9/26

大学のときの友人が南千住に住んでいる。学生時代から引っ越すことなく,ただ家に行ったことはない。

先日,山谷で勉強会があり,初めて出かけた。南千住の駅からぐるりとまわって,吉野通りを下る。会場に着いてから荷物を置いて,自転車でまわりを案内してもらう。いろは会商店街にアーケードはもちろんなく,夕方の空は東長崎あたりまで続いている。

いつの間にか,超高齢社会のトップランナーになった山谷には医療,福祉関係などの支援者が集まっている。トップランナーとしての局面と,一方で20世紀の終わりくらいの人間関係が錯綜しているイメージがする。ただただ静かな町だ。22時近くに終わり,明治通りを折れると酔っ払った年寄りは道路に出ては悪態を吐き,タクシーを止めようとしている。どこかでホッとしながら遠巻きに追い越して,三ノ輪駅に向かった。

9/14

吉祥寺で「河原崎長一郎とすれ違った」くらいあたりまえに,高円寺で森本レオを目にしたと徹も昌己もいう。

森本レオの訃報。私にとってはNHK銀河テレビ小説「黄色い涙」の主人公・村岡のイメージは忘れがたい。数年後,「いろはの“い”」で事件記者を演じていた姿も忘れられず,森本レオが演じた役に影響を受けたのだろうなあと思う。

「いろはの“い”」好きが嵩じて,島田一男の小説を読み始めたら,数十年を経て,いまや島田一男の小説とのつながりのほうが強くなってしまった。

1984年に唐突に刊行された「黄色い涙」の脚本は手放すことなく手元にある。一箱古本市に参加するようになったころから,ときどき読み返すようになったのは,なぜだろう。ここ数日,読み返している。「黄色い涙」を見て,質屋という商売というか場があることを知った。そんなことを思い出す。

9/4

1986年8月31日,われわれは浦和駅から歩いて西に向かった。大学3年というと,授業に出る頻度がむちゃくちゃ下がり,数年前の喧騒と疲労の日々からは潮が引き,学内で喬史や裕一と会うことは少なくなっていたような気がする。にもかかわらず,その日,田島ヶ原には,喬史も裕一も,徹も昌己も伸浩も一緒に出掛けたのだった。

屋台が出ていたのか,近くのコンビニで飲み物や食べ物を調達したのかもしれない。いい年をしてピクニック気分で座り込みながらライブを見た。

7月に入り,NHK浦和放送局の土曜日午後の番組で,田島ヶ原で2日間にわたり無料コンサートがあり,そこに「ワンパターン」リリース後のP-MODELが出演するとアナウンスがあった。無料コンサートというのは間違いで,フリーコンサートだったのだ。次週,そのように修正があった。とはいえ,無料とフリーの違いが理解できるほど私は世事に長けてはいなかった。当日,われわれがライブを見ていると,カンパ箱を抱えたスタッフがあちらこちらを回っていたのは当然のことなのだ。喬史はあからさまにそれが嫌な態度をとった。それは,まるでNHKの集金人にするような按配だった。

出演リストでは前日に予定されていたザ・ロンドンタイムスが早めの時間に出てきた。40年間,それはグレイトリッチーズと出演日を交換したのだとばかり思いこんでいた。主催者の浦和ロックンロールセンターの人によると,この日,グレイトリッチーズも出たのだそうだ。まったく記憶から飛んでいた。グレイトリッチーズを見たのは翌年「子どもたちのCity」が始めてだと思っていたのだった。

レゲエバンドが登場し,町田町蔵は絶望一直線と名づけたバンドを伴っていたと思う。レピッシュが恰好よく,ザ・ジャムのように感じたけれども,ファッションを含めてマッドネスを踏襲していたのだと気づくのは,かなり後になってからのことだった。

トリがP-MODELだ。この日の演奏を映した動画が一時,Youtubeにアップされていた。ステージ袖から撮影されたその動画では,ステージは原っぱから少しだけ高い位置のように映っていた。実際には体育館のステージくらいには十分高く感じたのだけれども。

