連休

雑誌の搬入・発送準備に加え,5月の新刊の案内,次号の企画などが立て込んでいる。連休中に腰を据えてすすめようと思っていた作業があるものの,仕掛作業によってまだ手がつかない。

4月に矢作俊彦の『舵をとり 風上に向く者』が新編集版として,ちくま文庫から刊行された。「NAVI」掲載が1985年から86年にかけてで,追加された3篇は1990年代に書かれたものではあるが,一冊にまとまっても違和感のない作品が選ばれている。

1985年というと徹や昌己,喬史などと昼から夕方までつるむだけで過ぎていき,家に帰るとぐったりしてしまった頃だ。ただただばかばかしい騒ぎに明け暮れるだけ。懐かしいけれども,いまさら当時に戻りたいとは思わない。

「NAVI」にはだいたい毎月,短篇が掲載され,それが『マイク・ハマーへ伝言』のインサイドストーリーのようなものだったので,ただただ次号をたのしみにしていた。短篇相互の関係には気をとめなかった。何年ぶりかで読み返すと,相互のつながりが見えてくる。すっかり忘れてしまっていたのか,初手から気づかなかったのかはわからない。

SNSでは,当初からの小説内のミスが指摘されたポストがあって,そういうものかと思いもする。矢作俊彦は文章をつくるなかで,小説のなかの映像もつくりかえてしまうことがあるので,一読者としては差し出された文章をたのしむことを優先してきたし,たぶんそのスタンスが変わることはない。

後のインタビューだったか対談で,この短篇連載のなかで文体をいくつか試して,最後に番外編の「スズキさんの生活と意見」でケストナーの文体,つまり説話的にシンプルに書けばよいことに行き当たり,同誌で『スズキさんの休息と遍歴』につながったと語っていたはずだ。以前,書いたような気がするが,たとえば思い描いていた作品に「さめる熱、さめない夢」や「渚のランデ・ヴー」あたりの文体がフィットしたならば,その後の矢作俊彦はどのような小説を書いていただろうかと思う。

書店

先月末で伊野尾書店が閉店した。6月からトランスビュー傘下の書店(初?)としてリスタートするとのことで,この地から書店がなくなることは回避されたものの,どうなることだろう。

20世紀の終わりに引っ越してきたとき,駅を挟んで北側にブックスフレンドがあった。ちょっとしたフェア企画を仕掛けていたりして,当時としては面白い品ぞろえだった。まだ大塚に田村書店があり,往来堂書店ができる前に文脈棚を武器に店を張っていた頃なので,ブックスフレンドの面白さは決して強烈なものではなかった。目白の桔梗屋書店も似たような棚づくりをしていたし,まあ,本が売れなくなりつつあるなかで,当時,試行錯誤が続いていたことを思い出す。

伊野尾書店は,当時,ブックスフレンドに比べると,それほど特徴のある店ではなかった。娘の絵本や雑誌を買いながら,他の本を探すのはだいたいブックスフレンドだった。その頃は橋の北側でそこそこ用事が足りたし,大江戸線で通勤するようになった2004年以降,やっと橋の南側の店に興味をもったのだから,伊野尾書店が特別な書店だと気づくには時間が必要だった。

ブックスフレンドが閉店すると,伊野尾書店で本を買うことが多くなった。今でも覚えているのは,角川文庫版の『マイク・ハマーへ伝言』に自作の帯をかけて並べていたことだった。さすがにこれには親近感を覚えた。

客としてだけ,それから20年近く通い,事務所を開いてからは仕事先として一度だけ,伊野尾書店にお世話になった。以後,店に入ると挨拶するくらいの関係で,先月末の閉店を迎えることになった。

当日の午後,『ひらやすみ』の6巻を買って,さすがに百貨店などが閉店の際にシャッター前に集まって一言二言あるようなセレモニーはしないだろうと思っていたら,会社帰りの娘が寄ったところ,ちょっとした賑わいになっていたという。

