20歳を過ぎてしばらくしても,まっとうな酒を飲む場所に恵まれたわけでなかった。
年末の有楽町のガード下で染之助染太郎をながめたり,新橋方向の高架下にある,見た目は草臥れたカウンターバァで辻まことのポスターを肴に時間を潰すことはあっても,それは仕事の延長だ。私のキャリアとはいえまい。
だから,ジントニックを初めて口にしたのは,20代を折り返そうというくらいのころ。連れられていった四谷のバァ。有線でジャズが流れていた。
「松脂の香りがするだろう。これにヤラれて,肝硬変になった奴,何人もみてきたぜ」
奥まったソファに深々と腰を下ろし,その男は言う。確かなことを聞きはしなかったが,私よりもひと回りは上の世代だろう。当時,存命だった放送作家くずれの冒険小説家を小柄にして,灰汁を強くしたような人物だ。この2年あまり,仕事先で,週に1回は顔を合わせるルーティンが続いたが,それに自ら幕を引くことにした。挨拶に行くと「時間はあるだろう。飲みに行こうや」。右手を握りしめてやってきた先が,そのバァだった。
「マーティニにヤラれてを体壊すなら本望だけどさ,ジントニックじゃな。飲んでみるかい?」
私は頷いた。「オリーブのかわりにレモンピール入れてもらえますか」
小説を諳んじて,そう言ったものの,現実は小説のようには運ばない。バァテンダーの目が一瞬強張ったように感じたのは,気のせいだろう。若者を鍛えようとするバァテンダーなど,もはや天然記念物だ。
「ジャズお好きなんですか」
「世代だからね。聞くことあるのかい?」
「ヘレン・メリルだけです。You’ld be so nice to come home to」
「リクエストだってさ」
マーティニを飲み干し,ジントニックがやってくるまで,その曲はかからなかった。
マーティニはまだ,荷がかちすぎた。
ジントニックは,それからしばらく後,近所にウィルキンスンのジンジャエールを常備しているコンビニを発見し,以来,ジンバックに代わるまで,愛飲した。
ヘレン・メリルのCDは,今,手元にない。