準備のせいかP-MODELの登場は遅れた。昌己は「平沢が来なくて中止になるんじゃないか」と,まるでオペラのアクシデントをたのしむかのように構えていた。しばらくするとステージ上に現れ,ライブが始まった。それまでレコードを繰り返し聴き,とくに「カルカドル」リリース後はもしかしたら平沢よりも横川のほうが才能があるんじゃないかと思っていたら,短期間で脱退,「ワンパターン」はどこか初期のP-MODEL風に感じたものだった。

今ではそんなふうに感じることはないけれども,最初に「OH MAMA!」が鳴ったとき,2ndの「ダイジョブ」が透けてみえるように思った。

その日以来,われわれは東京近郊のP-MODEL行脚の日々が始まったのだ。

8/23

俊とは美術部で一緒になり,帰宅する方向が一緒だったので,部活帰り一緒になることが多かった。

高校というのは不思議な場所で,それまで一度も遭遇することがなかった性格や背景をもった同世代と何人も出会った。何度か書き留めた1年のときの担任が変わったパーソナリティの持ち主で,入学早々,たぶん入学式当日に言われたことが「他人が期待するような返答だけはするな」だった。私はその言葉を真に受けたのだけれども,芳弘や俊などは,いくつものクッションでかわしながら理解していたようだ。

芳弘がどのような背景をもっていたのか,その後,20代の半ばまで頻繁にやりとりしたものの,よくわからない。線路から近くの一軒家に住み,2階の一部屋が彼のものだった。兄がいるとは聞いたけれど,私は会ったことがなかったはずだ。母親を「おばさん」と呼ぶので,反抗期なのかと思っていたけれど,彼の中学時代からの友人は,別の苗字で彼を呼ぶことがあった。ノートに,今でいうところのラノベのようなものを芳弘は書いており,まわりの友人がそれを読むのをたのしみにしていて,そこでの作者の苗字が,中学時代からの彼の友人が呼ぶ苗字だった。てっきり友人間でのペンネームのようなものだとばかり思っていた。

高校を卒業してから彼は現役で地元の国立大学に入り,私は浪人生活が始まった。ところが疎遠になるどころか,もしかすると高校時代よりもの頻繁に彼は私の部屋を訪れたり,長電話をかけたり,たまに連れ立って電車に乗って古本屋に出かけることもあった。友人とやることというと結局,変わりはしないのだ。

あるとき,連れ立って支線と本線をつなぐ駅近くの古本屋まで出かけた。芳弘がこのあたりに親と住んでいたんだ,と言ったような記憶がある。私は彼が引っ越してきたのか,としか思わなかったが,何らかの理由で親と離れて,親戚の家に住むことになり,高校入学を契機に戸籍が変わったのかもしれないと思ったのは,芳弘との疎遠になってからしばらくしてのことだった。

イギリス国教会が政教分離を破ったことについて最低だという認識のはもちろん,サイクス・ピコ協定の非道さについても芳弘に感化され自分なりに理解したのだった。それとこれとは別で,彼はザ・ビートルズが大好きだったし,私が繰り返し聞いたイエスの「こわれもの」は彼から譲り受けたもの,英国のロックが好きだった。

俊は1979年に,「さらば宇宙戦艦ヤマト」のラストは最低だ,特攻賛美じゃないかと言い,中学時代の友人たちにはそんなふうに言う奴がいなかったものだから驚いた。彼と映画「動乱」を観に行ったことがあって--俊は小椋佳のファンだった,これはいいんだなあと不思議に思ったことを思い出す。

中学時代に政治に興味があったり,何らかの知識をもとに語る友人はひとりもいなかった。それがあたりまえだったのだけれど,高校に入った途端,近しい友人がそれぞれに政治に関する話を,これもあたりまえにするので,だいたい同じだけの時間,同じような地域で育っても,いろんな奴いるのだなあと感じたことを思い出す。

大学に入ると,新たな友人たちの性格は高校時代と180度変わって,誰ひとり政治について語る奴はいなくなった。その落差はかなりの衝撃だった。たぶん,大学時代の友人はぞれぞれ何らかの屈折を抱えた奴らばかりで,その屈折に踏み込まずに会話を成り立たせる術を身につけていたのだろう。それは,本当に貴重な出会いだった。

