俊とは美術部で一緒になり,帰宅する方向が一緒だったので,部活帰り一緒になることが多かった。
高校というのは不思議な場所で,それまで一度も遭遇することがなかった性格や背景をもった同世代と何人も出会った。何度か書き留めた1年のときの担任が変わったパーソナリティの持ち主で,入学早々,たぶん入学式当日に言われたことが「他人が期待するような返答だけはするな」だった。私はその言葉を真に受けたのだけれども,芳弘や俊などは,いくつものクッションでかわしながら理解していたようだ。
芳弘がどのような背景をもっていたのか,その後,20代の半ばまで頻繁にやりとりしたものの,よくわからない。線路から近くの一軒家に住み,2階の一部屋が彼のものだった。兄がいるとは聞いたけれど,私は会ったことがなかったはずだ。母親を「おばさん」と呼ぶので,反抗期なのかと思っていたけれど,彼の中学時代からの友人は,別の苗字で彼を呼ぶことがあった。ノートに,今でいうところのラノベのようなものを芳弘は書いており,まわりの友人がそれを読むのをたのしみにしていて,そこでの作者の苗字が,中学時代からの彼の友人が呼ぶ苗字だった。てっきり友人間でのペンネームのようなものだとばかり思っていた。
高校を卒業してから彼は現役で地元の国立大学に入り,私は浪人生活が始まった。ところが疎遠になるどころか,もしかすると高校時代よりもの頻繁に彼は私の部屋を訪れたり,長電話をかけたり,たまに連れ立って電車に乗って古本屋に出かけることもあった。友人とやることというと結局,変わりはしないのだ。
あるとき,連れ立って支線と本線をつなぐ駅近くの古本屋まで出かけた。芳弘がこのあたりに親と住んでいたんだ,と言ったような記憶がある。私は彼が引っ越してきたのか,としか思わなかったが,何らかの理由で親と離れて,親戚の家に住むことになり,高校入学を契機に戸籍が変わったのかもしれないと思ったのは,芳弘との疎遠になってからしばらくしてのことだった。
イギリス国教会が政教分離を破ったことについて最低だという認識のはもちろん,サイクス・ピコ協定の非道さについても芳弘に感化され自分なりに理解したのだった。それとこれとは別で,彼はザ・ビートルズが大好きだったし,私が繰り返し聞いたイエスの「こわれもの」は彼から譲り受けたもの,英国のロックが好きだった。
俊は1979年に,「さらば宇宙戦艦ヤマト」のラストは最低だ,特攻賛美じゃないかと言い,中学時代の友人たちにはそんなふうに言う奴がいなかったものだから驚いた。彼と映画「動乱」を観に行ったことがあって--俊は小椋佳のファンだった,これはいいんだなあと不思議に思ったことを思い出す。
中学時代に政治に興味があったり,何らかの知識をもとに語る友人はひとりもいなかった。それがあたりまえだったのだけれど,高校に入った途端,近しい友人がそれぞれに政治に関する話を,これもあたりまえにするので,だいたい同じだけの時間,同じような地域で育っても,いろんな奴いるのだなあと感じたことを思い出す。
大学に入ると,新たな友人たちの性格は高校時代と180度変わって,誰ひとり政治について語る奴はいなくなった。その落差はかなりの衝撃だった。たぶん,大学時代の友人はぞれぞれ何らかの屈折を抱えた奴らばかりで,その屈折に踏み込まずに会話を成り立たせる術を身につけていたのだろう。それは,本当に貴重な出会いだった。
芳弘も俊も,それぞれの経緯で映画にはまり,映画や映像に関する仕事を生業にした。大学時代の友人たちもそれは映画好きばかりだったけれど,いや,彼らとはヌーベルバーグの話はもしかすると一度もしたことがないんじゃないか。ゴダールについてまったく語らずに映画の話ができる友人はこの年になると無茶苦茶貴重だったのだと思う。いや,芳弘や俊との出会いと比べるようなことではないのだ,それは。
俊とは10年ほど前に飲んだけれども,芳弘とは30年以上,音信不通だ。お互い連絡しようのないなかで時間だけが過ぎ,ときどきネットで名前を検索すると,彼が演出したテレビドラマ以外,ヒットしない。
これも以前,書いたはずだが,その頃,芳弘も私も社会人になっていて,彼は六本木のテレビ局で放送されているニュース番組のADをしていた。会社に属していたものの個人事業主のような扱いで,毎年確定申告をする必要があった。そこそこの金額の領収書があったらちょうだいというので,辻潤全集が10,000円くらいで,そのレシートだったらあると伝えた。「六本木まで出てきてもらえるとうれしいんだか」「電車賃かかるよな」。当時,私は業界紙の記者で,相応に貧しかった。「電車賃出すよ」と言われたのか覚えていない。確定申告用にレシートを集めるのに電車賃は出さないよな,たぶん。なんだか腹の虫がおさまらなかったように思う。待ち合わせの時間に六本木のABCまで行って,レシートを渡し,二言三言,それが芳弘と交わした最後の言葉で,内容も何もないに等しいものだった。