転校生

同じように感じたのは映画「トノバン」を観たときのことだった。インタビューを受けただれだったか(つのだひろ?)が,加藤和彦はそのとき懇意にしている友だち以外,古くからの友だちであっても,スッと切るという意味合いのことを話していた。自分はいまの友だちに入っていないんだなあと理解して納得していた,そんな語りだった。

加藤和彦の来歴をたどると,何度かの引っ越しがあり,当然,そのたびに転校したのだと思う。

転校生は地縁に乏しい。明治の学校令と並行して,転校生という生徒が誕生する。サーカスや大衆芸能などとは異なる,親の都合でその土地に一定期間生活する家族が生まれるとともにそれは誕生した。親の転勤や離婚,死別などにより生まれた転校生の歴史はそれほど長くはないに違いない。

好むと好まざるとにかかわらず,住む家が変わり,地域が変わり,そして学校が変わる。だから子どもなりに転校生としての処世術のようなものを自然と身につける。土地に縛られないことを自由と呼ぶのであれば,それは自由だけれども,代償をともなうそれは自由だ。

転校生

東浩紀の活動から,ときどき刺激を受けることがある。たぶん最初は,環境管理社会についての連載のなかで,セキュリティの語源と配慮をつなげたあたりの文章で,それは今も続きをあれこれ考えている。

大塚英志との対談の壊れ具合は,島田荘司と綾辻行人の対談のようで影響を受けたというよりも,これもありなのだと思った。ただ,東浩紀も大塚英志も島田荘司っぽいので,ネガティブな意味合いから面白く読んだ記憶がある。

ゲンロンはときどき覗くくらいで,一回だけ平沢進と斎藤環の対談に出かけたくらいだ。星野博美の著作はゲンロンとつながる前のもののほうがよく読んだ。

数日前,YouTubeで東浩紀と津田大介が6年近くぶりに邂逅するものを見て,これが面白かった。東浩紀の来歴を検索すると,思っていたように転校の経験が記されていたからだ。ああ,東浩紀は転校生だったのだなあと,ただただ感じた。

親の転勤,社宅の都合などで,私は小学1年生から3年生まで毎年1回,転校をした。通ったよう学校はだから4校になる。日吉の小学校は半年ほど,そのあとは宇都宮の2つの小学校を1年,小学3年のときに転校した先の小学校にようやく腰を落ち着け,6年生まで通い,中・高校までは同じ地域に暮らした。

転校のたびに環境がリセットされる転校生は,どこかで友人とのつながりが自分の意思とは関係ないところで途絶える,あきらめのような姿勢を身につけざるを得ない。過度に友人との関係を引っ張らずに,リセットされた先でとりあえずの人間関係を築く。

3回も転校した身になると,そうした処世術は縮小再生産されるようで,ただ物理的距離が数メートル離れただけの友人とでさえも,席替えで関係性が遠くなってしまったこともある。

小学校,中学校,高校,大学と,学校にやってくる人の生活圏が広くなるに従い,なんだか転校生の処世術から少しずつ解き放されていったように思うのだ。

津田大介が東浩紀に言った「友達が必要なんだよ」という意味合いの言葉は,だから転校生にとって,その重みの大小があるにせよ,自分が転校生であることを思い出させるに足るひとことだったように響いた。

CD-R

2002年,iMac G4を手に入れた。有楽町のビックカメラで購入したことは覚えている。しかし,なぜ,あのときにiMac G4を購入しに行こうとしたのかは不確かだった。

その少し前のことだったと思う。昌己と飲んでいたときかもしれない。彼の高校時代の友人である宇治家君からCD-Rが送られてきた話を聞いたことがある。宇治家君とは10年くらい前に,何度かスタジオに入ったことがあり,当時,KORG T3でつくった音源のひとつを気に入ってくれて,みずから打ち込みなおしたものをもらったことがある。

昌己が高円寺に暮らしていた時期,夜中に自販機が荒らされているような音がして,ちょうど車で来ていた宇治家君が「うるせえなあ」と窓を開けて怒鳴った。その話を聞かされたのは,宇治家君が明け方,昌己の家から帰った日の夕方,電話で「あれ,おれの車だった。フロント割られていた。そのまま運転して帰ったけれどな」と言われたからだった。

パソコンでCD(CD-R)がつくれるのか。

2001年~2002年というのはそのような時代だ。iPod発売された頃で,まだiPhoneは登場していない。パソコンでCDをつくることができるのは,なんだかおもしろそうに思えた。

それでiMac G4を買おうと思ったのに違いない。ただし,CD-Rを焼くことのたのしさは1年も続かなかったのではないだろうか。そのうち,アップローダーやLime Wireで音源をやりとりする方向にシフトした。YouTubeが登場して,それも廃れはしたものの。

舵をとり 風上に向く者

“TOUR,TOURER,TOURING””愛と勇気とキャディラック”と”ボーイ・ミーツ・ガール”が1冊にまとまった。いつの日か,篠懸の木のある坂をライトモチーフにした作品が1冊にまとまることをただただ祈るばかりだ。それが,ヘミングウェイの『われらの時代』のようになるのか,北杜夫の『母の影』のようになるのかはわからない。

各篇に流れる時間とエピソードとのバランスは,矢作俊彦の小説からしか得られない独特のものがある。新たな読者が矢作俊彦の短篇に触れる機会となりうるがゆえに,今回の新編集復刊は価値ある試みだと思う。

夕飯

この数か月,金曜日の午後はだいたい義理の息子が事務所で仕事の手伝いをしてくれた。来週から常勤体制になるので,しばらくは手伝いなしですすめることになる。

昼と夜の食事を週一回,ふたりでとることが多かった。昼は事務所から1,2キロくらいのあいだにある店 に出かけ,何軒かははじめていく店だった。夜は軽く酒を飲みながら2時間くらいかけて済ませた。新井薬師の五香菜館に何度か足を運んだ。昭和の終わりにはじめて入ってから40年近く,変わらない味の店で,値段は上がり,週のうち数日の営業に変わったものの,令和になってなお,五香菜館に入れるのは稀有なことかもしれない。

40年前は家を留守にして帰ってくると,五香菜館に出かけ食事をとることが少なくなかった。以前書いたことの繰り返しになるものの,練馬に引っ越した後,数年後,中井に引っ越してからしばらくのあいだは五香菜館に行かなかった。子どもは小さかったし,出かけるには電車でひと駅くだる必要がある。理由をみつけては足を運ぶことをどこか躊躇っていたような気がする。

子どもが小学校に入ったくらいのことだったと思う。ネットで五香菜館の評判が高いのだと昌己がいう。へえ,何を今頃と感じる一方で,まだ店をやっていたんだという驚きがそれを上回った。少しして家内と娘を連れて10年以上ぶりに暖簾をくぐった。何も変わっておらず,ただご主人は少し老けたようなだけで,足が悪そうだった奥さんは見当たらなかった。

それから年数回,五香菜館に出かけるようになった。義理の息子を連れていくと,ラーメンの旨さに舌を巻き,ときどき「五香菜館に行きましょうか」と水を向けられる。この数か月,月に1,2回は行ったのではないだろうか。

手打ちつけ麺とチャーハン,餃子と瓶ビールで二人,夕飯を済ませた。思えば昭和の終わり,私は義理の息子よりもほんの少しだけ若かったのだ。そんなことを思いながら駅まで一緒に行き,登戸下りのホームにわかれた。

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