芳弘も俊も,それぞれの経緯で映画にはまり,映画や映像に関する仕事を生業にした。大学時代の友人たちもそれは映画好きばかりだったけれど,いや,彼らとはヌーベルバーグの話はもしかすると一度もしたことがないんじゃないか。ゴダールについてまったく語らずに映画の話ができる友人はこの年になると無茶苦茶貴重だったのだと思う。いや,芳弘や俊との出会いと比べるようなことではないのだ,それは。

俊とは10年ほど前に飲んだけれども,芳弘とは30年以上,音信不通だ。お互い連絡しようのないなかで時間だけが過ぎ,ときどきネットで名前を検索すると,彼が演出したテレビドラマ以外,ヒットしない。

これも以前,書いたはずだが,その頃,芳弘も私も社会人になっていて,彼は六本木のテレビ局で放送されているニュース番組のADをしていた。会社に属していたものの個人事業主のような扱いで,毎年確定申告をする必要があった。そこそこの金額の領収書があったらちょうだいというので,辻潤全集が10,000円くらいで,そのレシートだったらあると伝えた。「六本木まで出てきてもらえるとうれしいんだか」「電車賃かかるよな」。当時,私は業界紙の記者で,相応に貧しかった。「電車賃出すよ」と言われたのか覚えていない。確定申告用にレシートを集めるのに電車賃は出さないよな,たぶん。なんだか腹の虫がおさまらなかったように思う。待ち合わせの時間に六本木のABCまで行って,レシートを渡し,二言三言,それが芳弘と交わした最後の言葉で,内容も何もないに等しいものだった。

8/21

ネットで大杉栄訳『昆蟲記』(第1巻)がおそろしく安い価格で販売されていたので,つい購入してしまった。昭和4年発行の第10刷。

矢作俊彦の「百愁のキャプテン」のなかで,大杉栄が殺害されたことについて,天皇裕仁が「『昆蟲記』の続きは読めないのか」と言ったと甘粕か石原莞爾の言葉で書かれていたような気がする。読み返していないので,他の誰かがどこかに書いた話かもしれない。

辻潤ファンにとって,大杉栄はどうにも明るさが前面に感じられて困った。それは,ザ・ビートルズとザ・ビーチ・ボーイズの対比にも似て,病的爽快さが抱える陰に若い頃はまったく関心が向かなかった。ただ,辻潤とザ・ビートルズになぞらえるのはかなり無理がある。繰り返し書くけれど,辻潤像は,吉行淳之介が「窮死した詩人との出会い」で描いた,こっそりと人の反応を伺う人物像がしっくりする。

先日,『昆蟲記』(第1巻)が届く。昭和4年の本づくりを眺め,変わらない点と変わった点について思い巡らせ,本というメディアの変わらなさにどこかホッとした。

子どもの頃,百科事典が好きだった。それも昆虫や幼虫(当時は,幼虫で1冊の本がまとめられていたのだ)の事典・図鑑は幼稚園の頃から眺めていた。小学校に入り,ポケット版(たぶん学研あたりが刊行したものだろう)の『昆虫』『幼虫』図鑑を手に入れた。テレビでは「仮面ライダー」が放送され,そのモチーフがバッタであることは知っていた。ポケット図鑑を捲りながら,昆虫をモチーフにしたヒーローをつくろうともした。

少年探偵小説にいかれると,昆虫に対する関心はそちらに向かう。数年後,北杜夫小説やエッセイを手あたり次第に読み進めると再び,昆虫との距離は縮まる。そこからはプログレや夢野久作など,知った分だけたのしみが増える出会いが続き,昆虫に関する興味がほとんど失せてしまう。

それでも,たとえば仕事で編集した本に,カマキリの写真を使ったとき,蘇った記憶は,紅茶とマーマレードジャムのそれよりもはるかに濃厚なものだった。私は50歳になっていた。もちろん私の記憶と彼の小説家のそれと比較するようなことにも無理がある。

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