Care

昨夜,夕飯用に家内が買ってきたお弁当をもって出社。急遽,飛び込んでくる仕事を済ませ,白焼きを戻す。次号の準備をした後,単行本の原稿整理。20時くらいに退社。帰宅後,夕飯をとり,徹が送ってくれた紅茶を飲む。旨い。

フェミニズムとの関連なのだろうか,ケアをキーワードにした企画を目にすることが多い。まあ,SNSでその手の研究者などをフォローしているため,そう映る面が強いのだろうが。

ケアについて考えるとき,東浩紀が20年近く前,途中まで考えたセキュリティの問題を捨て置くことはできない。ただ,21世紀に入ってから,ジェスチャークイズではあるまいし「とりあえず,置いておいて」検討することに新しさの帽子を被せるようになった。セキュリティの語源は「配慮なしに済ませる」ことだという。環境管理型権力とセキュリティについての文脈で登場したこのくだりを読んだとき,結局,私たちが「ケアなしに済ませる」関係を選び取ったのだと思った。美辞麗句でケアを飾り,箱に入れてリボンをかけても,選択した事実は変わることがあるまい。

ケアを長きにわたり貶め,あげく人間工学によって代替し(ようとし)てきた歴史の一端は,たとえば,明治維新後,西洋には診療所ではなく病院というシステムがあることが知られ,そこには看護婦という専門職が患者のケアを行なっていることが知られたとき,この国ではその役割を当初は遊女に,次に浅草弾左衛門を通してその配下に担わせようとした歴史的事実をみても明らかだろう。ケアを当時の汚辱と禁忌にかぎりなく近い場で成立させようとした。これを「貴賤はないことの証しだ」と言い張るようなディベート輩にかかわるつもりはまったくない。

ケア専門職の職能団体が国会議員のもとへ陳情に行ったときの話を聞いたことがある。EPAに関連して外国から国家試験受験資格をとることができる人材が来日する前のことだ。職能団体では,人材不足の大きな要因は賃金が十分でないことにある。賃金を上げられるよう制度改正をし,人材が定着する職場環境づくりに力を貸してほしいと訴えた。ところが国会議員はひとこと「あなたたち,他人のしものお世話など汚い仕事,したくないでしょう。そういう仕事をまかせればよいんだよ」。ただ,こ奴,つまり国会議員はケア専門職の専門性をまったく理解していないこと,みずからしものお世話になるときにどう感じるかさえ想像できない程度の知力しか持ち合わせていないことは理解した,という。

「私のかわりにトイレに行っておいて」といえない,人が生きていくうえで欠かせない機能が,みずからの手だけではこなせなくなったときに,これまでの延長線上でそれらを支援するケア専門職の社会的機能について,まあ,そのリアリティを理解していくことは容易ではない。

で,ケアってなに? というあたり,共通認識があるようには思えないという話は,またあらためて引っ張り出すことにする。

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