4月に入り,ちくま文庫から『舵をとり 風上に向く者』が出た。芳林堂書店に行けば事足りるのだけれど,野方のはた書店まで行って購入した。沼袋の飯野書店でもよいのだけれど,とにかく町場の書店で本や雑誌を買わなければと,ただただそう思うこのところだ。

花粉

今年は花粉症の時期に重なるかのようにトラブルに遭遇してしまったので,いったいどこまで花粉症の症状なのかわからない日々が続いた。ストレス由来で体力がやられて,風邪ひきのような体調にもなったので,この不調は花粉症なのか風邪なのかストレスなのか,ただただ判断に苦しんでいる。

花粉症に関する症状でわかりやすいのは,対処療法薬の副作用に「悪夢」というのがあって,確かに対処療法薬を飲み始めると悪夢を見始めることを何度か書いた記憶がある。悪夢というものをケミカルに発生し得ることに驚くとともに,そうならばその対処方法もあるのではないかと思うのだけれど。

今年は悪夢をよく見る。半月ほど,ストレスが四六時中,頭のなかについてまわっているので,眠ってもその対処などを思い描いているのだろうか,もちろん悪夢に通じるこの間の日々と地続きのような夢が多かった。

花粉症の対処療法薬と風邪薬をそのときの状況に合わせて飲み分け,さらに頭痛が起こるとその対処薬と胃薬を飲む。それが早い対処方法で,もちろん原因に対処したものではないと判断したうえでのことだ。

花粉症を発症して10年以上経つはず。今年の花粉症はなんだかモヤモヤとしたものだと感じる。

このところ

もらい事故のようなトラブルはほんの少しだけ落ち着いたものの,週明けには次のフェイズに移行するはず。それが穏便なフェイズになるか,よりアグレッシブなフェイズになるかはわからない。

“Trouble is my business”などと考えていた頃があったものの,このところtrouble続きで,さすがに慎重に対処すべきだと反省する。

10年に一回くらい,この手のトラブルに見舞われることがある。望んでいるわけではなく,そろそろ安穏に日々,過ごしたくなってくる。

先週末は,調布まで「マンガ家・つげ義春のいるところ展」を観に行った。徹や昌己,伸浩に声をかけて一緒に行く予定だったのだけれども,都合が合わず,徹は1週間前に行ったと聞いた。昨日,つげ義春の訃報が流れ,徹から「ぼくらが展覧会に行ったときは亡くなっていたんだな」と連絡が入る。

1970年代の小学館文庫の『ねじ式』『赤い花』を読んだのがはじめだったと思う。石森章太郎の作品目当てで平綴じの「カスタムコミック」を買ったところ,そこにつげ義春の作品が掲載されていた。1980年のことだった。「カスタムコミック」で1970年代後半から80年代初めの作品を読み,私は大学に入る。

徹のアパートに行ったのが最初か,うちに来たときだったか,つげの話になった。徹や,数か月を置いて昌己ともつるむようになってから,二人とも,『ドカベン』や『銀河鉄道999』あたりの作品から,突然,「ガロ」でマンガに目覚めたところがあることに驚いたことを覚えている。1980年代半ば,大都社の手塚治虫あたりを契機に,メインストリームに触れることになるのだけれど,二人揃って,その後,出会ってきた知人・友人の中には見出すことがない特性とでもいうべきものには今でも不思議に思う。

つげ義春の吹き出しは,独特のテンポがあって,何度か読むと覚えてしまうものがある。学校の行きかえり,喫茶店に向かう途中で,まるでなぞかけのように,二人がつげ義春の吹き出しを諳んじる,それはクイズのようなもので,その続きが答えられるか,ゲームのようなやりとりだった。

