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凍結前P-MODELのライブには“ONE PATTERN”リリース後に出かけたくちだけれど,凍結までの2年弱の間に,荒木,高橋が脱退した。P-MODELは4人編成を当時は常としていたので,サポートメンバーでライブをこなしていくことをしなかった。結局,KING CRIMSONには及ばないものの,相当のメンバーがP-MODELを経由した。

1987年に今の中野ZEROホールで荒木が脱退したときの脱力感は今も覚えている。バウハウスのケビン・ハスキンスの影響だと思われるロートタムをあげたセッティングで,2拍4拍にスネアを打たないことを志としているかのようなドラミングは,平沢のギターはさておき,ライブでP-MODELを体験するときの醍醐味だったのだ。

荒木は新潟で石油堀りの跡継ぎのため脱退せざるを得なかったと当時,何かで読んだ記憶があるが,高橋は,関東近郊のライブを2,3回見逃したところ,年末のライブインで,すでにことぶき光に変わってしまっていたので,脱退の経緯(というのだろうか)を知ったのは,20周年記念本のインタビューでだった。

ドラムが荒木から田井中さんに変わったときの落胆はしばらくライブをみるたびに続いた。高橋からことぶきに変わった途端,“ポプリ”の曲の演奏が増えたのがうれしかったので,落胆はしなかったけれど。

くるりから吉田省念が脱退したというニュースを見て,P-MODELやKING CRIMSON,いったい何人メンバーがいると思っているんだと,感じたことが一つ。これはメンバーの脱退が多いとのコメントに対して。

で,今年の武道館ライブは高橋幸宏のDVDのように,完全収録で発売されないのだろうか,というのがもう一つ感じたことだ。いや,とてもよかったので,本当に。

High school age daydream

Facebook経由で高校時代の友人と会う前後,何もなかったはずの高校時代の記憶がいくつか蘇ってきた。

中学のときに入っていた美術部は放課後,ひたすら遊ぶだけだったので,高校で美術部に入ろうと考えたのはその延長線上のことだったと思う。一人で入ったのか,そ奴と一緒に美術準備室の扉を開けたのは覚えていない。イーゼルと木炭,半斤の食パンが目に飛び込んできたとき,すでにそ奴はそこにいたように思うから一人で入部したのだろう。

奇妙なことに,1年のときのそのクラスから美術部に6~7名が入った。私とそ奴以外は,来たり来なかったりで,教室ではあれこれ話すのに,美術準備室で長々と話した記憶はほとんどない。上級生は私を含めた1年生の出席率の悪さに怒った。「こんど休んだら退部だからな」

しかし,結局,1年のときに入った部員は3年まで誰も退部することはなかった。

中学の美術部はそんな塩梅だったので,油絵を描いた経験はあっても,木炭デッサンをしたことはなかった。針金で木炭の芯を抜く感覚が面白かった。

新潮02

続いて2004年第17回三島由紀夫賞発表号。筒井康隆と宮本輝はいまだ審査委員で,高樹のぶ子,福田和也,島田雅彦が加わっている。 このときの矢作俊彦の受賞の言葉を読んで,とても心が動かされたことを覚えている。
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Second hands

目白のブックオフに『愚民社会』(宮台真司,大塚英志)が105円で置いてあった。105円か。買った,もちろん。『消えた漫画家2』は以前買ったものはとっくにどこかに行ってしまったが,ときどき読み返したくなっていたので,これも105円で購入。

そのまま山手通りのほうへ目白通りをぷらりぷらりと歩いて帰った。

15年前の年始,当時1歳だった娘をベビーカーに乗せて,家内とともに目白通りを駅に向かったことがある。正月の三が日とはいえ食事ができる店くらいあるだろうと思っていたのは甘かった。どこも開いていない。その年の正月,下落合(当時から店はほとんどなかったものの),中井,新井薬師,中野と,地元界隈の商店街はとにかく休みをとっていた。

たかが15年前のこと。目白通りには何件もの古本屋があって,家族とこのあたりに出ると,私は古本屋を眺めながら家内の買い物が終わるのを待っていた。道を一本奥に入るだけで,やけに大きな構えの家や奇妙な風景に出会うことができたので,しばしば散歩したものだ。

このところ目白に出かけないなと思いながら,目白通りを歩いていると,なんだかあまりわくわくしてこない。私が年をとったせいかもしれないけれど,わざと裏通りに入って帰ろうなどという気が起きないくらいの素っ気なさだ。

画材屋の2階にあったレストランで家内に誕生日を祝ってもらったのは20年近く前になる。コマース裏にあった地中海料理店で死神博士のような店主に,皇室についてひとくだり説明を受けたり,娘が生まれる前,聖母病院の検診帰りに待ち合わせて風見鶏で昼食をとった記憶も残っている。

目白で食事しようというと,少し背筋が伸びたものだ。

この前,風見鶏で昼食をとったところ,こんなカジュアルな店だったろうかと記憶を辿ってしまった。シャークのランチを先週食べたのだけれど,二転三転してコストパフォーマンスに押しつぶされたような気がした。

新潮

1991年にはパソコンはもっていなかった。いや,NECの98を単にワープロ代わりに使っていただけの頃だ。それに三島賞の結果がパソコンで確認できた時代ではない。だから,選考結果を知ったのは新聞だったはずだけれど,当時の新聞は保存していない。本の山から出てきたのは1991年7月号だ。

当時の三島賞選考委員は,江藤淳,大江健三郎,筒井康隆,中上健次,宮本輝。宮本輝の作品で読んだことがあるのは連載時の「避暑地の猫」くらいで,この当時,どうして選考委員だったのかいまだわからない。前年に単行本化された矢作俊彦の『スズキさんの休息と遍歴』が候補にあがっていて,もしかしたら三島賞を取るのではないかと,内輪では盛り上がった記憶がある。

選考結果のうち,今読んでも面白いのは大江健三郎と筒井康隆のものだ。絵が下手だということで受賞を逃した,もしかしたら唯一の小説家かもしれない,矢作俊彦は。
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