Burnig Question

ロッキン・オン臨時増刊号「BUZZ」に掲載されたRobert Frippと岸田繁の対談。MySpaceではじめてプロに友達リクエストをしたのがくるりだったのは,この対談の印象が残っていたのかもしれない。 掲載時の写真を少し加工したらアントン・コービン風になった。
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軽井沢

北杜夫の文章にしばしば登場し,中井英夫が避暑に訪れていたのは(当然だけれど)生活がよかった時期だと死後,誰かが書いていた。軽井沢というと,あとは加藤和彦の最期という強烈な記憶がある。

週末に季節外れの軽井沢へ家族と出かけた。まだ寒く,時おり強い風が吹くなかで,思いだしたのは猪瀬直樹の『ミカドの肖像』だった。西武線沿線に四半世紀住んでいるというのに,いまだ軽井沢とか箱根とか西武グループがかかわる観光地(?)に違和感を覚えるのはどうしてなのだろう。

Riff

The Kinksを聞いてショックを受けた平沢進は,ギターでソロをとらないと心に決めたと,どこかで語っていた。それはリフで勝負するということなのだろう。

他の誰かが,マーク・ボランとロバート・フリップのつくりだすリフが好きだと書いていたのを記憶しているのは私も同じだからだ。

ミュージシャンに能力の欠乏を決定的に感じるのは,魅力的なリフをつくれなくなったときからではないかと思う。

小説家にとって,1ページのなかに盛り込む文字のバランスは,ミュージシャンにとってのリフのようなものではないかと,ときどき思う。内田百間は生涯,見事にリフを刻みつづけ,昭和の終わりまでの矢作俊彦に同様のトーンを感じたのは,今でも間違いではないと思うのだ。

それはたぶん,小説と活版印刷の幸福な出会いがもたらしたもので,永遠に続くものではなかったと気づいたのは平成に入ってからのこと。Nothing lasts forever of that I’m sure.(Roxy Music)

版面の決まりごとが崩され,1ページに組まれる行数と1行の文字数が,さまざまに変化した。いきおい,文字のバランスは埒外に置かれている。だからといって,初手からポケミスやノベルズの判型を想定して書かれた小説は主客転倒しているように思えるからやっかいだ。

引用

こんな調子で記憶をメモしてきて10年になる。

最近,圧倒的に薄れていくのは書籍の記憶だ。引用先どころか引用したはずの箇所さえ思い出せなくなっている。

WordPress導入前の記憶を掘り起こしていたところ,それぞれのサイトに今も散在するデータが出てきた。今も生きているブログサイトには「鞄のなか」にある本と「購入」した本のタイトルを数か月,記録していたらしい。他のサイトにはMySpaceに上げた以外の音源のデータが残っていた。

以前,大槻ケンジの日記本に触発され「インデックス」をつくってみたが,大槻ケンジの本のように面白いものにはならなかった。かといって購入した本をリスト化してもほとんど意味をなさないので,「日記」で引用した文献くらいデータベース化してみようかと思う。

 

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