しばらくすると「コミックばく」に「無能の人」の連載が始まる。少し前だっただろうか杉作J太郎の「ガロ」デビュー作,金の斧,銀の斧のパロディのマンガが掲載され,数年の間,私たちのなかでは,「コミックばく」や「ガロ」の新しい号が出るのはたのしみのひとつになった。

先輩のシゲさんは,まだ学校に籍があったのか研究生だったのか覚えていない。少し後になって,赤塚不二夫のアシスタント,アルバイトのようなものだったと思うのだけれども,をしていた。ちゃぶ台などを描いていたということで,出たばかりの雑誌に掲載された赤塚不二夫のマンガを開いて,「このちゃぶ台,おれが描いたんだ」と説明してくれた。「おれのタッチ,つげ義春の影響が大きいから,不二夫ちゃんが『シゲ君,タッチが暗いよ』と言われちゃって」。確かにちゃぶ台を描いた線は赤塚不二夫のマンガのなかにはフィットしていなかった。

そのうちに,つげ義春の新作を読むことはなくなり,私たちの話のなかに,つげの吹き出しが突然現れるようなこともなくなった。

数年前,徹の家の離れ,いわゆるシアタールームに昌己と伸浩と4人で集まった。およそサラウンドシステムが機能しないような映画やビデオを見た後,映画『ゲンセン館主人』を観た。そのときのことをときどき思い出す。

ワンオペ

会社帰りに,家内と買い物にでかける。地下鉄の終着駅につながったそのビルは6,7階建てのビル積み木のようにつながり,北西に空いた一画が駐車場になっている。あたりの団地住人がふだん買い物をするのはこのビルしかない。いきおい人でにぎわっている。その平均年齢が高いことはいうまでもない。

花粉症のせいか,このところのもらい事故のようなトラブルのストレスのせいか,昨日あたりから風邪のような症状が続く。市販薬を飲んでも収まらない。それでも日中の用事が済んだので,家内と買い物にでかえることにした。

二人とも昼食が遅かったので,パン屋のイートインスペースで休憩することにした。18時前,昼の忙しさを経て,この後,閉店までどのような按配でパンが売れるのかはわからない。30㎡の店内を50代の店員ひとりでまかなっている。日中はアルバイト2,3名は入れているのだろうけれども,驚いた。

パンを3つ,コーヒーとスムージーを頼み,パンの1つは持ち帰りにすると伝える。店員はレジを打つと,パンをトレイに移し,コーヒーを抽出するためのセッティングを済ませる。バックヤードに移動してスムージーの材料を持ってきて,クーラーから牛乳パックを出してミキサーに入れ攪拌する。抽出を終えたコーヒーとスムージーをトレイに並べるまで3,4分。費やされた時間が問題なのではない。 部分部分での効率化が図られたがゆえに,労働者ひとりにかかる負荷がただただ増えている。

似たようなことを感じたのは2000年前後だった。それまで経てきたプロセスと必要な人員が“破壊”のもとになしくずしになった。刹那的なやりとりが増えるごとに,さまざまなレベルで“破壊”が繰り返された。しばらくすると,後追いのようにシステムがつくられ,個人への負荷が軽減された。

近年感じる労働者ひとりへの負荷で,四半世紀前と決定的に何が異なるかというと人手がないということだ。

パン屋の店員は,私たちの後,2組ほどの客に対応すると,続けてパンの補充を始めた。イートインの客が残したディスポーザブル食器を片づけ,カップを洗い,トレイを拭いて重ねる。

少なくとも1970年代くらいまでは,分業について検証され,数冊を捲ったことがある。当時も領域によっては必ずにも人手が足りているとはいえないなかで分業が行われていた側面を承知の上,それでも人手がないという状況で分業は想定されていなかったはずだ。この場が潰える可能性を想定した検証はされなかったように思う。人手について検討するとき,今,多くの場合に登場するのが「この場,この組織がなくなってしまったら改善も何もない」という脅しのようなものだ。そういう強い言葉とは,さよならをすべきなのだろうと思う。

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