宮本信子はタンジールに向かったのか

 ポール・ボウルズがにわかに脚光を浴び出したころ,ボウルウズ夫妻を写した写真がそこかしこに見られた。
 いきおいあまってか,ジェイン・ボウルズが書いた小説まで翻訳されてしまった。表紙には彼女のポートレイトが使用されていたと記憶している。

 そのころ,われわれはボーカリストをリクルートしようと東奔西走を繰り返していた。
 あるとき,ひとまわりも年下の女性に声をかけたことがある。
 「唄ってみないかね」
 スタジオに入ると,カバー曲(思いっきりピコピコさせた「センチメンタル・ジャーニー」や「ブレイク・アウェイ」など)は唄うが,オリジナル曲になるとスタジオの外で煙草を吹かしはじめる。唄はいまいちだった。
 とはいえ,ステージ映えするので,何度かスタジオに入った。毎度,どうにも接点がつかめなかった。

 ある時,スタジオへの道すがら,買い求めたポール・ボウルズの特集号に掲載されたジェイン・ボウルズの写真を見て,ひとこと「宮本信子って,この人の真似してたのね」。

 なるほど,当時の宮本信子の髪型やファッションはジェイン・ボウルズそっくりだった。ということは伊丹十三はポール・ボウルズか。

 それはさておき,彼女とのセッションのなかで,意見の一致をみたのは,唯一,そのひとことだけだった。

 数年後,「コスモポリタン」でマルチまがいの化粧品店のチーフ・スタッフとして,その名前と写真を見た。人は相応に年をとるのだと感じた。付けられたコメントは,まったく当時を偲ばせるものではあったが。

デフ・スクール

 バンド名が決まらず,(結局,決まらなかったのだが)いろいろなバンドを参考に討議が続いた。
 前にも書いたが,練習を終えて,駅近くの居酒屋で終電を過ぎ,結局,看板まで白熱してしまう。傍からみると,場違いにもほどがあったろう。
 「エンベロープス・アンド・ディナーズ」=便せん(封筒だな)と晩ご飯=ビンセント・ヴァン・ゴッホやら,ヘジテイツ,対バンドなど,どうも笑いに偏ってしまう。
 
 イギリスに70年代なかば「デフ・スクール」というバンドがあった。バンド名の由来は,〈その場所=デフ・スクール〉を借りて練習をしていたからだという。キンクス+ロキシーミュージックと称されたそうだが,私はリアルタイムでは体験していない。
 90年代早々,突如,再結成され,ライブアルバム1枚を残す。オリジナルアルバム2枚(?)もCDとして再発されてしまった。
 そう,オリジナルメンバーには,あのクライブ・ランガーがいる。だから,ライブアルバムで聞かれる音は,マッドネスやモリッシーの2ndで聞かれる音に通じる空気が漲っていた。
 その頃はマッドネスの停滞期でもあり,早速,ヘビーローテーションで聞きまくった。

 居酒屋での討議の際,何度か「デフ・スクール」のことが話題にのぼった。
 「センスあるよな」
 納豆の天ぷらをつまみながら,何度ため息をついたことだろう。

 結局,バンド名は仮のまま(COLA-L(それは飲みきれない)),居酒屋は出入り禁止になったのは,前に書いた通りだ。

マイアミでの諍い

 渋谷で飲もうという話になった。
 ところが,その日,夜11時まで,何をしていたのか記憶がない。だから,思い返せるのは,まずマイアミに行ったことからなのだが,何で飲みにいくのに,マイアミに入るのか? それも夜11時集合ということはあるまい。

 5人のうち3人は,すでに酔っていた。ひとりは,ハナ肇のブロンズ像のような色つやをして,やたら機嫌がいい。ポン酒とワインをチャンポンしたということを覚えているのだから,やはり,どこかで一次会を終えたのだろう。

 「安いから,ここにするか」
 マイアミは開店記念のため,割安で注文できたのだ。店先にそう記された幟が翻っていた。

 毎度のばか話を終え,多摩っ子を自称する友人は,いつの間にか終電を見送ってしまった。あとは,いかに他の友人を帰宅させないかの心理戦に突入していた。

 チェックのため先頭に立った喬史の様子がどうにもおかしい。
 「だって,割引だって幟が出てんじゃねえか」
 「あれは夜11時までです」
 「ふざけるなよ。そんなら,とっとと片付けとけよ」
 「……」
 「払えねえな」
 喬史も喬史なら,店員も店員だ。どう喝して怯むような奴ではなかった。場数を踏んでいるのは明らかだ。もしかしたら,日ごと,このようなサギまがいをしているのかもしれない。
 一発触発のようすに,われわれは,近くにあった灰皿を手にした。
 そこに口元を押さえながら割入った男がいた。ブロンズ像の友人だ。夢見心地を過ぎ,さっきからトイレに籠りっきりだったのだ。
 くぐもった声で「やめとけよ。ここははらっとくからさ」。

