士院の会員ならまだ若い。
 50歳の色男は年寄りだが,絵描きならまだ若い。
 55歳で女の尻を追いかけているのは年寄りだが,死ぬにはまだ若い。
 いつも若くありたいと思っている自分はいま47歳。さあ,いそがなければ!
   (ジャック=アンリ・ラルティーグ)


02月20日(日) ウリシス911  Status Weather雨のち曇り

 WEBきららでスタートした矢作俊彦の『ウリシス911』。同通信によると,「人類が月面に着陸した1969年の横浜を舞台にした青春小説になる予定です。矢作さんとしては長年温めていたテーマで、小説家としてのスキルが熟したいまだからこそ書ける作品だとおっしゃっています。」

 で,第一章が『夏のエンジン』に収載された「月影のトヨタ」を下敷きにしたもの。名前を置き換えて,さりげなく「礼子」が刑務所に入っている件を差し込むあたり,「a day in the life」(『死ぬには手頃な日』)に繋げるつもりなのだろうか。鈴木という名前の学生運動に身を投じる(なんていいかたは,露骨に判ったぶりだけだけど)人物が登場するので,ここは「ぼく」と「克哉」の「鉄とガソリン」(『舵をとり風上に向く者』)をもってくるか,などなど。

 もちろん,まったくオリジナルのストーリーを読めるなら,それに越したことはない。ただ,また(いい意味で)久生十蘭みたいなことを始めはしまいかと期待も少々。

 ところで,『THE WRONG GOODBYE』では,なぜあの店が,カーリンヘンホーフなんて名前で登場したのだろう。

その後,誤植の件は進展なし。


02月21日(月) 飲み過ぎ  Status Weather曇り

 最近の日記です。

 仕事で知り合った,チャンドラーフリークと飲んだときのこと。一軒目は小洒落た和風ダイニングだったので,酔っぱらうまでもなく,ほどほどで切り上げた。勢いはなかったのだけれど,寒空の下,ぶらぶらしていると結局,そのバァに向かってしまった。
 少し前,昌己に教えてもらった店だ。小さな馬蹄形のカウンターと,ボックス(というよりはテーブル)が3席。ぐるりと囲む壁はアマチュアカメラマンにギャラリーとして開放している。その日は,一面,日の入りの作品ばかりが飾られていた。

 トムコリンズを飲んだ後,ラフロイグの10年からはじめて,アードベックの17年。最後に,タンカレーで締めようと(無茶な),バァテンダーの女性からアイディアを得ていたのだけど,シンガポールスリングとか,ジンバックとか(ここのジンジャエールはウィルキンスンだった筈だから,よかったんだけど),今ひとつスッキリしない。

 で,「マティニ」といったら,「思いっきり強いですけど」と返されてしまった。

 カウンターのなかは女性バァテンダー(というのかな)2人。隣のチャンドラーフリークはすっかり出来上がってしまい,「村上春樹の小説に出てくるような感じですね」などと口に出すから,こちらが恥ずかしくなってしまった。
 「川上弘美の小説に,わたしそっくりな女性が登場するんです。友だちに“あなたにそっくり”といわれて読んだら,ほんと似ててびっくりしちゃった」
 「蛇を踏む」じゃないでしょうね,などとはいえず,あとは『センセイの鞄』くらいしか記憶にないし(それに泉昌之の文庫版『新さん』の解説だ),リアクションのしようがなかった。

 彼は前回飲んだ後,事務所に忘れ物があるからと戻り,入り口のガラス扉に顔面を強打。前歯2本を差し歯にしてしまった。楽しい酒で,かつ,なかなかワイルドな飲みっぷりなのだ。

 その翌日は久しぶりの冠婚葬祭で,また飲んだ。体調最悪。


02月23日(水) おだいじに  Status Weather晴れ

 見舞いに行った帰り際,「おだいじに」と一声かけるのが常識だと,かなり最近まで思っていた。

 数年前のこと。仕事で早坂暁の講演を聞く機会があった。みずからの闘病経験を笑いを交えて話すなか,「目の力」のエピソードが印象的だった。うすうす自分ががんに罹っていることを感づいていたものの,インフォームドコンセントなんて言葉は一部でもてはやされていただけの頃だったので,医療職者からは何の説明もなかったという。どうやら,間違いないと判断した契機は,友人のお見舞いだった。
 どうにもうそをつけないその友人は,帰り際「がんばれよ」と一言。ただ,声以上に,目に力が入っている。こうは言わなかったが,何に近いといって,西川きよしが横山やすしにむかって目を剥き,「やすしくん」というときのような力の入りようだったのではないかと思う。
 「みなさん,お見舞いにいかれるときは,目に力をいれたら,すぐばれますよ」
 
 で,「おだいじに」というと,患者さんは自分をお大事にしなければと,無意識に感じてしまうのだそうだ。必要ないのに安静にしてしまい,いきおい回復は遅れる。高齢者の場合,廃用症候群になだれ込むリスクはやたらと高くなる。
 ただね,そんなものなんだろうか,とも思う。


02月26日(土) おだいじにじゃない  Status Weather晴れ

 今日の日記です。

 朝起きると,左腰背部に疝痛。のたうち回る。生まれて初めての尿管結石。死ぬかと思った。ブスコパンの筋注と点滴で,何とか夕方には持ち直したものの,「2,3日はこの痛みが続きます」という医師の一言に,心底顫えた。


02月27日(日) hi5 2  Status Weather晴れ

 最近の日記です。

 気がむくと,hi5に書き込みをしている。ただ,英語で何がしかを綴ることができるほど,語学に長けていないので,いきおい,ペーパーバックからの引用とデジカメ写真に頼ってしまう。

 材料探しにチャンドラーのペーパーバックを取り出し,文庫本と交互にながめていると,本棚の後ろに『新ニッポン百景』『新ニッポン百景'95~'97』の背表紙が覘く。久々に取り出しペラペラ捲っていると,こんなフレーズだ飛び込んできて,夜中だというのに思わず吹き出してしまった。

 「展望台が何故,私をうんざりさせるかといえば,要は展望するものが何もないような場所に,次から次へと造られるからだ。」
   矢作俊彦『新ニッポン百景'95~'97』p.270,小学館,1998.

 いや,まったく本当に。


02月28日(月) 痛みの記憶  Status Weather晴れ

 田畑を切り開いてゆるやかに下り坂が続く。突き当たりの小体な山を避けるように左折すると,今度は上り坂だ。大谷石の階段の手前で自転車を降り,湿って虫食い歯のように穴があいた一段一段を上ると神社に辿り着く。夏休みは入ってから早朝に訪れる以外,ときどき友だちとアリ地獄釣りをする程度,およそ遊び場ではなかった。

 父親がめずらしく早く仕事を終えて帰ってきたときのことだ。めずらしいことは続きもの。その神社の境内にある鉄棒で,逆上がりの練習をしようという。私が小学3年生のときだったと思う。

 背丈以上の高さがある鉄棒にぶら下がり,1回転しようとしたところで,何を思ったのか手を離してしまった。顔面から地面に落ちた。父親は笑いながら「手を離したら落ちるだろう」。今にしてみると,人はあまりに驚くと笑ってしまうことがあると理解できるものの,それでも,すでに顔面から落ちた息子を目の前にかける言葉ではないだろう。

 「結石が痛かった」という記憶に比べ,「その痛みの質自体」はすでに記憶の外に置かれてしまった。あの夏の記憶も同じ。どのように痛んだのか,思い出そうにも,そんなメモリはどこにもありはしない。



「日記」へもどる