OP

スズキさんは――もちろんあのスズキさんのことだけど,サブについているほうが面白い雑誌になるというのは大川悠編集時代の「NAVI」が面白かったから,そう思う。「NAVI」の別冊か増刊の形でまず,中綴じ「OP」が出た。ベトナムが特集で,矢作俊彦は穴埋めの記事も書いていたから,雑誌づくりにかなりコミットしていたのだろう。少し後に平綴じ「OP」が4号まで出て,結果,そのコンセプトは「ENGINE」に移植されたようだ。 で,これなのだが,中綴じ「OP」刊行時の対談だけど,ええと,いったい何の雑誌だったろう。A5判……。
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1982年の東郷隆

東郷隆の『戦場は僕らのオモチャ箱』(徳間書店)が刊行されたのも1982年。

「ねー,ヨコハマ人やってておもしろい?」 「僕は住んでるっていっても横浜のハズレだぜ。中区の人には百姓だと思われている」 「でも,いい気持ちなはずよ。少なくとも桶川の住民よりは,ね」 「……ん,まあね」 「私知ってんのよ。あなたがモノスゴーク横浜人ブリッ子だってゆーの。矢作俊彦の大ファンだってみんな言ってるワ」 「あの人の小説さー。最初はすっごく臭いんだけど,慣れるとクセになるんだよなー。イモ焼酎みたいに……。でもそれだけ」 「知り合いはみんな言ってるワよ。『気分はもう戦争』とかいうマンガに出て来る学生ゲリラ(「メガネ」のこと),あなたにソックリだって。みんな狂ったって言ってたワ。マンガの登場人物と自分を同一視して,アフガニスタンまで同じことしに行くなんて,ほとんど異状よー」 「僕,あんなに軽薄で明るくないよ。それに,あのキャラクターたちがマンガに登場した頃には,たしか僕はもうペシャワルにいたばずだ。関係ないよ。(後略) 同書p.13-14

という感覚が1982年っぽい。 表紙はもはやどうでもいいのだけど,この本についてはオビがあるのとないとのでは,遭遇のしかたがかなり変わったであろうことは想像に難くない。  
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1982

1982年というと,テレビ東京でポッパーズミュージックステーション(記憶ではこのようなタイトルだったと思う。つまりは渡辺POP実の番組)で,平日の21時からASIAやXTCなど,英国のロックバンドのミュージックビデオが流れていた当時,というような言い方を,実は1984年から友人の間ではしていた。 洋楽が面白かったのは1982年をテッペンとする前後数年で,1984年から様変わりしてしまったという認識を昌己と大学時代に合意を得たような記憶がある。 高橋幸宏の初めてのソロツアーはこの年に行なわれていて,NHK-FMでオンエアされたそのときのライブは以後,少なくとも6,7年間,よく聞いた。 私の高橋幸宏の音楽体験は,このときのライブと当時,DJをしていたラジオで流れる音楽,たぶんWILD & MOODYあたりまで,と東芝EMI時代のベスト盤程度で,他は裕一を通していろいろ聞いたから諳んじられるのだけど。 その裕一が還暦コンサートに行けなくなったというので,代わりにBunkamura オーチャードホールへ出かけてきた。 センター街を最後に歩いたのは10年以上前のように思う。昭和の最後の頃,クラブクアトロでライブがあるとここを突き抜けて行ったはずだし,友人との飲み会の集合場所はマイアミだった。終電を逃すとダンキンドーナッツのまずいコーヒーをお代わりしながら,始発を待った。 久々に歩くセンター街は変わっていないように感じた。ずっとこんな感じだったのではないだろうか。ただ,クアトロの下がブックオフになっていることに心から慄いただけだ。 Bunkamuraへもここ数年は行く用事がなかったもののあまり変わっていなかった。ぐるりめぐる段差で転びそうになるのはいつものことだ。 で,コンサート。とにかくアンコール前,オーラス前の2曲,つまりは「Glass」と「Something in the air」に尽きる。どちらもスティーブ・ジャンセンがドラムを叩いていて,それは1982年のライブを否が応にも思い出させる。なんてかっこいいドラムなんだろうと,誰彼となく語り合いたかったけれど,それができないのがとても残念だった。 3時間を超えるコンサートで演奏された33曲の7割くらいは知っている曲で,ニカに向かってからフォローしていないことを含めれば,私たちの世代(の一部)にとって,彼の曲は教養のようなものなのだなあと実感した。 学生時代,裕一が自主制作カセットをつくったことがあって,そのボーカルスタイルが揃いも揃って幸宏歌いだったこと思い出した。私たちの間では,他に「幸宏終わり」という言い方があって,曲の最後をスネアで「タンタタ」と締めることなのだけど,昨日のライブでもいたるところで幸宏終わりが響いていた。

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で,映画「アゲイン」公開の頃の記事は残っている。これは「GORO」に載ったものだと思う。キネ旬にはシナリオが掲載されていて,どこかにあるはずなのだけど。 矢作俊彦のイメージは当時のインタビューと佐山一郎が編集していた頃の「スタジオ・ボイス」で形づくられた。小説だけだったら,これだけ奇矯なイメージにはならなかったと思う。 

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