 その様子を見た友人は爆笑だ。諍いになりはしない。

 とはいえ,憤懣やるかたない,われわれは,そのまま友人の誘いのままラーメン屋に入った。ここでも,ブロンズ像の友人は,注文するやいなやトイレに駆け込みなかなか出て来ない。われわれが食べ終わった頃,店員も気になって「見に行ってきましょうか」
 「かまいませんよ。そのうち出てきます」

 からっぽになった胃にラーメンを流し込んだ友人が,のれんをくぐって出てくるまでには,それからしばらくの時間が必要だった。

 多摩っ子の友人の策略は奏功し,われわれは朝まで,ダンキンドーナッツで,不味いコーヒーを押し込んだ。

合田佐和子のいる場所

 1980年代を通して,表現者としての合田佐和子から目が離せなかった。もちろん,そのモチーフが他(写真,絵画)からの盗用であったことは知った上で。

 はじめは劇の描き割りではなく,本の装丁者として出会った。たぶん矢作俊彦の『死ぬには手頃な日』であったと思う。
 「パンドラ」買い求め,エジプト行きあたりまでは後を追ったが,そのあとパッタリ消息が途絶えた。

 10年ほど前,突然,青山の画廊で久々に個展が開かれるという情報を得た。足を運ぶと,相変わらずトーンを絞った油絵とコラージュ。ナスターシャ・キンスキーはじめ映画スターをモチーフとする姿勢は変わっていなかった。もちろん買い求められる値ではなく(もしかすると,数カ月の寂しい懐をもちこたえさえすれば手に入れられる金額であったかもしれないが),受付に置かれた小冊子を購入して帰ってきた。

 「オートマチズム」と題されたその冊子の奥付をみると1989年7月1日限定503部,発行所 トムズボックスとなっている。

 果たして,500部も売れただろうか。
 なにせ50年以上前,ブルトンとその一派がくさるほど描き散らかしたオートマチズムをコミュニケーションツールに置き換えたものだったのだから。いかにも古くさい。

 やばいな。
 なぜか精神の危うさを感じた。

 再び,消息は途絶えた。さらに数年,ある3号雑誌にインタビューが掲載された。何でも精神科に入院していたそうで,そこに写されたポートレイトの目は虚ろなまま,弛緩した精神を露呈する。

 合田氏は,揚げ物さえ体質的に受け入れない油嫌いなのに,嘔気をこらえながら油絵を描きはじめたという。そのことを知ったとき,いつか,こんな姿を目にすることになるだろうと思っていた。
 
 だから,何だというのだろう。
 
 合田佐和子がいた場所は,いまだ空白のままだ。

情けない

 この間,仕入れた情報。

 ただし,あまり汎用性はない。
 キング・クリムゾンの「太陽と戦慄パート2」をパクッて「エマニエル夫人」サウンドトラック中の「愛のテーマ」(ではなかったかも知れないが,とにかく映画のなかでも使用された曲)がつくられたというのは意外と有名な話。ロバート・フリップが裁判に持ち込み勝訴した。
 ここまでは「ああ,そうなのか」くらい,それほどの感動はない。

 では,誰が「エマニエル夫人」に「パート2」が使われていることに気づいたのか?

 ひとりのベーシストが登場する。マイケル・ペリン似の(ということは,二瓶なんとかというウルトラマンに出ていた俳優にも似ているということだが)ジョン・ウェットンというその男は,ツアーで寄ったパリで,空いた時間に映画館に入った。
「 話題になってるエッチな映画でも観てみるか(ニヤリ)」,そんなモノローグがあったかどうかは知らないが,期待に胸ふくらませてスクリーンを見入っていた姿を想像すると,情けない……。
 感情移入しようかと思う頃,何とスクリーンから,日頃自分が演奏している曲が聞こえてくる。空耳か。いや,そんなはずはない。まさか……。

 気分は萎え,そそくさと映画館を後にした彼は,しずしずとリーダー兼その曲の作曲者フリップのもとへ。
 「話題の映画「エマニエル夫人」のなかに,「パート2」そっくりの曲が使用されているという噂ですぜ」
 というようなやりとりがされたかは記録にない。が,もはやこのシーンはコメディの範疇だ。

  いわゆる「真夜中のカウボーイ」はフリップ&イーノだけじゃなかったのだといってしまっては,言い過ぎか。「エマニエル夫人」観ただけで。

 子どものころ,「エマニエル菌?」なんていっていたころのことを思い出す。「シビルの部屋」を観にいった友達は「シビル○○」と呼ばれていたし……。今のガキは,そんなことやってないだろうに。

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