台風が近づいている。通り一本へだてて,海へ開けた公園は横殴りの風雨で,とんでもない状態だ。ガラス越しに「今日,果たして帰れるのだろうか」と,不安が首をもたげる。
明日午前9時から,2,000人規模の会が始まろうというのに,セッティングのスタートは午後8時。おまけに,この天気だ。女性ジャズボーカリストは,不安げに窓の外を眺めている。
自分たちの持ち場の準備を終えた頃,みなの仕事もケリがついたようだ。午後11時をまわっていた。用意のいいメンバーは近場のホテルに部屋をとっていた。「泊まっていく?」冗談じゃない。何がうれしくて(そんなこと,ひとこともいってないが)2まわりの上の異性の寝起きの顔を見なけりゃならないんだ。
「雨,弱くなったみたいだから,今のうち,帰ります」嘘八百で,その場から逃げるように駆け出した。
ドアをあけると台風の目と睨みあい。質の悪い台風は,開場待ちでもするかのように,そこから動かなかった。
広い通りに出るまで,女性ジャズボーカリストと言葉を交わす余裕などありはしない。最終バスはすでに停留所を通り過ぎ,タクシーの空車はしばらく来そうになかった。
雨風を避けながら,場違いの茶飲み話から,いつの間にかバンドの話になった。
「お金とって唄うのって,ジレンマない? 僕らは,それで活動休止したんだから」
深夜の居酒屋での討論を思い出す。あげく,その店は出入り禁止になった。夜中の1時過ぎ,ニューウェイヴバンドとしてのありかたに口泡を飛ばしていたのだから,しかたない。
「夢だからね。そんなこと,いってたらダメだよ」
彼女は,こともなげにいう。
通り過ぎるタクシーのフロントは赤い明りしか映らない。私はそっと聞いてみた。「なんで,始めたの?」
「放射線かける患者さんは,ほとんど,がんなのよ。治療がうまくいかないと,患者さんとは永遠の別れ。でもね,かなしいけど,何か教えられることがあるの。
そのじいさんは,ガンコで時間に厳しい。なぜか気が合ったんだけど……」
「どんな人でも,巻き込んじゃうんだ」
「まあね。このじいさんには夢があった。もう一回釣りにいきたい。でね。私,友達に釣り雑誌,あるのよね,そういうのが。譲ってもらったり,コンビニの地図を勝手に使って,拡大コピーして」
「……」
「目の悪いじいさん見えるように,スペシャルビッグな地図つくったりよ」
「力はいってるね」
「状況は厳しいから,それくらいはしなくちゃ。でも現状維持がやっと。だんだん落ちていってしまうの。なのに,じいさん,もう一回,釣りにいくんだってウキウキして。
あきらめてほしくないよね。つい,それで,いっちゃったの。“私も自分の夢,かなえますから,がんばって”って。そんなこといっても,つらいのよ。そのとき口に出た夢が,ジャズボーカリスト」
「前から,なりたかったの?」
「ううん。そう思ってたって中途半端に決まってるじゃない。でも,それからは必死。英会話ならったり,こっちだって真剣にしなくちゃ」
打ち合わせのとき,人待ち時間に見せてもらった楽譜を思い出す。すきまなく書き込まれたコメントは,まるで指揮者のようだった。
私は,いたずら描きのような,わがバンドの図面を重ねた。少なくとも,そこには音符はなかった。バンド内「治外法権」を謳っていたので,楽譜が必要ではなかったのだ。
「結局,じいさんは亡くなって,夢だけが残されたわけ」
話が終わったからといって,タクシーがやってくるわけではない。ずぶ濡れになりながら,それからしばらく,タクシーを待ち続けた。